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「ネガティブ・ケイパビリティ」のもつ意義について~「100分de名著」における夏目漱石著『夢十夜』に関する解説内容から学ぶ~

    3月のNHK・Eテレ「100分de名著」は、「夏目漱石スペシャル」。取り上げているのは、漱石が西洋小説の形式と格闘した『三四郎』『夢十夜』『道草』『明暗』の四作である。毎回四作の内の一冊ずつ取り上げて行う放送内容は、NHKアナウンサーの安部みちこさんとタレントの伊集院光さんによる軽妙な司会の下、講師の東京大学教授の阿部公彦氏が独自の作品解釈によって解説をしていくもの。「100分de名著」ファンであり、夏目漱石に多少なりとも関心をもっている私は、その作品世界の魅力を堪能しながら毎回視聴している。

 

 我が郷土とのかかわりが深い青春小説『坊ちゃん』や、飼い猫の視線から人間社会を滑稽に風刺的に描いた『吾輩は猫である』、罪の意識に苛まれ続けた男の末路を描いた『こころ』などの漱石作品を私は読んでいたが、その他の作品の多くはずっと書棚に行儀よく並んだままで今までは手を出すことがなかった。いつか読もう、いつか読もうと思い続けていたものの、なかなかそれを実行することはなかった。今回の「夏目漱石スペシャル」の視聴を契機にして、少なくとも私の書棚に並んでいる未読の作品には遅からず目を通してみようと思っている。しかし、今回取り上げられている四冊の内で私の書棚にない本がある。それは、『夢十夜』である。では、なぜ私は買わなかったのか。それは、書店でさっと目を通した時に、おどろおどろしい夢の話が多く、何となく楽しめそうにないと直感したからである。ところが、今回『夢十夜』が取り上げられた2回目の放送を視聴したり、その部分のテキストの解説内容を読んだりしてみて、私の意識は変わった。俄然、興味が掻き立てられたのである。

 

 そこで今回の記事では、その私の意識が変わった理由とも関係している「ネガティブ・ケイパビリティ」という概念のもつ意義について、阿部氏の解説内容を参考にしながら書いてみたい。

 

 『夢十夜』は漱石が西洋小説的なルールを無視し、もっと自由な書き方をして読者をおもしろがらせようとした作品ではないかと、阿部氏はとらえている。その際に漱石が意識して使ったと思われるのが、人間の魂の根底にある「ゴシック(暗黒時代の中世をイメージさせる語)的想像力」。具体的には、夢という設定を用いることで、日頃は見えない怪奇なものを読者の前に展開させている。『夢十夜』には死、遠い過去、荒涼とした風景、謎めいたセリフなどがふんだんに出てくるのである。しかも、全てが夢にすぎず、しかもその夢に対する「感動」が欠落している。言ってみれば、「こころ」がないのである。しかし、『夢十夜』には『三四郎』とは一味違う「こころ」が描かれていると、阿部氏は主張する。その「こころ」を描く手法として注目しているのが「ネガティブ・ケイパビリティ」という批評用語なのである。

 

 「ネガティブ・ケイパビリティ」とは、19世紀の英詩人ジョン・キーツシェイクスピア作品の力を説明するために用いた批評用語で、「世界や対象のわからなさや不可解さを分からないままに捉える消極的能力」のことを表す。そして、この「ネガティブ・ケイパビリティ」という語は、近年、狭い文学の領域を越えて、医療と哲学や文学などを繋ぐメディカル・ヒューマニティーズ(医療人文学)の領域で使われるようになっているらしい。例えば、死を目前にした患者に医師はどう対応すべきか、という問いに答えを出すには、科学の知見だけでは十分でないことも多く、とりわけ精神医療の現場において、この概念が活用されているという。精神科ではマニュアルから外れる症例も多く、患者との対話を重ねれば、理論に当てはまらないことも多く出てくる。精神科医には、謎や不思議さを、そのままぐっと受け止めねばならない場面が出てくるのである。だから、この概念が有効なのである。

 

 「わかったふりをしない。無理に答えを出さない。」という宙ぶらりんの力。これは文学が得意とするところであるが、医療は文学からヒントを得たのである。反対に、文学もこの医療の態度を参考にしていいと阿部氏は言っている。また、漱石が晩年に唱えた「則天去私」、自然をそのまま受け止めて自我から解放されるという考え方と、「ネガティブ・ケイパビリティ」には近いものがあると、大変重要な指摘をしている。漱石は、近代個人主義の考え方を我が国の歴史的・社会的経緯を踏まえて高く評価し「自己本位」の生き方を肯定している。反面、その近代的自我による「自己本位」の生き方の矛盾や苦悩などについても深く洞察していたのではないかと私は考えている。その漱石が悪戦苦闘しながら近代的自我の在り方についての思索を深めた末に、晩年になって「則天去私」という宗教的な思想を提示した事実を考えれば、私たち現代人の自我の在り方を問い直す上でも、この「ネガティブ・ケイパビリティ」という概念は大きな意義をもっているのではないだろうか。