ようこそ!「もしもし雑学通信社」へ

「人生・生き方」「教育・子育て」「健康・スポーツ」などについて考え、雑学的な知識を参考にしながらエッセイ風に綴るblogです。

映画化された原作を事前に読む愉しさとは…~塩田武士著『罪の声』を読んで~

 俳優の小栗旬氏と星野源氏が初共演して公開前から話題を集めていた映画『罪の声』が、先月30日から劇場公開された。原作は戦後最大の未解決事件である「グリコ・森永事件」をモデルにした塩田武士氏のベストセラー小説で、その発生日時、場所、犯人グループの脅迫・挑戦状の内容、その後の事件報道について極力史実通りに再現しており、臨場感溢れるヒューマンミステリーになっている。映画化に当たっては、未解決事件の真相に迫る新聞記者・阿久津栄士役の小栗氏と、犯行に使用された男児の声の主で今は京都でテーラーを営む2代目店主・曽根俊也役の星野氏の演技力はもちろんだが、野木亜希子氏の脚本力も高く評価されており、私は早く鑑賞したいなあと思っている。

 

 実は原作の『罪の声』を、私は2か月ほど前に馴染みの古書店で購入していた。そして、しばらくして読み始めていたのが、数十ページ読み進めた時点-大日新聞社文化部記者の阿久津が「ハイネケン誘拐事件」に関する取材のためにロンドンに出張した場面-で何だか気分が乗らずに止まってしまい、いずれその気になったら読み直そうと思って書棚に並んだ本たちの上に横置きしてしまっていた。ところが、今回の映画化の話をTwitterのライン上で見たことが刺激になって、私は次第にその気になってきたのである。私は映画を鑑賞する前に原作の本書を読もうと決意し、つい先日読了した。

 

f:id:moshimoshix:20201109150829j:plain

 

 そこで今回は、映画『罪の声』の原作である本書を読んだ読後所感とともに、読み進める過程で見出した私なりの愉しさについて綴ってみようと思う。

 

 まず、本書の全体的な読後所感から。関西の複数の製菓・食品メーカーを恐喝した未解決事件「ギン萬事件」を、新聞記者の阿久津とテーラー店主の曽根が、それぞれの立場から事件の真相を根気強く取材・追跡していく中で徐々に解明していく物語の複線的な展開は、リアリティー感に満ちたスリリングなものであった。私は毎日、就寝前に本書を読む時間を確保していたが、ついつい先のストーリー展開が気になって睡眠不足がちになったものである。

 

    また、二人の主人公の取材・追跡によって暴かれていく事件関係者、特に犯行に使われたテープの声の主である3人の子どもたちのそれぞれのその後の人生の歩みに、私は世の中の理不尽さや不平等感のようなものを強く感じた。さらに、曽根の伯父と母親が若き日に抱いた社会に対する憎悪感が、独善的な社会正義を生み出し、その結果として俊也を利用してしまった経緯については、私にとってあまり共感することができなかった。だから、私にとってはこの事件の真相の一部については、やや納得のいかない違和感を残した。しかし、このことは本書の文学的な価値を落とすようなものではなく、あくまでの私なりの個人的な不満みたいなものである。

 

 次に、本書を読み進める過程で見出した私なりの愉しさについて。それは、文字で表現された物語のディテールが、どのように映像化されているのか想像しながら読むことの愉しさである。約2時間20分の映画の尺に合わせて、脚本家はどの場面をどのようなアングルや登場人物のセリフで表現しているのだろうか。私のような映画作りの素人には、脚本や演出という仕事がどのような内容であり、それをどのように進めているのかほとんど分からないが、おそらく映画の台本作りに類するものであろうことは想像できる。だとしても、映画の脚本や演出という仕事は、原作の文学的価値を損なうことなく、しかも物語展開の骨子を忠実に保障しつつ、映画作品としての価値をより高めていくことが求められる仕事だと思う。野木氏はどんな脚本を書き、土井裕泰監督はそれを基にどんな映画に仕上げたのだろうか。私は、本書を読み進めながら、映画『罪の声』を何としても鑑賞したいという強烈な欲求が沸き起こってきた。

 

 ここ数年間、映画館に足を向けてなかったが、銀幕に映し出される『罪の声』を妻と共に観るために、久し振りに映画館に出向いてみようかな。新型コロナウイルスの感染予防策を徹底した上だけどネ…。