ようこそ!「もしもし雑学通信社」へ

「人生・生き方」「教育・子育て」「健康・スポーツ」などについて考え、雑学的な知識を参考にしながらエッセイ風に綴るblogです。

私はどのように本を整理しているか?~安原顯【編】『私の「本」整理術』に誘われて~

     私は自分のことを「読書家」だと自認している。ただし、子どもの頃はあまり読書をした記憶はない。読書の面白さに目覚めたのは、大学時代である。受講する講義内容に関連した社会科学的な研究書を読むことをきっかけにして、人文科学的な本にも興味をもつようになった。また、社会派推理小説家の松本清張氏の作品群にのめり込んだのも、20歳前後であった。大学卒業後は教職に就いたので、自然と教育関連の本を読むことが多くなったが、推理小説との付き合いは続き、内田康夫氏や深谷忠記氏、島田荘司氏などの作品群はかなり読んでいる。また、興味があれば現代小説や時代小説、伝奇小説等も手にすることが増え、気が付けば我が家の蔵書数は結構な量になってきた。

 

    それ故、もう20年ぐらい前になるが、自宅を新築する際に「小さくてもよいから、自分の書斎が欲しい。」と妻に懇願して、私は3畳程度のささやかな書斎を手に入れた。その書斎の北東向きの窓がある壁と押入れがある壁の反対側の2面には、大工さんに備え付けの書棚を作ってもらった。以来、私がそれまでに買ったりその後に買い求めたりした本たちは、その書棚の中に並べられている。今では、前後2列に並べても収まり切らないので、小さな本立て3つと2・3段の本箱6つ、そして移動式の少し大きめの書棚2つをその都度購入して、それらに分割して並べている。時に私は並べている本たちを眺めながら、それぞれの本にまつわる出来事などを思い出し、あれこれと思索を巡らせることを愉しんでいる。

 

f:id:moshimoshix:20191107090456j:plain

 

    そんな私は、時々「もっと本を整理した方がいいかなあ。」と思い立ち、何度か自分なりの基準で整理したことがある。だからか、先日、県の生涯学習センターの図書館に立ち寄った際に、『私の「本」整理術』(安原顯【編】)という題名に妙に惹かれて手に取った。ページを捲ってみると、著名人49氏が自分の「本」の整理術についてエッセイ風に綴っている文章が所収されている。なかなか面白そうなので、早速借りることにした。

 

 そこで今回は、それらの著名人のエッセイ風文章の中で興味をもったものを数点取り上げながら、私なりの「本」の整理術についての思いや考えを綴ってみたいと思う。

 

f:id:moshimoshix:20191107090552j:plain

 

 写真評論家の飯沢耕太郎氏は、職業柄、高価で重くてでかい写真集を購入することが多いので、それを収納する本棚を置くスペースがなくなり、中には段ボールに入れたまま『土門拳全集』(全12巻)を玄関に2年余り置きっぱなしにしていると書いている。しかし、今さら本格的に本の整理をする気にはならないらしい。そこで、対策として考えられるのは、本の一部をどこかに移動してしまうこと。つまり、専用の書庫のある部屋を借りるとか、体育館のような巨大スペースに百個くらい本棚を並べるとかの夢が実現できないものかと…。私の蔵書数は今のところまだ何とか自宅の書棚などに納まっているので、飯沢氏のような夢想は抱いていないが、もっと広い書斎にすべきだったと今さらながら後悔している。

 

 その点、文芸評論家の奥野健氏は、家を建て替えた時、12畳ぐらいの書庫をつくり、周囲にぐるりと本棚、真中に7段10個裏表の約1万冊入る可動書架をつくったそうだ。うらやましい限りである。そして、そこに作家別、アイウエオ順に文学書を並べて文学者の名前をラベルに書いて貼り、他の内外の文学全集や歴史物、地誌、科学書などは周囲の本棚に並べたと言う。しかし、その後も本は増え続け、作者別に分類した書架は満員になり、あふれ出す。周囲の本棚は二重に本が並べられ、遂には書庫の狭い床に本が積み上げられるといった状態になったらしい。そこで思い切って半分ぐらい処分しようと思い立ち、生きているうち読めそうな本、論じそうな作家だけ残して、後は処分したとのこと。私は、奥野氏ほど徹底して分類してはいないが、作家別、新書別に本を並べたり、ジャンル別におおよそまとめたりして、整理している。だが、その後購入した本によってその整理の仕方が崩れていくことがあり、何度か他の場所へ移動して従来の整理・分類術を維持している。ただし、奥野氏のように処分するまでには至っていない。私は、以前せめて文庫本の各種小説を処分したいと考えていたが、その相談を妻にした時になぜか「処分することはないのじゃないの。」と言われて、頓挫してしまった。妻はどうして賛同しなかったのかな?

 

 哲学者の鷲田清一氏は、自分の部屋の壁面は書架で覆われ、その中はもちろんその前にも様々な雑貨が乱雑に置くことになり、身の回りが物でぎっしりになっているらしい。しかし、鷲田氏は、それが不思議に快く居心地がいいと書いている。その理由を「ぎっしり物が詰まった部屋はボディコンのミニドレスのように膚に吸いつき、密着し、内部へとくい込む感じ、逆に何もない部屋は、壁が服の生地になって、からだ全体が溶けだすだぶだぶのドレスの感じ。」と、〈わたし〉と身体の関係のアナロジーとして表現していて、私は何となく分かったような気分になった。人間は物に取り囲まれて、空間に余裕がないほうが、意外と実存的な不安をあるがまま受容するような身体的なメカニズムが備わっているのかも知れない。でも、私はあまりに雑然とした混沌の空間にいるのは苦手なので、増殖する本たちの整理・分類を過度にならない程度に心掛けたいと思う。それにしても、鷲田氏の世界にはまだまだ入り込めそうもないなあ…。