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私たちにとって「推しを推すこと」に代わることは何?~宇佐見りん著『推し、燃ゆ』を読んで~

 文学には、純文学と大衆文学との区別があると思うが、私は推理小説や時代小説等の大衆文学の作品が好きで、どちらかというと芸術性の高い純文学の作品は苦手である。その理由は、文章表現における芸術性というものがよく分からないからである。純文学の中の豊かで個性的な言葉遣いや独自性に満ちた比喩的な表現等に接しても、それらから著者が表現したい表象や心情等を読み取り解釈するという能力が乏しいのだと思う。だから、私は芥川賞より直木賞の受賞作品の方を好む傾向がある。芥川賞受賞作品は、よほど何かのきっかけがないと読まないのである。

 

 そんな私が、今回、第164回(2020年度下半期)芥川賞受賞作品『推し、燃ゆ』(宇佐見りん著)を読んだ。なぜか?それは、すでに文庫化されて書店の平場に並んでいたこと、本書の装丁の不思議な美しさに魅了されたこと、そして何よりもタイトルに興味を惹かれたことなどが理由である。もちろん「推し」という言葉については、「ファンが好きな人物」とか「オタクが執着している対象」とかという程度の理解はあった。しかし、「燃ゆ」という言葉の意味はつかみ切れなかったので、「推し」が火事にあった物語?という的外れなイメージをもっていたのである。

 

 正直言うと、私は誰かのファンになったり何かのオタクになったりするという心情がよく理解できない。でも、かく言う私が当ブログの以前の記事で、自分のことを自嘲気味に「思想・哲学オタク」と使用したことがあるが、それは疑似的であることを自覚してのこと。「推し」の追っかけをしたり、関連グッズを収集したりするなど、好きになった人物や対象に固執するような本物の言動を取ったことは今までにないと思う。ただし、好きな作家や学者の本をつい買ってしまうという傾向はあるが・・・。

 さて、本書の内容に少し触れておこう。物語の主人公は、アイドルの上野真幸を「推す」、高校生の山下あかり。彼女はアルバイト先ではミスが多く、学校では成績が悪く、家庭では家族から怠け者扱いをされるなど、様々な不遇感を抱えて悶々とした日々を過ごしている。でも、バイト代のほとんどを「推し」の所属するアイドルグループのライブチケットやDVD、CDなどのグッズに充てて、「推しを推すこと」でままならない日常を何とかサバイブしていた。ところが、ある日「推し」の真幸がファンを殴るという事件が起きてネットが炎上して(燃えて)しまい、結局は引退へと追い込まれていく。この事態に伴って、彼女の日常の歯車が少しずつ狂い始めていく・・・。

 

 本書の記述の中には、「チェキ」や「スクション」などという私には聞き慣れない言葉が散見される。私はやはり20代前半の女性が書いた物語だとやや困惑しながら、それらの言葉をパソコンの検索機能を使って調べてみる。すると、「チョキ」とは「1998年に登場した、取ったその場でプリントが楽しめるインスタントカメラ」のことらしい。また、「スクション」とは「スクリーンショットの略語で、スマホに表示された画面をそのまま1枚の画像として保存できる機能」のことらしい。そんなことも知らんのかい!とツッコミを入れられそうだ。さらに、<とりま明日会見ってことでいいの?>なる文章の「とりま」って何?という始末。これは「とりあえず、まぁの略語で、2000年代前半から登場したらしく、若い世代では一過性の流行語ではなく、今でも当たり前の言葉として使われている造語」らしい。いや~、これも知らなかった!

 

 自分が知らない言葉や表現等に出合うと、文章を読み進めるのが億劫になってしまうが、最近このような場合には読み飛ばすようにしている。それは、特に純文学を読む際に内容を正しく理解しようとするよりも、文体や文脈のもつ著者独自の個性のようなものを感じ取ろうとする方がいいかなと考えるようになったからだ。今までは理性的に作品を理解しようとしていたために読書を苦行のように感じていた。だから、もっと気楽に純文学を楽しむには理性より感性に重心を移した読書法の方がよいのではないかと思うようになったのである。

 

 今回、そのような読書法で本書を読み通してみると、主人公の不可解で息苦しい言動とは裏腹に、私は著者の文体や表現方法等に意識が向いていき、ワクワクした気分に浸っていた。「これって、初めての感覚だな。」と、ちょっと興奮したのである。特に若い世代の純文学を読む時には、この読書法がいいのではないか。私は何かに開眼したようになり、この勢いで本書の読後所感も綴っていきたくなった。

 

 主人公のひかりは、「推し」が所属するアイドルグループのライブに参加したり、「推し」の関連グッズを買ったり、「推し」に関するブログを綴ったりするという「推しを推す」活動によって、輪郭のぼやけた不安定な自我の崩壊を辛うじて防いで何とか生きていた。ところが、「推し」がファンを殴るという事件を起こしたことがきっかけでネットが炎上して(燃えて)しまい、引退に追いやられてアイドルという存在でなくなってしまう。そのために、彼女は自分が一体化していた「推し」という対象を喪失する事態に陥り、一気に奈落の底に向かっていくことになる。

 

 つまり、日常的な苦痛を抱えている高校生のひかりにとって、「推しを推すこと」は今のアイデンティティを辛うじて保つことができていた生の“背骨”そのものだったのである。その生の“背骨”自体が、「推し」の存在が消滅することで崩壊してしまう。これからひかりは、真幸以外の「推し」を見付けようとするのか?否、それはひかり自身が否定していた。とすれば、ひかりは「推しを推すこと」以外の生の“背骨”を見出すことができるのだろうか?

 

 本書の解説で作家の金原ひとみ氏は、「あかりにとって推しとは生きる糧であり、術であり、目的である。そして同時に、今を生きる多くの人にとって推しが切実なものであるという事実は、私たちが生きる社会の寄る方なさを表している。(中略)最後の砦であった家族すら解体され個として生きる他ない人々は何を求めるのか。何と共に生きることを選ぶのか。」と書いている。今を生きる私たちにとって「推しを推すこと」に代わることは何なのだろうか?それを問い続けて自分なりの納得解を見出すことは、私たちにとって逃げることができない切実な課題なのではないだろうか?