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「全共闘」って、どんな組織だったの?~小阪修平著『思想としての全共闘世代』を参考にして~

 東京オリンピックパラリンピック大会組織委員会の元会長・森喜朗氏の女性蔑視発言は、発言撤回及び謝罪のための会見を開いたが、その際に取った記者への対応態度によって火に油を注いだ結果になり、日本国内はともより国外からも多くの非難の声を浴びた。そのため、森氏が会長を辞任しなくてはならない事態に至った。また、後任選びにおいても密室性を指摘されて、透明性を確保すべきだという政府や世間の意向を尊重して、会長候補者検討委員会を設置する流れへ。その後、数回の審議の結果、候補者を一本化して推薦するという形で、元担当大臣だった橋本聖子氏が新会長に就任した。これでこの一連の騒動は一応決着したように思うが、開催まで5か月ほどしか猶予がない中、橋本新会長はコロナ禍における開催の是非や在り方、理事の男女比の是正等の喫緊の諸課題を解決していかなければならない。橋本新会長の肩にはこのような大きな荷物を背負わされているので大変であろうと推察するが、国民の一人として私は、小池都知事と丸川新担当大臣とによる女性トロイカ体制で何とかこの難局を克服してほしいと唯々祈るばかりである。

 

 ところで、1964年10月に開催された前回の東京オリンピックの時、私は小学校5年生だった。重量挙げフェザー級で三宅義信選手が優勝したシーンや陸上競技ラソンアベベが金、円谷幸吉選手が銅メダルを獲得したシーン、女子バレーボールで「東洋の魔女」と言われた日本チームがソ連を破り優勝したシーンなど、様々な印象的な場面を今でも思い浮かべることができる。この時期は日本経済が飛躍的に成長を遂げた時期、所謂「高度経済成長期」の真っ只中だった。私が生まれた1954年(昭和29年)から地元国立大学教育学部へ入学した1973年(昭和48年)頃まで、日本は右肩上がりの好景気に浮かれていた社会情勢だったのである。

 

 しかし、このような社会情勢の中で思春期を迎えた私にとって、前途に不気味な不安感を抱くような事件群があった。その一つが、私が中学3年生だった1969年1月に起きた東大全共闘による「東大安田講堂攻防戦」。タオルで顔を覆いヘルメットを被った学生たちに向けて、機動隊が催涙弾や放水を浴びせる様子を中継しているテレビ映像を、当時の私は不思議な感覚で眺めていた。貧困な母子家庭の中での日々の暮らしや就職に有利な高校への進学等にしか関心がなかった私は、「恵まれた家庭環境で育ったであろう東大生が、何とバカな騒動を起こしているのだろう。」と批判的な思いを強く抱いた。その時は、彼らが起こした行動の動機や理由等について考えようとする余裕は、私にはなかった。

 

 次に、私に不気味な不安感を抱かせた二つ目の事件は、その翌年3月に起こった赤軍派による「よど号ハイジャック事件」。テレビの報道ニュースから流れる映像とその解説内容を視聴していた私は、戸惑うばかりであった。「ハイジャックされたよど号は、世界革命の根拠地建設という名目で北朝鮮へ向かうようです。…」アナウンサーの声を聞きながら、「世界革命って何のこと?北朝鮮は日本とは違う国家体制なの?」と、私の頭の中は疑問だらけになっていた。「それにしても、一般市民を巻き添えにする反社会的な行動によって革命を起こすという考えは納得できない。」というのが、その時に抱いた率直な気持ちだった。

 

 この気持ちをより一層強めたのは、三つ目の事件である。それは、私が高校2年生だった1972年2月(19日~28日)に起こった連合赤軍による「あさま山荘事件」。長野県北佐久郡軽井沢町にある河合楽器製作所の保養所「浅間山荘」において、連合赤軍のメンバー5名が同施設の管理人の妻を人質にして立て籠もった事件である。男たちはバルコニーに畳などでバリケードをつくって籠城し、朝から断続的に猟銃を発射するなどして抵抗した。事件発生から10日目の朝、長野県警は人質の強行救出作戦を敢行して制圧した。テレビ中継の中で、クレーンで吊るした大きな鉄球が壁面を壊す場面は、私の頭の中に鮮明な記憶として残っている。また、この事件以上に私が驚愕したのは、群馬県のアジトなどでリンチ殺人を行い29人のうち12人を殺していることが、事件後に明らかになったことである。「日本を共産主義化しようとする革命のためには、仲間の殺人も厭わないような運動は絶対に許されないことだ。」私は、大きな憤りを覚えた。

 

 そこで今回は、これらの事件群を起こす母体となった「全共闘」(赤軍派連合赤軍は、全共闘から派生していった組織ではないと思うが…)とはどんな組織だったのか、自宅書棚の中で長い間眠っていた『思想としての全共闘世代』(小阪修平著)を参考にしながら、三つの事件を起こした組織の関連性を解きほぐしてみようと思う。そして、そこから学んだことを析出してみたい。

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 まず、東大全共闘による「東大安田講堂攻防戦」について。事の発端は、医学部のインターン制度の廃止を求める運動だった。この医学部の闘争が大学の権威主義的な対応によってこじれてしまい、医学部生と青医連(卒業生の組織)が大学内部の不条理ともいえる当局の傲慢さに対して、1968年6月15日に安田講堂を占拠するという抗議行動に出た。それに対して東大当局が排除のため機動隊を導入したことが、さらに闘争を全学に波及させることに繋がった。口先では進歩的なポーズをとり反権力的なことを言いながら、実際の行動ではそれと全く逆で機動隊に頼ってしまうという落差が、学生を憤激させたのである。この経緯から分かるように、東大闘争の出発点は学生と教官の間に対等な関係を求めるという、戦後民主主義的な要求であった。しかし、この闘争は学問の在り方や大学の社会の中での位置付けから、そういった大学に在籍している自分自身の在り方を問う性格をもっていたことで、戦後民主主義の枠を大きく逸脱していくことになる。この逸脱を加速したのが、「全共闘」(全学共闘会議)という組織のスタイルだった。

 

 医学部以外の学部も次々とストに入り、東大全共闘が結成されたのは、7月5日。それまで学生運動の基本単位は自治会であり、一応委員長選挙や代議員大会等の形式的民主主義の手続きを踏んだものだったが、「全共闘」とは自分たちがいる場所で起こった具体的な問題に対して闘うための学生有志の闘争組織だったのである。この組織の特徴は、メンバーシップが確定していないということ。自分が「全共闘」だと思えば「全共闘」になれるのである。したがって、指導や命令・指揮といった関係が成り立たない。そこが党派とは全く違う。また、「全共闘」には正規の議決機関というものがない。言い換えれば、具体的な行動目標のための、形式的民主主義の枠にとらわれない、自発的な個人参加による、ルーズな闘争組織が「全共闘」だったのである。

 

 これらの経緯を知って、私は「全共闘」という組織の在り方について強く肯定する。特に当事者性や個人の自発性を重視するリゾーム型の組織である点は、その後の市民運動の在り方にも影響を与えている。しかし、いつどこで組織決定がなされるのかがはっきりせず、責任の所在も明確でない点は大きな問題であった。また、権限を委譲された指導部が存在しないということは、いつ闘争を止めるか、どのように止めるかもはっきりしない組織であり、妥協ができない組織であった。著者によると、このような組織スタイルは、結果的に参加している個々の学生の内面への問い掛けを生んでいったと言う。また、このことに関して、「全共闘」運動を「生をめぐる観念の闘争」だったと定義しており、直接問われたのは「どう生きるべきか」といった抽象的な倫理だったと語っている。もし私がその場に居合わせていたら、きっと「全共闘」に入っていたに違いない。

 

 1968年9月5日、各大学の運動を有機的に結合し、70年の沖縄・安保闘争と結びつけようという目的で、178大学の「全共闘」が結集して全国全共闘が結成されたが、このことは「全共闘」運動の終わりも告げていた。というのは、全国全共闘は書記局を構成する8派によって運営され、各党派の草刈り場になっていったからである。この日、全国から集まった3万人近い学生の前に、赤軍派が初めて公然と登場し、他のブント諸派にゲバルト(暴力)を掛けた。赤軍派は、ブントの党内抗争の中で党を軍事組織として改変し前段階武装蜂起(政権をとる武装蜂起の前段階の武装蜂起)するという路線を唱え、全世界的な革命戦争を引き起こすという理論武装をしていた。多くの学生に颯爽としたイメージで受け取られて登場した赤軍派だったが、11月5日には大菩薩峠武装訓練中だったメンバー53人が逮捕される。11月16日には佐藤訪米阻止闘争に惨敗し、2500人を超える逮捕者を出した。このような国内での武装闘争が困難になってきた状況からの脱出という意味合いで起こしたのが、「よど号ハイジャック事件」だったのである。私は、国家権力それ自体を敵として戦争(一般市民を巻き添えにする不条理な「内戦の論理」ではあるが…)を仕掛ける赤軍派に対して、全く共感することはできない。

 

 その後、主要な指導者をほぼ逮捕された赤軍派は、M作戦(マネーのM)を展開し始める。銀行や信用組合等を襲撃して資金を調達する作戦である。またそれ以外に、戦争の名のもとに正当化した爆弾事件を何度も仕掛けている。しかし、実際は強化される取り締まりに対する単なるゲリラ闘争であった。このように赤軍派が悪あがきのような闘争を展開する中で、同じく武装闘争を闘っていた革命左派と合体して誕生したのが、あの「あさま山荘事件」を起こした連合赤軍である。資金をもった赤軍派と銃をもった京浜安保共闘=革命左派が手を取り合ったのである。実は、この革命左派は赤軍派との合同以前に、山岳ベースを離脱したメンバー二人を組織防衛のために処刑していた。このことが、連合赤軍による14名の同士の「総括」の動因の一つであった。もう一つの動因は、二つの異なる組織が合体した結果、自分たちの組織の方がより「革命的」であることを立証するために、より「徹底的」な理論が採用されがちであったこと。三つ目の動因は、「共産主義化」というスローガン。とにかく日本革命運動史上最大の汚点になった連合赤軍事件はなぜ起こったのか、本書をはじめ今までに多くの関連図書によって解説されてきたと思うが、私たち国民は単にその行為を批判するだけではなく、その背景や理由等をもう一度認識し直す必要があるのではないだろうか。

 

 「全共闘世代」のことを別名「団塊の世代」と呼ぶこともある。私は、そのように呼ばれる彼らのすぐ後ろの世代である。当時マスコミから「白け世代」と呼ばれ、その特性として「三無主義」(無気力・無関心・無責任)を挙げられた世代なのである。だから、今まで「全共闘世代」や「全共闘運動」等についてあまり触れることはしなかったが、今回それを解禁した記事を綴ってみた。今更、この歳になって…とも思うが、自分の今までの生き方や在り方を振り返るつもりで、その本質をこれからも追究してみたいと考えている。