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夫が妻を介護する老老介護について考える~上野千鶴子著『男おひとりさま道』から学ぶ~

 前回の記事では、『妻の終活』(坂井希久子著)という小説に触発されて、「男おひとりさまの老後を見据えて」の対応について自分事としてとらえ考えたことを綴ってみた。その中で、今後自分がおひとりさまになった時を想定してみると、今から精神的かつ生活的自立を図っておくことの大切さをしみじみ痛感した。また、まだまだ様々な対応についても考える必要があると思い、そのために参考になりそうな本を探し始めた。すると、上野千鶴子氏のベストセラー『おひとりさまの老後』の続編ともいうべき、その名も『男おひとりさま道』という本を見つけた。前作と比べて、内容的にはほとんど重複するところはない。両者の出版のあいだにある2年間に、著者はさらに取材したり研究したりして新しい情報を得ており、自分の考えをより進化させていたのである。

 本書は、男おひとりさまの老後について様々な視点から取り上げた内容が満載で、私の関心事に応えてくれる内容であった。全体の構成は、「第1章 男がひとりになるとき」「第2章 下り坂を降りるスキル」「第3章 よい介護はカネで買えるか」「第4章 ひとりで暮らせるか」「第5章 ひとりで死ねるか」となっており、私はなるほどなあと唸りながら読み通すことができた。そして、その中で改めてハッとして読み返した箇所があった。それは、男おひとりさまになる前の、私があまり措定していない状況に対する対応である。具体的に示すと、妻が何らかの事故や病気によって寝たきりになり、私がその介護をしなければならなくなった状況である。

 

 というのも、たまたま今夜観ていたNHKEテレのハーネットTV『特集「意識不明」を生きのびて(1)/回復を信じて』の中で、病気が原因で意識不明になった妻の介護を続けている50代の男性を密着取材したドキュメントがあり、死別の番狂わせだけでなく、介護の番狂わせだってあるとリアリティをもって私は自覚したからである。でも、私に妻の介護を責任もってすることはできるのだろうか?妻に言わせると、「夜も熟睡できない介護生活はあなたには無理!」と言われた。そこで、私は本書の第1章の中にある「男が介護を引き受けるとき」の文章を再読して、改めて自分の在り方について考えてみることにした。

 

 著者は、2012年版(今からもう10年以上前だが・・・)の高齢社会書の中で同居の家族介護者の30.6%が男性であると知って、驚いたと言っている。つまり、在宅で家族を介護している人の3人に1人近くが男性なのである。続柄でみると、一番多いのが「夫」、次が息子、婿は皆無に等しいらしい。また、夫婦世帯の妻の側からも、希望する介護者の続柄として、娘や嫁よりも「配偶者」の優先順位が高くなったという。だだし、この選択は夫婦関係がよい場合に限るらしい。この点、私たち夫婦は仲が良い方だと思う(私だけがそう思っているのかもしれないが・・・)ので、私が介護することを妻は拒否しないのではないかと思う。でも、問題は実際に老老介護を私が担うことができるのかである。

 

 本書の文章に戻ろう。高齢の夫婦の場合、定年後の夫は妻が要介護になると、使命感を感じて、「おれの出番!」とばかりに頑張ることがあるらしい。長年の仕事で培ったノウハウや経験を生かし、妻の服薬管理や生活管理、ヘルパーさんやケアマネージャーとの交渉等、てきぱきとこなす。また、妻の体調管理が生きがいとなり、毎朝体温と血圧を測って、パソコンに記録を入力したり、インターネットで情報収集して、いろいろな介護法や看護法を試してみたりする。このようなタイプの夫の介護のことを「介護者主導型介護」というらしいが、この介護の問題点は介護される妻が夫のそれに文句も言わず従わなければならない傾向が起こって、夫の妻に対する支配力が高まり、「愛情」という名のもとにますます美化されるということ。

 

 つまり、する側とされる側とで、強者と弱者の力関係ができてしまう介護になるのである。「よい介護」とは、何といっても介護される側にとって受けたい介護のことで、介護される側がどうしてもらいたいかが基本なので、介護する側が主導になってはいけない。私がもし妻を介護する状況になったら、この「介護者主導型介護」という落とし穴に陥ってしまいそうである。さらに、このような老老介護を続けていると、特に夫はいずれ息切れし疲労困憊な状態になってしまうと、「いっそ、ひと思いに・・・」などと刹那的な感情に流されて実行してしまうこともある。私はこのことを他人事ではなく自分事としてとらえた。くれぐれも自戒しておかねばならない。

 

 このようにとらえたのは、私だけではない。本書の解説を引き受けたジャーナリストの田原総一郎氏も、その文章に中でこの箇所を取り上げて、入浴の介護の場面を想起しながら自身が妻の介護に使命感を覚えていたこと、そしてそれが老後の愛だと充実した気持ちだったと正直に述べている。・・・私は、“愛”だなどと勝手に思って、女房を“介護されるボランティア”にしてしまったのではないか。女房に対して“愛”という名の所有意識をもっていたのではないか。・・・田原氏は上野氏の文章が突き刺さって容易には抜けないでいると述懐している。

 

    私たち老夫婦は今のところ心身共に健康であるが、これからどうなるかは神のみぞ知るである。田原氏のような思いに至らないように、いざという時に決して「介護者主導型介護」にならないような心構えをもち、これから「要介護者主体型」の具体的な介護法についてしっかりと学んでいこうと思う。