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「心的なもの」という概念の住処とは?~古田徹也著『このゲームにはゴールがない―ひとの心の哲学―』から学ぶ~

 幼稚園に通う3歳半になる娘に、焼き海苔を敷いて巻く卵焼きを得意になって作り弁当に入れていた著者が、何気ない会話の中で実はその卵焼きは娘の好みではないという本音を知りショックを受ける。しかし、著者はそれ以上に娘がその本音を隠そうとしたことに驚いた。それまでの娘は著者にとって裏表のない分かりやすい存在であったから、娘が自分への本当の気持ちを内面に押しとどめ、嘘をつけるようになっていたことに対して、我が子の成長の証と喜ぶとともに純粋で無垢な時間はもう過ぎ去ってしまったという多少の複雑な感慨を覚えたという。そして、このことを「彼女は私にとって遠い存在になり、それによって、むしろ以前よりも近い存在になった。」という矛盾めいた表現で示した。

 

 このエピソードは、私が最近読んだ『このゲームにはゴールがない―ひとの心の哲学―』(古田徹也著)の「はじめに」の中で紹介されているのだが、その末尾に「本書の道行きの過程で、この撞着あるいは相即の内実が次第に浮かび上がってくるだろう。」と、本書の内容について予測している。私はこの「はじめに」の文章を読んで、本書の内容に対して俄然興味を高めて読み通すことに決めた。とは言うものの、その道程は遅々たるもので、なかなか著者の論理展開を正確に理解するのに手間取った。否、まだ十分に消化し切れていないというのが、読後の正直な実感である。

 そんな私が、本書の内容について何を語ることができるのか。今、この記事を書いている最中でも、自分は何を語ろうとしているのかが不明瞭な状態であるが、本ブログはエッセイ風の体裁を取っているので、私が惹かれた著者の言葉を紡ぎながら何とか意味の通る文章にしたいと思う。だが、恐らく記事の内容が支離滅裂になってしまったり、その文脈が紆余曲折してしまったりすることが予想されるので、この点を読者の皆様には予め断っておきたい。

 

 本書は、主として現代アメリカを代表する哲学者スタンリー・カヴェルの議論と、彼が決定的な影響を受けているルートウィヒ・ヴィトゲンシュタインの議論を交互に取り上げながら、懐疑論を手掛かりにして、ひと(他、人)の心というものの本質的な特徴を探究するものである。全体構成の概要は、「第一章 他者の心についての懐疑論」「第二章 懐疑論の急所」「第三章 懐疑論が示すもの」「第四章 心の住処」となっている。今回の記事では、特に第四章におけるヴィトゲンシュタインの「言語ゲーム」に関する記述の中から、「心的なもの」という概念の住処に関連した内容を私なりにまとめながら、それに対する簡単な所感を綴ってみたい。

 

 一般に、人が何らかの感情や信念、希望、疑い等々をもつというのは、それら「心的なもの」に対応する何らかの実体が身体のどこかに存在すると考えがちだが、ヴィトゲンシュタインはこれとは異なる「心的なもの」の見方を提示している。すなわち、言葉を用いた虚実入り交じったコミュニケーション―演技という要素が不断に織り込まれた言語ゲーム―に継続的に参加できるという点こそ、種々の心的状態にあることや心的態度をもつことの内実が見出されるというのである。

 

 もし心を身体内の実体としてとらえる見方に従うなら、たとえば他者が痛みを感じているかどうかは常に不確かだということになる。しかし、ヴィトゲンシュタインは他者の心の不確実性とはそのような恒常的ないし固定的な性質ではなく、それはあくまでもケースバイケースの事柄であり、他者が痛みを感じているかどうかの疑義を差し挟まれる余地のないケースも日々無数に存在するという。そして、「この不確実性は、概念の揺らぎなのである。しかし、それは我々のゲームである―我々は柔らかい道具でゲームをする。」と語っている。また、別の箇所でも「我々は、柔らかく、しなやかでもある概念でゲームをする。」とも述べている。

 

 ヴィトゲンシュタインがここで「柔らかい(しなやかな、不明確な、曖昧な)概念」と呼んでいるのは、具体的には「心的なもの」として我々が包括する概念にほかならない。すなわち、痛がっている、喜んでいる、信じている、好意をもっている、振りをしている、理解している、等々の概念である。それに対して、彼は数や色、形状等の概念を「明確な(堅固な)概念」と呼び、この概念について我々の間で判断が食い違った場合、その不一致を解消したり不一致の原因を突き止めたりするための客観的な方法(テスト)が存在するし、そもそも不一致はまず生じないと説明している。

 

 他方、誰かが喜んでいるとか好きだといった「心的なもの」については、それを客観的に確定する方法や証拠は存在しない。実際には喜んだり好意をもったりしていないことも多いし、むしろ怒っていたり憎んでいたりすることも珍しくない。その意味で、証拠としてしばしば機能する諸規準自体に不確実性が組み込まれている心的概念は、本質的に揺らぐ概念なのであり、色や形状等にまつわる概念と比べて相対的に柔らかい(曖昧である、不確実である)と、彼は特徴付けるのである。さらに、演技という要素が不断に織り込まれ、それゆえ「心的なもの」に関して不確実性がつきまとっている点こそが、我々のゲームの際立った特徴でもあると言っている。

 

 我々はそのようなゲームに参加できるがゆえに、互いに相手の行為やその理由、物事に対するとらえ方等を、しばしば誤解しつつ理解することができる。そして重要なのは、この「しばしば誤解しつつ」というのは、我々の理解の不完全性や知識の限界を示すのではなく、むしろ理解が成立する条件だということである。嘘や偽りの可能性がつきまとい、誤解する可能性がついてまわるものでなければ、そもそも心的態度をそれとして理解することはできないのである。

 

 ヴィトゲンシュタインはさらに、なぜ我々はそのようなゲームをするのかという問いにまで踏み込んでいる。しかし、この問いに対する彼の答えは、「我々が柔らかい概念をもつのは、それが有用だからではない。」と強調しているだけである。彼は最晩年の手稿でも、「そのような揺らぎが、我々の生活の重要な一部なのだ。」と書き記しているが、それ以上は語らなかったという。著者は、この点に関して、「少なくとも、我々はそのゲームをすること自体を求めている、という明確な事実をここで強調することはできるだろう。つまり、我々は寂しいのであり、寂しさに耐えられないのだ。」と綴っている。

 

 ヴィトゲンシュタインは、言語ゲームというものの不可欠な特徴として、最晩年に次のようなことを語っている。「言語ゲームは予見不可能なものであるということを、君はよく考えなければならない。私が言わんとしているのは次のようなことだ。それには根拠がない。それは理性的ではない(また非理性的でもない)。それはそこにある-我々の生活と同様に。」敢えて、このゲームのゴールないし目的を挙げるとすれば、このゲームを終わらせないことそれ自体である。そもそも「このゲームにはゴールがない。」のである。したがって、我々は概念の揺らぎが保たれること、他者が透明性と不透明性の間で揺らぎ続けること、その意味で、他者が半透明であり続けることを求めているのである。

 

 心について、言語ゲームについて、その特徴を以上のように輪郭づけたことで、最後に著者は本書の「はじめに」の末尾で示した「彼女は私にとって遠い存在になり、それによって、むしろ以前よりも近い存在になった。」という矛盾めいた表現を、次のようにより十全に描き出している。

 

 「遠い存在になった」というのは、自分のナルシシズムの圏内から娘が離れたことを意味し、自分はそのとき彼女を懐疑的な眼差しを含んだ不安定な関係を取り結ぶ他者として受け入れる入り口に立ったということである。そして、「他者が遠い存在になることで近い存在になる」というのは、虚実入り交じった「我々のゲーム」に娘が参加できるようになれば、自分は、彼女の行為やその理由、物事に対するとらえ方等を、誤解したり理解したりすることができるようになる。彼女を理解しようとする際に、喜怒哀楽、欲求、信念、意図、愛情、希望、嫉妬、羨望といった、より豊かな概念を用いることが必要になる。そして、それは彼女の側も同様である。自分と彼女はその意味で、心を通い合わせることができるようになったということである。

 

 著者は、続けてこうも言っている。「心的なもの」という概念の住処は、他者の透明性と不透明性が揺らぎ続ける「我々のゲーム」の中にこそある。しかし、そうやってある人を「我々のゲーム」へ招き入れ、他者として受け入れるというのは、その人との間に不信や摩擦が生じる可能性を開くことでもある。そのことによって、我々は疲れ、傷つき、ときに深刻な苦悩を、そして孤独を抱えることになる。この皮肉な構造は、それ自体がやはり悲劇的なものである。しかし、悲劇と呼びうるほどの破壊的な苦境に追い込まれるとは限らない。我々の多くは日々、この気まぐれなゲームを何とかこなしているはずである。また、たとえひどく傷つくことがあったとしても、やがて、時間というものによって癒されることもありうる。

 

 自分にはコントロールできない、ままならない、不確かな他者の存在と、その他者との言語ゲームは我々にとって忌避すべき悩みの種になるにもかかわらず、それは同時に我々が求めてやまないものでもある。不信と懐疑を呼び込む他者の半透明性は、我々のこうした両義的な切望に対応している。それゆえ、我々は生き続ける限り半透明から逃れられないし、完全に逃れようともしない。そうなのだ!この根拠なき足場の上で揺らぐ生こそが、我々の生なのである。この人間らしい生にこそ、寂しさと寂しさからの救いが存在する。人間にまつわる喜びや悲痛、希望や失望、「美しいもの」や色褪せたものは、ここにこそ生まれるのである。私は、著者のこのような主旨の結びの言葉に強い共感を覚えた。人の生とは、何ともアンビバレントなものであることよ!!