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江戸時代の村医者の矜持に共感!~青山文平著『本売る日々』を読んで~

 11月に入って、喉の痛みや鼻づまり、肩こりなどの花粉症のような症状が起きて、ついには声が出なくなってしまったので、2日(金)の午前中に年次有給休暇を取ってかかりつけの耳鼻咽喉科で診てもらうと、何と「風邪だ。」と言われた。この2~30年ほど風邪を引いた記憶がなかったので、「えっ、本当?」と正直思った。でも、よくよく考えてみると、10月最後の土・日に我が家を訪れていた二女たちは微熱を伴う体調不良の状態だったので、もしかしたらその際に何らかの風邪の原因となる細菌かウイルスが感染したのかもしれない。

 

 ともかくも、私は11月3日(金)~5日(日)の3連休中、医師から処方された薬を正しく服用しながら、不要不急な(懐かしい言葉!)外出は避け二階の和室の布団に横になって自宅療養をしていた。幸いにも、各種の症状は徐々に軽減してきたので、10月末に市立中央図書館から借りて読みかけていた『本売る日々』(青山文平著)を思い出し、寝床での読書を再開することにした。そして今朝方、読了した際、何とも言えぬ清々しい気分に浸ることができた。

 そこで今回は、その理由について本書の内容紹介の概要も加えながら綴ってみようと思う。

 

 著者は、2016年に『つまをめとらば』で第154回直木賞を受賞した青山文平氏。私の好きな時代小説作家の一人である。『白樫の樹の下で』『伊賀の残光』『鬼はもとより』『かけおちる』『約定』『半席』『春山入り』『励み場』『遠縁の女』『底惚れ』『江戸染まぬ』『跳ぶ男』『泳ぐ者』等を読み継いできて、私は青山氏が描く江戸中期の成熟した時代の中で、懸命にもがきながら生きる人々の姿に大いなる共感を覚えるのである。

 

 本書も、江戸期のあらゆる変化の担い手である在の人々の生活や人生を、本を行商する本屋の私(松月平助/松月堂店主)を語り部にすることで、赤裸々に生き生きと伝える青山流時代小説である。本の版元になること=開版が密かな夢である主人公の平助が、小曽根村の名主・惣兵衛を訪ねた時に起こったある事件とその顛末を描いた「本売る日々」と、「鬼に喰われた女(ひと)」「初めての開板」の3編からなっているが、私は最後の「初めての開板」の中に登場する佐野淇一(きいつ)という医療現場に立つ村医師の矜持を示す言葉に強く共感した。

 

 それは、平助が医療現場で得た知見を惜しみなく門人たちに教える淇一に対して、苦心を重ねて辿り着いた成果は当家の秘伝として御子息にしか伝えないものではないのかと問う場面で、淇一が発した次のような言葉である。

「医は一人では前へ進めません。みんなが技を高めて、全体の水準が上がって、初めて、その先に踏み出す者がでるのです。そのためには、みんなが最新の成果を明らかにして、みんなで試して、互いに認め合い、互いに叩き合わなければなりません。それを繰り返していくうちに、気が付くと、みんなで、遥か彼方に見えた高みに居て、ふと、上を見上げると、もう何人かは、それより高いところに居ることになるのです。一人で成果を抱え込むのではなく、俺はここまで来た、いや、俺はそこよりも先に居ると、みんなで自慢し合わなければ駄目なのです。」

 

 現代医学においては当たり前の認識であろうが、でもどの分野でも共通した認識かと言えばそうでもないと私は思う。私たちは、この江戸時代の村医者の矜持をもう一度見直してみることが大切なのではないだろうか。風邪を引いて自宅療養をしていた身の私にとって、この言葉は服用していた薬の効用を裏付ける認識でもあると強く実感した。身体の健康と共に精神の健康をも取り戻したような、清々しい読書体験になったことが嬉しい今日この頃である。