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健康ストレスを解消する新・健康論~『健康という病』から学ぶ~

   先日、妻と近所のスーパーマーケットに買い物に行った時、ある食品の陳列棚を見て唖然とした。その前日、テレビの健康番組で老化防止や長寿に役立つと喧伝されていた食品が、その陳列棚からほとんど姿を消していたのである。健康で長生きしたいという人々の欲望の凄さに、改めて驚いた。

 

   しかし、私はその人々の健康志向の欲望の強さに少し違和感をもった。あまりにも「健康」への欲望が強すぎるのではないのか。加齢によって老化現象が進み、身体のどこかに痛みを感じたり機能が低下したりするのは当然のことではないのだろうか。私がそのような違和感を抱きながら何気なく手にしたのが、『健康という病』(五木寛之著)という本である。

 

   御承知のとおり本書の著者は、1967年に『蒼ざめた馬を見よ』で直木賞1976年に『青春の門 筑豊篇』他で吉川英治文学賞を受賞し、その後も『親鸞』『蓮如』『他力』『大河の一滴』『林住期』等の著書を精力的に上梓し続けている長老の大作家である。その五木氏が今まで実践してきた自身の生活習慣や養生法等についての極意を惜しみなく披歴したのが、本書である。

 

   では、以下にその極意の一端を私なりに要約しつつ、簡潔な所感を添えてみたい。

 

 「はじめに」で著者は、近年の健康情報の氾濫の中で常に健康不安(ストレス)に怯えている症状を、「健康という病」と呼んでいる。そして、その氾濫する健康情報とどう向き合い、どのように生活に役立てていけばよいかを自分事として考えたいと、本書の執筆意図を述べている。

 

   次の「『健康でありたい病』の私たち」の章では、マスコミ報道の中でヘルス(風俗)情報からヘルシー(健康)情報へと移行してきた内容の多様性はあきれるほどで、しかも科学的に実証されたという正反対の意見が堂々と報道されていると述べている。具体的に挙げている実例は、睡眠・肥満・食事等に関する健康情報。「一体、どちらの情報を信じたらいいのか。」このような現状も健康不安を高める要因になっている。それに対して著者は、ヘルスリテラシー(氾濫する健康情報の中から信頼される情報を選択し、それを活用する力)を養うことの大切さを強調してしいる。

 

 「健康情報とどうつきあうか」の章では、健康論や養生に関して趣味として取り組むのはいいと著者は持論を展開している。「それなりに健康に気づかいつつ、気楽に暮らすというのがいま考えられる最良の健康法なのではあるまいか」という考えに、私は共感した。何事も「ほどほど」「中庸」が一番なのだと思う。

 

 「養生するか、病院頼みか」の章では、戦後70余年、歯科は別として病院とまったく無縁の暮らしを続けてきたと言う著者の養生法が披露されている。呼吸・運動・生活習慣等に関して「これまで何度となく体調に異変をきたしたときも、強情を張り通して病院にはいかなかった。自分なりに工夫して、いろんな症状をやりすごしてきた」らしい。「自分の体は自分で治す。治すのではなく、治める」をモットーにして生きてきたそうだ。ところが、80歳を過ぎた頃から自然の老化現象として「左脚の痛み」には勝てなくなった。そして、この現実の「痛み」を解消してほしくて、ついに軍門にくだったとのこと。老化には勝てない!

 

 「『身体語』を聴くということ」の章では、「治療より養生」を基本にし、その第一歩は「体が発する信号(「身体語」)を的確に受け取ることだ」と主張している。このことを著者は持病とも言える偏頭痛を治めようとした実話を述べて、結論として大切なのは「養生は自己との対話だ」と言っている。これらの考えの根本には「人間は生まれながらにして病んでいる」という健康観・疾病観があり、私はこれに同意する。

 

   最後に「健康寿命と老いについて」の章では、「人生 100年時代を迎えつつある今、後半生をどう生きるか」と著者は問う。健康寿命という考え方にとらわれず、人間は老いる存在であり、個人間の健康格差も大きいことを自覚すること。そして、私たちは今、「老い」や「死」の新しい考え方、新しい死生論を求めており、それを明るく冷静に論じることが大切だと本書を締めくくっている。

 

 私は本書を読みながら、「この内容は健康ストレスを解消する新・健康論だ!」と強く感じた次第である。