私には、ともすると子育てに関する常識的な考えを十分に検討し直さないまま鵜呑みにしてしまう傾向があると思う。例えば、「あいさつが基本である。」「たくさんの言葉掛けをする方がよい。」「スマホ育児はよくない。」等々、どれも常識的な子育ての考えだと信じて疑わなかったが、それらに対して「そうでもないのではないか。」と疑問を呈している“目から鱗”の本に出合った。それが今回の記事で取り上げる『ひとりひとりの個性を大事にする にじいろ子育て』(本田秀夫著)である。
本田氏については、以前の記事でも何度か取り上げた本の著者なので、読者の皆さんもご存じの方が多いのではないだろうか。『発達障害―生きづらさを抱える少数派の「種族」たち―』『子どもの発達障害―子育てで大切なこと、やってはいけないこと―』『学校の中の発達障害―「多数派」「標準」「友達」に合わせられない子どもたち―』等の著者であり、医学博士・児童精神科医の方である。その本田氏が、2013年7月~2017年8月まで山梨日日新聞に連載していた「ドクター本田のにじいろ子育て」というコラムを整理し、ある程度共通するテーマを含む原稿をまとめて章立てし直したのが、本書なのである。
私は本書の中にある、上述したような子育てに関する常識的な考えに疑問を呈しているコラムを読んで、何度もハッとさせられた。あまり深く考えずに教育者としての常識だと思っていた考えが、私の認識の中にはいかに多いか。私は改めて問い直してみる必要性を感じた。以下、その事例を紹介してみたい。
まず、「あいさつは基本だ。」という考えについて。著者は、あいさつの効用を認めつつも、世の中にはアガリ症の人や大声が苦手な人、人見知りが強い人等がおり、それらの人にとって「あいさつが基本」と言われるのは大変困ることだと指摘する。また、あいさつは上手だが仕事はサボってばかりという人もいれば、あいさつは苦手だが仕事は真面目にこなすという人もおり、人物として評価すべきはトータルな人柄や仕事の内容であって、決してあいさつではないと書いている。さらに、あいさつを重視する人の中には、「元気よくあいさつする人に悪い人はいない。」とまで言う人がいるが、どちらかというと、うわべだけのコミュニケーションの巧みさで人を騙すような人も多く、あいさつが苦手な人の中には人見知りが強く世渡りが下手だが実直な人も多いのではないかと疑問を呈している。その通りだなあと思う。私は「あいさつは基本だ。」と声高に言うことだけは少し控えようと反省した。
次に、「たくさんの言葉掛けをする方がよい。」という考えについて。著者は、「乳幼児期の子どもにたくさん言葉掛けをする」ことは間違いだとはっきりと否定している。そして、その理由を二つ挙げている。一つは、言葉の「物事に名前を持たせる」という役割の面から考えて、言葉の量を増やすとある物事の名前が一体どれになるのか分からなくなってしまうからというもの。もう一つは、言葉の「他人にメッセージを伝える」という役割の面から、大人が大量の言葉を投げ掛けてくると子どもはうっとうしく感じ、相手とコミュニケーションしたいという自然な気持ちを萎えさせてしまうから。確かに、乳幼児期の子どもに対する言葉掛けは、必要最低限でもいいのかもしれない。私の二女は寡黙なタイプで、幼い長男(私にとっては二人目の孫Mのこと)に対してあまり言葉掛けをしなかったので、私は「もっと言葉のシャワーを浴びせてあげる方がいいよ。」と常識的なアドバイスをしたことがあったが、それは適切だったのだろうか。その後のMの言葉や精神的な成長ぶりを見ていると、二女のMに対する関わり方は適切だったと納得できる点が多い。これまた反省!
最後に、「スマホ育児はよくない。」という考えについて。著者は、スマホ育児を問題視する代表的な意見を二つ挙げている。一つは、「スマホ育児によって親子のスキンシップが減り、子どものコミュニケーションの発達が遅れる。」という批判。それに対して、著者はスマホがスキンシップ減少の原因ではなく、スキンシップを減らしたいという親の需要を満たす手段になっていることが問題だと指摘している。また、コミュニケーションが苦手な一部の発達障害の人に中には、対人コミュニケーションよりスマホが好きだから、結果としてスマホで遊ぶ時間が長くなっている人もいて、彼らにとってスマホは知識や教養を身に付けるための貴重な手段になっているとも言っている。
もうひとつの意見は、「スマホ依存になる。」という批判。それに対して、著者はスマホ依存になる人はごく一部に過ぎず、スマホばかりやる子どもの多くは他に好きなことややりがいを感じることがなくなっていることが本当の問題だと指摘している。だから、「スマホ以外に好きなことがあれば特に問題はない。」と言っている。教員をしている私の長女は公私共に多忙な生活を送っているので、小学1年生の長男(私にとっては初孫Hのこと)と関わる時間が少なく、Hは一人でゲームをしたりYoutubeを見たりする時間が長くなっている。私の妻は「Hがゲーム依存症になってしまったらいけないので、もっとする時間を制限する方がよい。」と常識的な助言をしていて、私もつい同調的な態度を取ってしまっている。しかし、HにはゲームやYoutube以外にも運動や玩具・言葉遊びなどが好きで、縄跳びやけん玉遊び、ワードバスケットゲームなどが大変得意である。だから、私たちの心配は単なる杞憂なのではないかと思っている。もっとHの生活習慣やリズムの方に配慮して、大人たちのよりよい関わり方について長女と一緒に考えていくようにしたい。
ここまで本書を読んで、私がともすると子育てに関する常識的な考えを鵜呑みにしてしまっていたことを知り、反省する内容を綴ってきた。それにしても、私が常識だと思っていることの中には、子育てに関することだけでなく、その道の専門家や達人と言われる人たちが語った言説を十分に精査しないまま鵜呑みにしていることがあるかもしれない。また、高度情報化社会の中でSNSの爆発的な進展や生成AIの飛躍的な進歩等に伴い、不確かな事実のまま流れている情報やフェイクニュースなどに触れることも多くなっており、それらを十分に精査せず鵜呑みにして受け入れ安易に他人に伝えてしまうことは、結果として他人を騙したり傷つけたりしてしまうかもしれない。世の中にはさも事実や真実かの如く溢れかえっている情報があることを認識し、常に慎重かつ意識的に取り扱うことが求められている。さらに、自分の認識を絶対化せず、常に相対化しておく心の余裕も必要だなあと、今回改めて自覚した次第であります。