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スポーツは見えない?

    以前、日本経済新聞に「スポーツは見えない」というコラムが掲載されたことがあった。著者は、美学者の伊藤亜紗氏である。私はこの表題を最初に見た時「??」と思った。「スポーツは見えない」とは、どのような意味なのか。また、「見えないスポーツ」などあるのだろうか。頭の中が疑問符だらけになった私は、いつの間にか本文を目で追っていた。

 

 著者は「目の見えない人のスポーツ観戦」をテーマに、NTTと共同研究しているらしい。視覚障がい者のような身体的条件が異なる人と、どうやったら一緒にスポーツを楽しむことができるのか。それは新しいスポーツの楽しみ方を探る挑戦でもあるとのこと。共同研究では、言葉もデバイスも使わないで、「動きの質感」を再現することに焦点化したそうである。使ったのは、手ぬぐい、段ボール、モップ、うちわ、ペンなど。身の回りにある日用品を使って、その種目ならではの質感を表そうと試みたという。例えば、柔道には手ぬぐい。まず、目の見える二人が手ぬぐいの両端を持つ。それぞれ担当する選手を決め、実際の試合の映像を見ながら、手ぬぐいを上下させたり引っ張ったりしながら、選手の動きや攻防を再現する。そして、この上下左右する手ぬぐいの真ん中を、目の見えない人が持つ。手ぬぐいの動きに体ごと翻弄されながら、選手同士の力のせめぎ合いや緩急を感じてもらうという訳である。手ぬぐいは道着と素材が近いから、布の張りを表現しやすいのである。

 

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 私はここまでの内容を読んで、確かに今まで試みられてきた「言葉で説明する方法」(言葉)や「視覚情報を振動や聴覚に変換する方法」(デバイス)とは異なる実感的な観戦になるなと感心した。ただし、この「動きの質感」を再現する方法はデバイスの変形型であり、この上に言葉による説明を加えるとより分かりやすいのではないかと思った。だが、この方法では、それぞれの有効性が相殺されてしまうのだろうか。実際に体験した視覚障がい者の方の感想を聞いてみたいものである。

 

 著者は続いて、次のようなことを述べている。この「動きの質感」を再現する方法は、試合を再現している目の見える側も、何だかとても楽しく感じるらしい。楽しい、というかだんだん本気になってしまうそうなのだ。実際の試合は映像の中で行われているのだが、布を引っ張り合っているうちに、選手が憑依したかのように勝ちたくなってしまう。伝える、というよりは試合をもう一つ起こす感じに近いらしい。そして、研究を進めるうちに、そもそも私たちはスポーツを見ながら何を見ているのかが気になってきたという。リズムや力ならまだしも、「気」としか言いようのないものを見ていることだってある。目に見えないものを見ることなのかもしれない。見えないその種目の本質とは何なのか。著者は、「見えないスポーツ図鑑」を作るのが今後の目標だと締め括っている。

 

 私は「見えないその種目の本質」の中身についてしばらく考えを巡らせてみた。著者が言うように、「気」としか言いようがないものなのか。はたまた、試合中に醸し出される「トポス」(濃密な空間)のようなものなのか。私にはつかみどころがないものだが、これはスポーツを観戦する上で、視覚障がい者だけでなく健常者にとっても面白い視座になるかもしれないとふと思った。