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「どんなことがあっても自殺してはならない!」~中島義道著『カイン―自分の「弱さ」に悩むきみへ―』を参考にして~

 才能に満ち溢れている若い芸能人の自殺が連鎖している。華やかな芸能界で豊かなタレント性を発揮して注目を浴びている最中なのに、なぜ自殺してしまうのだろうか!?他人から見れば、その動機はなかなかとらえにくい。おそらく、芸能界的な華やかさとは裏腹に、私生活においては他人には推し量れない重い十字架を背負っていたのであろう。私なりの勝手な憶測に基づいて、死を自ら選んだ当事者に対して同情するとともに、心から哀悼の意を表する。しかし、せっかく父母から与えてもらった生命を全うしてほしかったというのが、私の偽らざる本心である。たとえどんなに生きづらい情況に置かれていたとしても…。

 

 今、何らかの理由で生きづらさを痛感している人は、たくさんいるのではないだろうか。家庭生活や職業生活等での悩みに伴う深い絶望感。人生の歩みの中で失敗や挫折をして抱く強い喪失感。特に今は、コロナ禍に伴う社会的な孤立や経済的な困窮に直面して感じる大きな焦燥感、等々。生きづらさの中身は様々であろう。でも、私はそれら様々な生きづらさを感じている人々に対して、強固な眼差しを向けて「どんなことがあっても自殺してはならない!」と語り掛けたい。そのようなことを考えていた最中、随分前に読んだ『カイン―自分の「弱さ」に悩むきみへ―』(中島義道著)という本を思い出し、自宅の書棚の中から探し出し、再読してみた。

 

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 そこで今回は、本書の中の「どんなことがあっても自殺してはならない」という章の内容を要約し、私なりの所感を付け加えてみたい。

 

 まず、著者の中島義道氏の簡単な紹介と私が読んできた著書について紹介しよう。中島氏は、東京大学大学院人文科学研究科修士課程を修了した後、ウィーン大学基礎総合学部を修了。哲学博士。元電気通信大学教授で、現在は哲学を志す人のための『哲学塾カント』を開設している。専攻はドイツ哲学、時間論、自我論。著書は多数あるが、私が初めて出会った著書は『うるさい日本の私―「音漬け社会」との果てしなき戦い』であった。中島氏に対する最初の印象は、「何と拘りの強い強情っぱりな人だなあ。」というのが正直なところ。でも、その次に読んだ『<対話>のない社会―思いやりと優しさが圧殺するもの』の印象は、「至極真っ当な個人主義者ではないか!」私はこの人の著書はこれから注目していこうと思い、その後『人生を<半分>降りる―哲学的生き方のすすめ』『孤独について―生きるのが困難な人々へ』『ひとを<嫌う>ということ』『働くことがイヤな人のための本 仕事とは何だろうか』『不幸論』『どうせ死んでしまうのに、なぜいま死んではいけないのか?』『人生に生きる価値はない』等の著書を読んできた。本書もその読書遍歴の中の一冊である。

 

 次に、本書の中の「どんなことがあっても自殺してはならない」という章の内容に触れていこう。中島氏は、恋人の彼女に自殺されて自分も自殺するか狂気になるしか残されていないというT君に対して、カント哲学を援用して次のようなことを語り掛けている。

 

…親が悲しむからではない。生きていれば「いつかよいこと」があるからでもない。きみはときどきぼくに言ったよねえ。とにかくラクになりたい、と。だが、それこそ―酷であることを承知して言えば―怠惰なんだ。人間として最高の義務に違反することなんだ。これはぼくのカント解釈なんだけれど、「たったこのまえ生まれてきて、たちまち死んでしまうこのぼくという存在は何なのか」という問いを求めつづけること、これが最高の生きる目的なんだよ。答えが与えられなくとも、答えを求めつづけることそのことに価値がある。…

 

 なぜ辛くとも生きねばならないのか?カントは、こういう課題は人間に必然的に与えられていると考えたのだ。そして、これは峻厳な課題ではあるが、絶対的な正解は永遠に与えられないかもしれない。でも、生きている限り、この課題を追究することがいかなる義務にも勝る最高の義務であり、それだけ崇高なものなのである。したがって、自殺はこの義務を放棄することだから、絶対的に義務違反になってしまうのである。

 

    さて、このような著者が強調するカント流の自殺否定論は、果たして自殺をしようとしている当事者の心に響くであろうか。確かに、今、生きづらさを実感しながら何とか生きている情況の中で、「なぜ辛くとも生きねばならないのか?」と問い続けていることは、人間にとっての最高の義務なんだよと意味付けてくれると、絶望の中で微かな希望の灯を点すかもしれない。もしかしたら、ぼろぼろに傷ついた心を多少癒す効果はあるかもしれない。しかし、この考え方で、人生を前向きにとらえていく原動力になるだろうか。私は、難しいと思う。

 

 では、どのような考え方なら、人生を前向きにとらえ、自殺を絶対的に回避することができるのだろうか。残念ながら私のような平凡で怠惰な精神の持ち主には、その明確な考え方を提示することはできない。できないが、私なりに「生きること」に関する断片的な考えはあるので、最後にそのことに触れてみよう。

 

 私は、傍から見て幸せそうに見える人でも、その人生において苦しいことや辛いことは必ずあると思う。反面、艱難辛苦ばかり背負っているように見える人であっても、その人生において楽しさや喜びを味わう場面が誰にでもあると思う。できなかったことが自分なりにできるようになったり、上手にできるようになったりすること。人とのかかわり合いの中で、共感したり共鳴したりすること、等々。他にもささやかではあるが、新しく何かをつくり出す創造的な経験をするであろう。これこそが人生における“悦び”なでなのではないだろうか。私は、このように「人生を創造的に生きること」の意味をニーチェ哲学から学んだ。だから、私としては「どんなことがあっても自殺してはならない」という根拠として、カント哲学の義務論よりもニーチェ哲学のエロス論の方がより説得力があるのではないかと考える。

 

 だから、今、耐えがたい苦しさや辛さに直面し生きる意味を見出しづらい情況に置かれているあなたに言いたい。人生にはまだまだ味わったことのない楽しさや喜びがいっぱいあるよ。せっかくこの世に生を受けたのだから、それらの楽しさや喜びをできるだけ味わっていこうよ。それを途中で放棄するのはもったいないよ。今、耐えがたい苦しさや辛さに飲み込まれているのなら、それを他人に吐き出すことで何とか乗り越えていこう。少しずつでいいから…。そうすれば、いずれその先には創造的に生きる“悦び”を味わえるような瞬間が必ず訪れるよ。だから、「どんなことがあっても自殺してはならない!」