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誰でも「普通」ではない面があるのではないの?~村田沙耶香著『コンビニ人間』を読んで~

 私は時々、昼休みの時間を利用して職場近くにある市立中央図書館へ足を運ぶことがある。つい先日も暇つぶし程度の感覚で訪れ、特に当てもなく小説のコーナーをうろついていた。すると、私の目が、黄色地に黒の字で書かれたある本のタイトルに惹き付けられた。以前、私が初めて参加した紹介型の「読書会」で、やはりその時に初参加していた20~30代くらいの女性が紹介していた『コンビニ人間』(村田沙耶香著)である。第155回(2016年)芥川龍之介賞・受賞作。翻訳本を含めて全世界発行部数は累計100万部を突破した作品である。

 

 当時のテレビ・ニュースで著者の若い女性が受賞の喜びをコメントしていた映像が、私の脳裏に微かに残っていたので、本作品に対して多少の興味をもっていた。その上に、読書会に参加していた女性が語っていた本作品の感想に対して、私が主人公の特徴がある発達障害をもつ人の特性と類似していることを話したことも思い出し、私は本書を手に取った。現代美術家金氏徹平氏の作品『Tower』を使った装画が、不思議な魅力を発酵していて、そのまま書架に戻すことに躊躇いがあったので、借りることにした。

 子どもの頃から変わり者で人間関係を築くのが苦手なまま成長し、大学時代に始めたコンビニのアルバイトを30代半ばになるまで続けている主人公・古倉恵子は、私生活のほとんどを「コンビニでの仕事を円滑に行うため」という基準に従って過ごしつつ、なんとか「普通」の人を演じ続けてきた。しかし、自身の加齢と、それによる新たな世代の人間との干渉が増えたことにより、そのような「普通」の生き方は徐々に限界に達しつつあった。そんな時、恵子はかつての元バイト仲間の白羽という男と再会する。そして、再会した白羽の半ば一方的な頼みにより、二人は奇妙な同居生活を始めることになるが、そのことは恵子にとっても「普通」を演じ続けるためには好都合であった…。

 

 本作品は、現代社会において「普通」という多数派の人々の行動様式や価値基準等に合わせることが苦手な主人公の視座から物語を展開させる中で、「普通でない」人の息苦しさや困難さを、「コンビニ店員」という具体的な生き方を通して独自なユーモアを醸し出しつつ滲み出すように描いている。主人公の本心の声、<「普通」じゃないとダメなんですか!>が、本作品全体から聞こえてくるからこそ、「普通」を演じることの息苦しさや困難さを実感している多くの読者から支持を得ているのではないか。私は、本作品を読み終えて、そのように思った。

 

 私は、この2年間ほど特別支援教育指導員として、ADHD(注意欠如・多動障害)やASD(自閉スペクトラム障害)、DCD(発達性協調運動障害)等という発達障害をもつ子どもの「困り感」を少しでも軽減することができるような適切な支援のあり方を追究してきた。その中で痛感してきたのは、私の性格や特性等を振り返ってみると「困り感」の程度は違うが私自身にも類似する点があり、その意味では多数派がもつ「普通」とは異なる点があるということ。極論すれば、自分が「普通」だと自認している人でも、よくよく内省してみると、「普通」とは異なる面が認められるのではないだろうか。

 

 もしそうだとすれば、本作品の主人公・古倉恵子のもつ息苦しさや困難さは、大なり小なり誰でも心当たりがあるものなのである。このことを自分は「普通」の人だと自認している人が自己了解することができれば、発達障害をもつ人を始め、何らかの「困り感」をもつ人の息苦しさや困難さを今よりは軽減することができ、「多様性」を認める居心地のよい社会を実現していく一歩になるのではないだろうか。