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人間関係の相対化の方法としての「個人幻想」について~「100分de名著」の吉本隆明著『共同幻想論』のテキストから学ぶ②~

 前回、私が強い関心を抱いた第3回放送分の解説内容のポイントを整理してみたが、今回は、もう一つの関心事であった第4回放送分、人間関係の相対化の方法としての「個人幻想」について、講師の先崎氏の解説内容のポイントを整理してみようと思う。思うようにはうまく要約できないかもしれないが、私なりにチャレンジしてみたい。

 

 まず、吉本は『共同幻想論』の「祭儀論」の項で、「個人幻想」(時に「自己幻想」とも言う)をめぐって、「原理的にだけいえば、ある個体の自己幻想は、その個体が生活している社会の共同幻想にたいして、〈逆立〉するはずである。…」と語っている。換言すると、「理念的に言えば、共同体と個人には緊張関係が存在しているはずである。…」ということになる。また、その続きの文章では、「個体にとって共同幻想は、〈同調〉や〈欠如〉、〈虚偽〉と感じられる。」という主旨のことも語っている。つまり、吉本は「個人幻想」と「共同幻想」の関係を、より繊細に描こうとしているのである。

 

 次に、吉本は本書の「巫覡論」の項で、芥川龍之介による自伝的小説『歯車』を取り上げ、出身階級にも小説家として所属する高尚な社会にも、自分の居場所を見出せない主人公が、この二重の自己嫌悪に精神を消耗させ、ついに自死してしまう苦悩に自らを重ね合わせている。そして、『歯車』の主人公が朦朧状態になっている場面と『遠野物語』において「第二の自分」が浮遊して出歩く事例を比較して、後者の死は集落の「共同幻想」に関わっているのに対して、前者の死の予感には「共同幻想」が一切存在しないことを示した。つまり、芥川は知識人のサロンという「共同幻想」にも、都市下層庶民の「共同幻想」にも所属できなかった結果、自死を選ばざるを得なかった。自死という方法でしか「共同幻想」から離脱し、相対化することはできなかったのである。この芥川の死は、個人が「共同幻想」を相対化することの困難、人と人との「関係」がいかに複雑な機微をもつかを教えてくれると、先崎氏は記している。

 

 では、「共同幻想」に対して〈逆立〉の可能性を見出す「個人幻想」とは、一体どのような特徴を示しているのだろうか。残念ながら、『共同幻想論』にはこの疑問に対する答えは書かれていない。そこで、先崎氏は本書から離れて、吉本の様々な発言からそのイメージを提示している。

 

 先崎氏は、『共同幻想論』が書き始められた頃の吉本の「自立の思想的根拠」と「個体・家族・共同性としての人間」という講演を取り上げ、「知識人」「大衆」「自立」という3つのキーワードに注目した。吉本は、大衆から知的に上昇し、西欧の知識で頭を一杯にしている程度の「知識人」などどうでもよいと考え、日々の生活の中で次々に起こってくる諸事に一つ一つ対応する「大衆」の姿に「自立」の思想的根拠を見出し、「個人幻想」のモデルを探り出そうとしたのである。そして、「個体・家族・共同性としての人間」の中に、次のような3つの本質的なことを見出した。

○ 吉本は自身を「思想家」と呼んで「啓蒙家」と区別している。啓蒙家が大衆を抽象的で大量の人々の群れと見なすのに対して、吉本は大衆を地道な生活者ととらえ一人一人の貌が見えるように描いている。これが「大衆の原像」という言葉の含意であり、徹底的に政治的なものを拒否しているのである。

○ 吉本は政治的な大衆運動の一つである、ベトナム反戦運動を評価しなかった。なぜなら絶対の正義があると錦の御旗を立て、その旗下に群集した大衆は自己絶対化に陥っているからである。この無条件で自らを正しいと信じる集団こそ最も警戒すべき共同体、「共同幻想」の一形態なのである。

○ 吉本は「沈黙の言語的意味性」(「沈黙の有意味性」とも言う)という最重要概念を取り上げている。日々の生活と労働を黙々とこなし、一人一人なすべきことをやっている生活者は、自分の生活リズムを決して手放さない不器用さをもっている。これを「沈黙」と名付け、彼らは普段、政治問題に関心を示すわけではない。しかし、国家とりわけ法的規範が日常の生活リズムを奪う時、彼らは政治に注目する。こうした態度を、吉本は「沈黙の有意味性」と呼んでいるのである。

 

 先崎氏は、この「沈黙の有意味性」に支えられた大衆こそ、「個人幻想」(あるいは「自立」)の原型にちがいないと語り、吉本が夏目漱石の『思ひ出す事など』という随筆を取り上げて、さらに詳しく説明していると解説を続けている。漱石は回向院で相撲を見た際、四つに組んだまま互いに少しも動かない相撲取りは一見静止しているように見えるが、実際は互いに全精力を傾注している姿に注目し、それを「誤殺の和」と言った。相撲の場合はこの緊張は一分ももたずに勝負は決してしまうが、人間はその全生涯を力技でやっていく存在であり、生きるとは力を込めて組み続けることであり、生涯四つに組んで大汗を流し、最後は疲れ切って死んでいくこと、これが人間の本質ではないかと、吉本は悟るのである。

 

 吉本は、この漱石の作品に「大衆の原像」を読み込んだのである。生活とは、秩序を支え続ける不断の営みのことであり、ただそれだけの中に、ささやかだが劇的な一人の人生が隠されているのではないかと考えたのである。平凡が非凡であること、非凡な営みに支えられて、ようやく日常という秩序が成り立っていることに気付くこと。吉本はこの「気づき」を「裂け目」と名付け、「自立」するための根拠だと強調したのである。

 

 最後に先崎氏は、「共同幻想」と「個人幻想」のするどい対立例として、小林多喜二の小説『党生活者』に対する吉本の評価に言及している。国家権力の眼をかいくぐり共産党活動に従事する主人公の私が、同棲をしている女性タイピストの笠原に、もっと貧しい大衆を引き合いに出し倫理的に責めるという態度について、吉本は知識人が大衆をマッスと見なし、自分の政治活動のために左右に振り回す啓蒙的態度だと解釈する。一方で、笠原の生活条件をよりよくしてあげようと気づくこと、これが「裂け目」のことであり、「沈黙の有意味性」に他ならないと考え、これを取り戻す方法はどこにでもある男女の葛藤を処理するという常識の中にしかないと判断する。そして、このような吉本による文学を素材として「個人幻想」の特徴を探る姿勢は、「あるべき文学の姿とは何か」を論ずるものでもあった。

 

 文学とは、徹底的に個人の人生に拘る営みであり、徹底的に政治的に人間を見ることへの、ことばによる抗いである。人間をマッスとして取り扱い、自分の政治目的に利用できるという考えを「技術主義」と名付ければ、技術主義こそあらゆる「共同幻想」が隠し持つ毒である。解毒はことばによって、生活の「裂け目」を描くことによってなされる。先崎氏は、このことが吉本のメッセージであり、「個人幻想」だと解釈している。

 

    私たちは常に、「共同幻想」がもつ魔力に惹きつけられやすい存在である。しかし、吉本が考える「自立」した個人とは、一つの情報を信じ一気に凝集するのとは正反対の存在である。私は、絶対的な人間関係としてとらえる「共同幻想」を相対化する方法として、吉本が考えたような「自立」した個人としての「個人幻想」を持ち続けるという「平凡な非凡さ」をこれからも大切にして生きていきたいと、密かに心に誓った。