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「神道」って、宗教なのかな?~島田裕巳著『神道はなぜ教えがないのか』から学ぶ~

 前回と前々回の記事において、『神々の乱心(上・下)』(松本清張著)と『松本清張の「遺書」―『昭和史発掘』『神々の乱心』を読み解く―』(原武史著)を取り上げ、「清張の天皇制観」の2つの視点について綴った。特に前回は、「シャーマニズム的」な視点から皇室が執り行う「宮中祭祀」という「神道」式のお祭りの内容にも言及した。その際に私は改めて自分の記憶を辿り直してみて、今までに「神道」という宗教についてほとんど知らないことに思い至った。もちろん自分の子どもや孫の「お宮参り」や「七五三」には、神社に行ってお祓いの儀式をしてもらってきたが、その祭主である神職の呼び名を「宮司」と言うのか「禰宜」と言うのかということさえよく分かっていなかった。また、「神道」という宗教の開祖や宗祖が誰か知らないし、どのような教義があるのかも知らない。知らないというより知ろうとしなかったというのが、正直なところである。

 

 私は、今まで戦前の「国家神道」という暗く悪いイメージ故に「神道」という宗教について知ろうとしなかったことを反省し、我が国特有の「天皇制」や皇室が執り行う「宮中祭祀」等についての認識を深めるためにも、この際「神道」について少し学んでみようと考えた。早速、近くの書店に出掛け、宗教関係の本が並んでいる書架から「神道」の基本的な知識が得られそうな本を探した。その結果、見つけたのが新書版の『神道はなぜ教えがないのか』(島田裕巳著)であった。分かりやすく書かれてあったので、二日間ほどで読了した。

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 そこで今回は、本書から学んだ「神道」という宗教の基本的な特徴や性質等について私なりに理解した内容を整理するとともに、それに対する簡単な所感を付け加えてみようと思う。

 

 まず、「神道」は日本の長い歴史の中で外来の仏教や儒教道教等から様々な影響を受けてきたが、古代から守り続けてきた日本固有の「民族宗教」である。ただし、仏教の釈迦やキリスト教イエス・キリストという開祖に当たるような人物はいない。また、それぞれの神社を創建した人物についても、それが分かっていない場合がほとんどである。仏教なら、開祖だけでなく、各宗派を開いた宗祖や、歴史に名を残した有名な僧侶がいたりするが、「神道」には宗祖はいないし、誰もが名前を知っている神主や神道家等はほとんどいない。

 

 次に、「神道」は教義というものがほとんど発達していない。仏教にもキリスト教にも、あるいはイスラム教にも教義が存在し、それぞれかなり壮大な体系が作り上げられているが、それが「神道」にはない。歴史的には中世以降、さまざまな神道家が独自の「神道神学」を打ち立てようとはしたが、それは仏教や儒教等の思想を借りてきた観念的なものだった。一般の人々がそれを実践することで救いを得られるような教義は、生み出されることはなかった。そもそも、「神道」における救いというものからして曖昧なものらしいのである。

 

 宗教とは、救いを与えるもの、救済に結びつくものだという定義の仕方も可能であるが、「神道」にはこの救いの部分が欠けているのである。私たちは神社で「家内安全」や「商売繁盛」、「結婚成就」等を祈願するが、神社に祀られているはずの神は救いのための手立てを与えてくれる訳ではない。また、「神道」は人生の根本的な問題に対する究極的な答えを与えてくれる訳でもない。一般には人々の悩みや苦しみの解決に役立つという宗教一般に求められる役割を、「神道」に限っては期待することができないのである。

 

 以上のように、「神道」は開祖も、宗祖も、教義も、救済もない宗教である。果たして「神道」は、宗教なのかという基本的な疑問が生まれてくる。実際、明治以降の近代日本社会においては、「神道は宗教にあらず」とされ、宗教の枠の外側に置かれてきた歴史がある。そこには、権力者が「神道」を宗教の枠から外すことで、国民道徳や習慣として強制させようとする意図が働いていた。しかし、このように「神道」と宗教が区別されたのは、「ない」宗教という「神道」の特徴や性質等に由来するとも言えるのである。

 

 「ない」と言えば、「神道」の施設である神社の本殿や正殿に祀られている祭神は、その神が宿っていると言われる鏡や御幣等の依代があるだけで、その神の姿を象った神像等は存在していない。また、神社の境内にある小さな社殿、小祠には依代さえないこともある。つまり、神社の中心には実質的に何も「ない」のである。これは、神が存在しないということを意味する訳ではないが、神に姿は「ない」。「神道」や神社の中身を探っていけばいくほど、あってしかるべきものが「ない」という事態に直面するのである。したがって、「神道」という宗教の本質は「ない」ということである。このことは「ない宗教」神道と外来の「ある宗教」仏教とが深く結び付き、平和的に共存してきた1400年にわたる我が国の歴史と密接に関連してくることになる。その歴史の流れの概略について知りたい読者の方は、ぜひ本書を手に取っていただきたいと思う。

 

 ところで、今回、私は本書によって「ない宗教」としての「神道」の基本的な特徴や性質等を知ることができたが、実は今まで知らないままに「神道」における「神」の存在を活用していたことに気付いた。それは、1年ほど前から孫Hを常に見守っている存在としての「神様」を顕在化させていたのである。神棚を設置している我が家の和室でHと一緒に遊んでいた時、私が「神様」の声色で「Hくん、神様の姿は見えないと思うけど、いつも見守っていてあげるから、安心してね。」と語ったことがあった。それ以後、Hは「神様、今日も遊びに来ました。」とか「ピクニック遊びをするから、神様にもお弁当を作ってあげよう。」とか言うようになったのである。Hにとって「神様」はまさしく存在している。私はHの言葉に対して「神様」の声色を腹話術的に発して対話するようにしているが、その度に少し後ろめたい気持ちになることがあった。しかし、今回、「ない宗教」としての「神道」について学んだことによって、この出来事は日本人特有の伝統的心性を現したものと意味付けることができた。これからも続けていくつもりである。私は、近頃「神道」についてもっと深く知りたいなあと思っている。