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安楽死するための哲学~小浜逸郎著『癒しとしての死の哲学』から学ぶ~

     今まで私は、誠実かつ真摯に医療に取り組んでいる医者たちの本音として勧めている「自然死」のことや、西部邁氏の自死の動機としての「尊厳死」的な死生観など、人間の「死に方」について言及した記事をいくつか書いてきた。そこで今回は、その「死に方」の一つである「安楽死」について、『癒しとしての死の哲学』(小浜逸郎著)の中に所収されている論考「安楽死するための哲学」の内容をまとめながら、私なりの所感を加えてみたい。

 

 最初に、著者の略歴や著書群について若干の説明をしよう。小浜氏は横浜市生まれで、横浜国立大学工学部卒業後、家族と共に学習塾の経営をしながら評論活動に取り組んできた。現在、国士舘大学客員教授で、評論家。著書には、『学校の現象学のために』『可能性としての家族』『症状としての学校言説』『先生の現象学』『方法としての子ども』『正しく悩むための哲学』等があり、その他の共著も含めると多数の評論集を上梓している。私が教職に就いていた時には、先に紹介したような学校論・家族論・子ども論を展開した著書群を愛読し、よりよい教育実践の在り方を探究する上で大いに刺激を受けたものである。その著者が、独自の視座から「死の哲学」を展開したのが本書である。

 

 では、本書に所収されている論考「安楽死するための哲学」の内容に触れていこう。

 

    まず、高齢社会の中で私たちは長寿者になって「いかに醜さをさらさずに死ぬか」ということを意識せざるを得なくなっていると著者は言う。ただ長く生きたってしょうがない、大切なことはいかによく生きるかだ。ぼけたり体が不自由になったりして、周囲に迷惑をかけてまで長生きしたくないという思いはおそらく誰の胸にも宿っているだろうと、多くの人々の本音を指摘する。

 

    また、ある全国世論調査の結果を基に、ほとんどの人が「尊厳死」の意義を認めていると表現しても過言ではないと言っている。そして、「安楽死」と「尊厳死」との区別を明確にしている。「安楽死」とは、末期患者に対して患者の同意に基づいて呼吸を止める注射などによって積極的に死への手助けを行うことと定義し、行為としては確信的な殺人または自殺幇助となること。一方「尊厳死」とは、「安楽死」との誤解を避けるために作られた言葉で、もはやこれ以上医療行為を続けても苦痛を増すだけで回復が不可能であるとの医学的判断のもとに、人工呼吸装置を取り外すなどのかたちで延命措置の打ち切りをおこなうことと定義し、これは医学的な根拠があり、かつ本人あるいは家族と医師との間に明確な合意があれば、法的に問題にならない行為であること。そう考えれば、「尊厳死」というのは、医療技術が発達し過ぎて簡単に「自然死」させてくれなくなったところに発生した問題であるから、そうした技術の無意味性を医者・患者・患者の家族がいかに共通認識としてもつかという話であると主張している。私はこの点については著者の考えに全く賛成であり、生前から家族に対して「尊厳死」の意志表示をしておくつもりである。

 

    一方「安楽死」については問題点が多い。1991年に起きた「東海大学付属病院安楽死事件」や1996年に起きた「京都の国保京北病院院長の安楽死騒動」などは、これらの医師に理性の喪失や行き過ぎた信念という欠陥を見出すことができるのである。しかし、「早く楽にしてやってくれ」という家族の悲痛な叫びを医師としての行為を動機づける重要な条件の一つとして判断していることにおいて、間違っていない。そして、このことをどう判断するかということが、これらの事件から共通に引き出すべき問題だと著者は主張している。今までの「延命治療」はその多くが人命尊重の理念の蔭に隠れて、惰性的な義務感覚やアリバイ作りの動機から行われてきた傾向が強いので、生前に本人の意思表示がなく、終末期に医師が判断を迫られるような状況下では、著者が言うように家族が示す「姿態」が事実上大きな力を発揮する現実を受け入れる方がよいと私も思う。もちろんその時々で状況が違うので、全ての事例を簡単に一括りにしてしまうのは危険だとは思うが…。

 

    このような「安楽死問題」について著者は言う。末期患者が意識を喪失してもはや死がカウントダウンの段階に入った時、基本的に家族がその運命について決断をする権限があることを認めたい。ただし、判断を下した結果引き起こされること、心理的負担などは、医師でも看護師でもなく、自分たちが全て主体的に引き受けるという条件を家族が承認するという前提である。家族の一員としての私たちは、現代におけるこの使命の一つについて、よくよく主体的な引き受けを覚悟しなくてはならないのである。

 

    最後に、私たちは死というものが個人の生の中で占める意味について、より一般的なかたちで哲学することを必要としているようであると著者は締めくくっている。「家族の共同性」を、人間の生にとって、最も深い現実的根拠を有する共同体であると考える著者だからこそ、この論考の中で「個人の死もまた、家族の中でこそ一つの物語として生き続けることができ、家族は否応なくその成員の死を生きる」という「死の哲学」を語ったのだと思う。この論考を読みながら、生活世界に生起する「家族の共同性」に関する様々な事象そのものを現象学的アプローチから深く考察する必要性を、私は痛感した次第である。