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子どもたちの豊かな道徳性を培う読み物資料について考える~遠藤周作著『スキャンダル』を読んで②~

 前回の記事において、私なりの「スロー・リーディング」の実践をした『スキャンダル』遠藤周作著)の中で、私が小学生時代のある思い出を想起させた場面があった。それは、本作品の中で重要な役割を果たす登場人物のマダム・エヌこと、成瀬夫人が医療ボランティアとして働くある病院の小児科病室で、「内山茂」という男の子に童話を語っている場面である。実は、その時に語っている童話の内容というのが、私の懐かしい思い出の中核にあるのである。

 

 私は小学生の頃、放課後に学校の運動場でクラスメイトとボール遊びや鬼ごっこをしたことや、帰宅後に町内で近所の友達とかくれんぼや忍者ごっこをしたことは結構詳しく覚えているのだが、学校の授業場面についてはほとんど鮮明な記憶が残っていない。そんな私が、高学年の時のある道徳の授業で活用された副読本の内容については、かなり明確に覚えている。それは、「幸福な王子」というイギリスの童話を読み物資料にしたもの。広場に建てられた王子の像が、冬が到来する前に飛び立とうとしていた燕に頼んで、宝石でできた自分の目や体じゅうの金箔を貧しい人々に分け与えてしまうというお話である。では、このような童話の内容が、なぜ私の中に深く眠っていた記憶を呼び覚ましたのであろうか。

 

 私はこの場面において成瀬夫人が男の子に語って聞かせた次のような箇所を読んだ時に、ある道徳的な感情を伴って明確に思い出した。「友だちはみな暖かい国に行ったけれど、その燕だけは残りました。王子さまをおきざりにできなかったからです。ある夜、大雪がふりました。雪のなかで、燕は羽を動かし寒さと戦いました。もう自分の体は駄目だろうと思いました。燕はやっとのことで王子の肩にとまり、さようなら王子さまと言いました。さようなら王子さま、さようなら……」

 

    そうなのである。私が感情移入したのは、貧しい人々を救おうとする優しい気持ちをもつ王子さまではなく、その優しい王子さまの依頼を断れなかったために暖かい国へ飛び立つことができずに死んでしまった燕の方であった。小学生の私は、この燕が価値葛藤の末に自己を犠牲にした献身的な心に共感して、涙が自然に頬を伝っていた。そんな事態に陥ったことは初めての経験だったので、私自身が驚いてしまった。もう半世紀ほど前のことである。しかし、私の心には今でもこの時の感情の痕跡がはっきりと残っている。そして、その時に活用した道徳の副読本の挿絵、つまり目や金箔がなくなった王子の像の肩に乗り、生き絶え絶えとしている燕の姿がはっきりと目の裏に、懐かしい白黒写真のように残っているのである。ただし、私はその時の道徳授業の展開や教師の具体的な指導内容等については、全く記憶に残っていない。これはこれで記憶というものの謎が秘められているような気がするが…。

 

 では、なぜ私はこの燕の献身的な心に強く共感し、感情移入をしたのであろうか。おそらく当時の私の心の在り様に関係があると思う。小学校の4年生頃、私はある事情があって母子家庭になり、高学年になると家計を支えるために懸命に働く母親に代わって、洗濯や掃除・食事の買い出しなどの家事手伝いをよくしていた。本当は同級生たちと同じようにいろいろな楽しい遊びをしたかったが、親孝行という気持ちもありそれらを我慢してやっていたと思う。そんな自分の立場や気持ちと、この「幸福な王子」という童話に出てくる燕の立場や気持ちとを、同化したのではないだろうか。今振り返れば、燕に同化するほどの類似的な情況ではなかったのではないかと思うが、当時はなぜかそのように感じたのである。思わず感涙したのは、きっと上述したような心理が働いたものと推量する。

 

 このように考えてみると、新学習指導要領において新設された「特別の教科 道徳」では、その教科書を活用して行う道徳授業の在り方を実践研究することも大事だが、教科書に掲載している読み物資料の内容をしっかり吟味することも、子どもたちの道徳性を培う上で必要不可欠である。今回の私の場合のように、子どもの心に響く感動的な内容を備えた読み物資料を読むだけで、教師からの適切な指導がなくても子どもたちは豊かな道徳性を培うことができる場合があるからである。もちろん教師からの適切な指導があれば、よりよい道徳授業になるのは間違いないけどね…。