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「世間」との関係における「妬み」の構造について考える~佐藤直樹著『暴走する「世間」で生きのびるためのお作法』を参考にして~

 今回の内閣改造の目玉の一つは、小泉進次郎衆議院議員環境大臣への登用である。このことについてのNHKのニュースの中で、「小泉議員の環境大臣への登用に関しては、自民党内からも妬みや批判の声が出ています。」というような解説がなされていた。私は、この解説の中で「妬み」という言葉が使われていることに違和感があった。小泉議員の何に対して、妬むのであろうか。フリーアナウンサー滝川クリステルさんと結婚したからか。それとも、これまでは安倍総理大臣に対してある程度の距離を置いていたにもかかわらず、まだ30代の若さなのに大臣に登用されたからか。その真意は図りかねるところはあるが、まあおおよそそのような理由が挙げられるであろう。それにしても、「妬み」という構造とはどのようなものなのだろう。私がぼんやりと思索らしきものを巡らせていたその時、前回の記事で取り上げた『「教養」とは何か』の著者である阿部謹也氏と共に、1999年に「日本世間学会」を立ち上げた佐藤直樹氏の著作に『暴走する「世間」で生きのびるためのお作法』があることを思い出した。というのは、その中で「妬み」の構造について論述していた部分があることを微かに記憶していたからである。私は約10年振りに再読してみた。…今読んでも、なかなか面白いことを書いている。

 

 そこで今回は、本書の内容を参考にして、まず「世間」の概念やオキテなどについて説明し、次にその「世間」との関係における「妬み」の構造についてまとめ、最後に私なりに考えたことを綴ってみたいと思う。

 

 本書は、佐藤氏が2008年1月~4月の間、「毎日新聞」の新聞時評に連載した、徹頭徹尾「世間」の問題性について指摘した記事を編集したものである。ここでいう「世間」とは、我が国において万葉以来1000年以上の歴史をもつ「3人以上の関係に存在する共同観念」であり、恋愛関係や夫婦等の2人の人間の間で成立する対幻想とははっきりと区別される共同幻想である。町内会、学校、会社、役所、組合、政党、メディア、暴力団、学会、教会、趣味のサークルなど、ありとあらゆるところに重層的に存在するこの「世間」が今から10年ほど前に暴走しているために、多くの国民が生きづらくなっていると認識した著者が、「世間」の基本的なオキテや具体的な役割等を明らかにし、その「世間」を生き延びるために必要な「お作法」について述べたものである。

 

 今から10年ほど前と言えば、小泉進次郎議員の父、小泉純一郎氏が総理大臣として経済のグローバル化に対応するために、「新自由主義」に基づく構造改革規制緩和等の政策を推し進めた時期である。これらの政策は、西欧社会において生まれた「個人」の存在を前提にした「自己責任論」や「成果主義」の考え方を導入したが、もともとそれは我が国の「世間」のオキテとは矛盾するものであったために、ひきこもりやうつ病等の様々な病理の原因を作り出したのである。多くの読者の方は、日本は明治維新を契機にして近代国家を形成した「個人」やその「個人」からできている「社会」があるのだから、そのような議論を展開するはおかしいのではないかと言われるだろう。しかし、「日本世間学会」の創設者の一人である阿部謹也氏は、日本には未だに「個人」も「社会」も存在しないと生前言っていた。その理由は、明治時代に日本が「近代化」政策を進める中で、西欧の「Individual」を「個人」、「society」を「社会」と翻訳して輸入したが、その同じ意味では使われることができなかったからである。言い換えれば、日本では伝統的な「世間」という人間関係が存在していて、日本人はこの「世間」の関係に縛られてきたからである。

 

 では、この「世間」の具体的なオキテとは、どのようなものなのだろう。次に列挙してみる。

○「贈与・互酬の関係」…贈り物をし合うことによって、お互いの関係を円滑にし、持続させること。

○「身分制」…男性・女性、先輩・後輩、目上・目下、長男・次男等の序列意識、差別意識

○「共通の時間意識」…個人の時間でなく、皆一緒の時間を生きているということ。

○「呪術性」…お地蔵さん、お稲荷さん、スピリチュアルをはじめ、俗信や迷信の類のような「霊的なもの」。

これら以外にも、上述に列挙した4つのオキテから派生する「排他性/差別性」「ウチとソトとの区別」「権力性」「儀式性」等がある。1000年以上の歴史がある「世間」は、日本の「近代化」とともに「社会」へと変わるはずだったのだが、今までは消滅することはなかったし、今後も消滅することはないだろう。だから、この「世間」のオキテを見極めることは、非常に大事なことなのである。「世間」にどっぷりと浸かっている以上、「世間」のオキテに対して、日常的な行動の一つ一つをどうするかという「お作法」が常に問われるからである。

 

 さて、問題はこの「世間」との関係における「妬み」の構造についてである。著者は、本書の〈第7章 格差社会のお作法―「妬み」の構造―〉の中で、当時起きた秋葉原無差別殺傷事件を事例にした「格差社会論」を展開しながら、次のようなことを述べている。

 

 現在出てきている格差社会論の難点は、格差問題が存在するのがまさに「社会」であると思い込んでいる点にあり、それが日本固有の「世間」であることを見逃していることにある。欧米流の「社会」ではなく、日本固有の「世間」の問題を考えない限り、この問題の解明は不可能である。つまり、私たちが本当に考えなければいけないのは、格差の拡大や固定化が「社会」ではなく、「世間」で起きているということである。

 

 格差社会の成立とともに、もともと日本の「世間」に存在した「身分制」が、「ママカースト制」と呼ばれるような「新しい身分制」として装いを変えて登場してきた。ここで面倒なのは、「世間」には同時に「共通の時間意識」があって、人々の間に「皆同じ」「皆一緒」という意識があることである。そのために、競争や格差はあたかもないものかのように装われる。しかも、「平等でなければならない」と考えるために、日本独特の「妬み」の意識が生まれるのである。

 

 秋葉原無差別殺傷事件を起こしたK被告は、肥大化した格差社会の中で学歴という「身分」にひどくこだわっていて、高学歴の者に対して「妬み」を持っていた。しかし「世間」では「妬み」を表面に出せば、「共通の時間意識」があるために、「優しい関係」を作っていけない人間として排除される。初めは「優しく」接していた人間も、あきれて逃げ出してしまった。事件直前のK被告のサイトは、そんな状況だった。これらのことを一般化すれば、日本では同一の「世間」の内部では「優しい関係」は築くものの、それは表面的なもので、実際には激烈な心理的競争がある。そしてこの競争が、独特の「妬み」を生み出すのである。

 

 私は、上述のような指摘内容に対して、共感するところが多い。私自身、小さい頃から母子家庭で育ち、経済的にも貧困状態であったから、常に「世間」の人々に対して「妬み」のような感情をもっていたことを認めざるを得ない。何か一つの歯車が狂っていたら、K被告のようなヤケを起こしていたかもしれないと思うと、ゾッとする。しかし、私はヤケを起こすことはなかった。それはなぜか。自分自身を改めて振り返ってみると、中学・高校の頃に何となく私は自分が「世間」の「身分制」の中にいることを意識してきて、「個人」としての自覚を高めていくことで、「他人は他人、自分は自分」と考えられるようになってきたと思う。きっとこのような精神的な成長が、格上の他人をそれほど妬まなくようになったのであろう。このように「世間」とほどよい距離を取りつつ、自分を柔らかい「個人」として形成していくことは、現在でも肥大化している格差社会の中でよりよい人生を送るための「お作法」の基本になるのではないだろうか。