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愛に過去は必要なのだろうか?~平野啓一郎著『ある男』を読んで~

 暑い!本当に暑い!!四国地方の梅雨明けは例年より少し遅かったが、その前から酷暑の日々が続いていた。そのため、私は早くも夏バテ気味になり、当ブログの更新もままならない情況だった。書斎のクーラーが故障していて、パソコンでキーボードを打つなんてことは地獄の所業なのである。もちろん冷房の効いたリビングにパソコンを持ち込めば、涼しい環境で記事を綴ることはできる。しかし、仕事場から帰宅したらもう汗びっしょり。夕食を取りながらビールを一缶飲み干すと、なかなかパソコンに向かう気にはならないという情況に陥っていた。だから、今日は約半月ぶりの記事である。月が変わり8月になったので、気分を一新し衰えた気力をなんとか振り絞って、最近考えていたことを綴ってみようと思う。

 

 さて、今回記事として取り上げるのは、前回の記事で取り上げた『コンビニ人間』(村田沙耶香著)と一緒に市立中央図書館で借りた本である。約1年前に、私が新型コロナウイルスに感染して自宅待機をしていた時に読んだ『マチネの終わりに』の著者・平野啓一郎氏の作品『ある男』である。本作品は、主人公の弁護士・城戸彰良を妻夫木聡、彼に調査を依頼する女性・谷口里枝を安藤サクラ、彼女の亡き夫・谷口大祐を窪田正孝が演じて映画化され昨年11月には公開されていたので、その映画を観たいという気持ちがあるのはもちろんだが、その前に原作を読んでみたいと思っていた。今回(読了したのは、もう2週間も前だが…)、それを実現させたという訳である。

 谷口里枝は、2歳の次男を脳腫瘍で失い、その後、離婚をするという苦労を背負っていたが、今は地元で再婚した谷口大祐との間に生まれた女の子を含めて4人で暮らす、平和で幸せな家庭を築いていた。ところが、ある日突然、林業に従事していた夫・大祐を事故で亡くしてしまう。悲しみに暮れる里枝に、大祐の兄・谷口恭一から「この遺影の男は大祐じゃない。」と、夫が大祐と全く別人であるという衝撃の事実を告げられて呆然と立ち尽くしてしまう。そこで、里枝はかつて離婚訴訟の裁判で担当してもらった弁護士・城戸彰良に、夫の身辺調査を依頼する。依頼された城戸は、「大祐」と名乗っていた「ある男」の、過去を変えて生きていた人生の秘密を調査していくのだが・・・。

 

 いけない!いけない!!また私の悪い癖が出そうになった。ついついミステリー仕立ての謎解きの面白さを伝えたくて、本作品の詳細なあらすじやネタバレをしてしまいそうになった。これから原作を読んだり映画を観たりしようとしている人にとって、興醒めになる仕儀に及んでしまいそうになった。そこで今回は、謎解きのストーリーの面白さではなく、私なりの本作品を読んで考えた「愛に過去は必要なんだろうか?」という少々哲学的な側面に関する所感を少し綴ってみようと思う。

 

 本作品のラストの部分で、「大祐」と名乗っていた「ある男」の凄惨で不幸な過去について里枝が城戸から知らされた後、「一体、愛に過去は必要なのだろうか?」と自問する場面があるのだが、私はこの場面で里枝が出した結論内容に共感した。その内容とは、「大祐」と名乗っていた男は確かに本物ではなかったけれど、夫として自分が愛したことは事実だったと昇華していくものであった。どのような過去を背負った人であっても、自分と深く関わった「今、ここ」という時空間の中で、自分が「愛した」という事実は消そうとしても消せないものである。その事実を否定してしまったら、自分自身をも否定してしまうことになる。

 

 ただし、人は過去に自分が「愛した」人に対して、「今、ここ」という時空間の中で「嫌い」という感情を抱いてしまうこともある。とすれば、「嫌悪に過去は必要ないのだろうか?」という問いも可能になるが、この場合は自分と深く関わったという今までの関係性を示す過去なので、本作品の中で問われている「一体、愛に過去は必要ないのだろうか?」という問いと同定することはできないだろう。

 

 本作品の中で、「大祐」と名乗っていた「ある男」の元恋人だった美涼という女性が、城戸の「過去を含めて愛したはずなのに、それが嘘だと知ったら一体何を」という問いに対して、次のように応える場面がある。・・・「わかったってところから愛し直すんじゃないですか?一回、愛したら、終わりじゃなくて、長い時間の間に、何度も愛し直すでしょう?色んなことが起きるから」・・・その通りだなあと思うが、愛は断絶してしまうこともある。「そんな愛は“本物の愛”ではない」という声が聞こえてきそうであるが、一般的にはよくある愛の顛末である。だとすれば、「“本物の愛”に過去は必要ない!」と断言することができるのだろうか?もう少し深く考えてみたい哲学的テーマである。