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「松本清張の天皇制観」を探る①~松本清張著『神々の乱心(上・下)』を読んで~

 以前の記事で無宗教だと自認している私が日常的に親しんでいるのは「仏教」だと綴ったことがあったが、前回の記事で神社で執り行われた孫Mの「お宮参り」の行事について触れた時に、よく考えれば「神道」もあるなあと意識した。ただし、戦後生れの私などは、「神道」と聞けば戦前までの「国家神道を掲げた天皇軍国主義」という暗く悪いイメージを連想してしまう。でも、本来、天皇は古代より国民の安寧のために「祈り」を行う祭祀王であり、現憲法下においても皇居で「神道」式のお祭りである「宮中祭祀」を一年中行っている、我が国の統合を象徴する存在なのである。だからこそ、今の国民のほとんどはその存在を「象徴天皇」として認め、敬愛しているのである。

 

 天皇制に関する最近の話題と言えば、「皇位安定継承の有識者会議」における歴史や法律の専門家のヒアリング内容等の報道である。結論にまではまだまだ時間を要するが、「女性天皇」や「母方が天皇の血を引く女系天皇」を容認する意見や、「女性宮家」を創設するという意見等が出されているようである。私もそのような意見に耳を傾けることは大事だと思いながらも、「男系男子による継承」という我が国数千年にわたる伝統も無視できないのでは…と、つい思ってしまう。このような保守的な考えは、現憲法が保障している「男女平等の理念」に反するものになるのだろうか。そうだとすると、私の本意ではないのだが…。

 

    そう言えば、天皇制に潜む重い課題を提示していた『JR上野駅公園口』(柳美里著)を読んだ際に、私は政治思想家の原武史氏の解説「天皇制の<磁力>をあぶり出す」の主張に大いに刺激を受けた。そして、その原氏が以前にNHK・Eテレ「100分de名著 松本清張スペシャル」の最終回で、天皇制に係わるテーマを秘めた長編小説『神々の乱心』について面白い解説していたことを思い出したので、私はしばらく積読状態にしていた文春文庫版の本書上下巻を取り出し、ここ一週間ほど読み耽った。

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    そこで今回は、その作品の特徴や内容等を簡単に紹介しつつ、特に「清張の天皇制観」の一つの視点について言及してみたい。次回は、もう一つの視点について言及するつもりである。なお、その際に、原氏の著書『松本清張の「遺言」―『昭和史発掘』『神々の乱心』を読み解く―』を参考にすることをあらかじめ断っておきたい。

 

 本作品は、1990年3月から「週刊文春」に連載し始めて、1992年8月の清張の死によって中絶した著者の遺作にして、未完の大長編ミステリー小説である。原氏は本作品の意義について、「『神々の乱心』とは、本来、天皇につかなくてはいけない『神々』が『乱心』を起こして、天皇以外の人物についてしまうという意味」であること、端的に言えば「皇室を乗っ取ろうとする教祖の野望の物語」であり、清張にとって「昭和が終わり平成になった頃、自らの死期が迫ったときに、天皇制という長年の課題に小説のかたちで決着をつけ、昭和を総括しようとした作品」であると綴っている。私は本作品が未完である故に最期の結末が不明なので、清張が天皇制についてどのような決着を付けようとしたのかが十分に読み取れなかったが、物語の内容から「清張の天皇制観」について垣間見ることはできると思った。

 

 では、まず手掛かりになる物語の内容について簡単に紹介しよう。きっかけは、昭和8年に、東京近郊の梅広町にある「月辰会研究所」から出てきたところを尋問された若い女官が自殺をした事件。その女官に対して尋問をした特高課第一係長・吉屋謙介は、自責の念と不審から調査を開始する。また、同じ頃に華族の次男坊・萩園泰之は、女官の兄から遺品の通行証を見せられ、月に北斗七星の紋章の謎に挑むことになる。さらに、昭和8年の暮れには、渡良瀬遊水池から他殺体が二体揚がる。続いて、昭和9年9月には白骨化したもう一つの遺体が黒岩横穴墓群の一つから発見される。吉屋と萩園はそれぞれ独自の方法で、連続殺人事件と新興宗教「月辰会研究所」との関わりを追及していく。その追究過程で、物語は大正時代の満州へと遡っていく…というようなミステリー仕立ての内容である。

 

 この物語の内容の骨子を簡潔にまとめれば、次のようになる。本作品は、大正末期に満州で「月辰会」という新興宗教を起こした教祖が、帰国して埼玉県にその本部を置き、宮中へと進出する。そして、皇位の象徴とされる「三種の神器」や、特殊な宗教儀式に用いる半月形の凹面鏡を揃えて皇室を乗っ取り、昭和天皇皇位を否定するための何らかの行動を起こそうとするまでの野望を描いた物語である。したがって、本作品の大きなテーマとして導き出されるのは、「清張の天皇制観」なのである。

 

 原氏は、先に紹介した『松本清張の「遺言」―『昭和史発掘』『神々の乱心』を読み解く―』の中で、「清張の天皇制観」について古代と近代が繋がっているという二つの視点を指摘している。一つは、「アジア的」という視点、もう一つは「シャーマニズム的」という視点。今回は一つ目の「アジア的」という視点について概説し、私なりの考えも付け加えてみようと思う。

 

    原氏が指摘する「アジア的」な「清張の天皇制観」とは、およそ次のようなものである。清張は、古代の天皇制を思想的には漢の皇帝、制度的には唐の朝廷の翻訳ととらえ、その意味では非常に「アジア的」だと考えていた。そして、その制度の下で、上代から近世まで天皇の権力は下部の実力者(貴族政治や幕府政治)に下降するけれど、制度の形態は残されていた。それが明治になり欧米の制度や学術文化が入って近代化される中で、天皇制だけは八世紀のアジア的なものに復古した。この天皇制を「国体」と呼び、明治以来、政府は国民に教育してきた。ここで清張がとらえた「アジア的」とは、中国における君主が家長として人々の上に立ち、法律的な条項だけでなく道徳的なそれも含まれる国家の掟を、主観という内面的な事柄まで外面的な法令として強要されるような支配を意味している。

 

 しかし、原氏はその古代日本と中国との違いを認めない「アジア的」な「清張の天皇制観」に対して、やはり問題があると言わざるを得ないと批判している。その理由としては、法制史学者の水林彪氏の著書『天皇制史論』から次のような箇所を引用している。「律令天皇制的な権威・権力秩序においては、どこまでいっても、現世的な権力・権威を拘束する超越的倫理的存在というものが現れてくることがないのである。同じく、『律令国家』といっても、『天』という超越者を観念する中国と、およそ超越者を観念しえない日本との権威・権力秩序の質的相違は、顕著であった。」

 

 この「アジア的」な「清張の天皇制観」について、私は専門的な知見を持ち合わせていないので、その学問的な妥当性の是非を判定することはできないが、天皇と時の政治権力との関係性という動的な要因によって、特に戦前までの天皇制においては「アジア的」な顕在性を示す時期があったのではないかと素人判断をしている。したがって、「アジア的」な「清張の天皇制観」は、学問的に定義した「アジア的」とは完全に一致するものではないが、「一時的に一致する様態を現した時期があった」という限定的な意味で使うことができるのではないかと、優柔不断的な判断を私は勝手にしているのであります。