私の職場の隣には市の男女共同参画推進センターの建物があり、その2階にちょっとした図書コーナーがある。昼休みの時間にたまにそこを訪れるのだが、先日ちょっと興味を惹く本を見つけた。それが、今回の記事で取り上げる『自信がもてる子が育つこども哲学―“考える力”を自然に引き出す―』(川辺洋平著)という、私が以前から実践してみたいと考えていた「こども哲学」に関する本である。本書の1~5章までは、親子で「こども哲学」(3歳から小学生を対象)という取組にチャレンジした方々に、著者が話を聞いてまとめている。さらに6章には、本ブログの以前の記事でも取り上げた『ゼロからはじめる 哲学対話』の編著者の河野哲也氏との対話(子育ての中で「こども哲学」をすることの意義についての対話)も掲載されている。
本書を読み通して私の心に強く残ったのは、発達障害の息子と一緒に「こども哲学」に取り組んだ安本志保さんの事例で、“「こどもが見る世界」を覗けるようになった”というタイトルが付けられている5章の内容である。そこで今回は、その内容の概要をまとめた上で私なりの所感を付け加えるというスタイルの記事を綴ってみたい。
息子が3歳になる頃から、名古屋市内の大学で事務職員として働いていた安本さんは、大学生と接する中で「暗記教育の弊害」に気付き、「大学生になるまでに、できることがきっとある」と思ってアンテナを張っていたところ哲学対話に辿り着き、自分でも活動を始めた。その中で、「これこそ子どもに必要なものだ」と強烈に思い、それまでに手掛けていたクラファ(CLAFA)という活動(子どものファシリテーション力やリーダーシップ能力の育成を目的にした活動)の中に、「こども哲学」を取り入れるようにした。その際、哲学対話の場で出会った教育学科の大学生たちの協力を得ることができて、まずは遊びの延長でスタートさせた。
安本さんにとって哲学対話が心に響いた最大の理由は、「何も生まなくてもいいこと」が価値みたいなところ。「こども哲学」を始めた頃は、息子が小学1年生だったことから低学年が対象年齢。親子で参加していたが、発達障害がある息子はじっとしていられなかたので手を煩わせることが多かった。すごくやりにくかったが、母親という立場で進行役に臨むことはなく、息子を一人の子どもとして見ていたので、その点のやりにくさはなかったらしい。それどころか、息子も慣れてくると知的好奇心を満たす場になってきて楽しくなってきたらしい。そして、だんだんと場を引っ張っていく存在に変わっていき、今では仕事のパートナーのような存在にまでなった。
親子で「こども哲学」に取り組み始めて、安本さんも変化してきた。初めは「こども哲学」を教育視点でとらえていたが、今では心の「ケア」あるいは「リカいいのではないか」という仮説が出てきた。「発達障害」というラベルがあると守られて安心もするが、それによって苦しみも生まれるのではないかと、安本さんには見えていた。でも、その制度による苦しみが「哲学対話」によって外したり減らしたりすることができると見えてきた。想像力が乏しかったり、相手の気持ちを理解するのが難しかったりする「発達障害」の人にとって、哲学的な視点から具体的な事例を目の前で提供されるという安全な環境での経験が、苦しみの大きな要因になっているラベルそのものを問い直すことができるかもしれない。ラベルが外れるのは、「哲学対話でいろいろな側面から物事をとらえる」という機会に恵まれるからではないか、安本さんはそのように考えるようになった。
安本さんの息子は、「こども哲学」に関わってきて、「不思議だな」と思ったことを問いの形にすることがとても得意になってきた。このことは、客観的に世界を見ることの第一歩だと思うので、息子のラベルへの意識には影響していると安本さんは言っている。「問いを立てる」というのは、言語化する能力が付くだけでなく、親子の間に安心して何でも話せる関係が築けるようになるということ。他愛もない疑問について、「僕はこう思うな」「私はこう思うよ」などと親子で話すだけでも、すごく幸せな気分になる。
子どものその年齢の貴重な発想や疑問を聞かせてもらうというか、一緒に子どもの世界を見ることができるというか、そういう素晴らしさは「子ども哲学」に出会ってから子育ての中で得られたこと。安本さんは、これまで「考える」ということにフォーカスして関わってきたけど、今は子どもが主体的に自分の世界に入っていけるような「子どもの世界」を大事にするようになった。子どもの話をよく聞くようになって、自分の想像で子どもの意見を分かったようなふりをするんじゃなくて、「本当に子どもが伝えたいことによく耳を傾けるようになった」という。
「こども哲学」をやって一番よかったことは「幸せで楽しい」ことだと、安本さんは話を締めくくっている。今まで自分には見えていなかった世界を見せてもらえるのが一番よかったことであり、対話しながら子どもの言うことに耳を傾けて幸せだと言っている箇所を読んで、私は教員時代に何度も味わった「子どもという他者との共存体験」を回想していた。授業中や休み時間等に子どもたちと対話していると、「この子はこんなことをこんなふうに感じたり思ったり考えたりしているのだ!」と驚き、その子の見ている万華鏡を一緒に覗いたような感覚を何度も味わった。それは「本当に楽しく幸せな瞬間」だった。「こども哲学」における対話の中で、発達障害をもつ子も含む全ての子どもたちとこのような時間を共有することができたら、参加者にとって「幸せで楽しい」体験になるだろう。そのような意味でも、「子ども哲学」と発達障害の子との相性はいいに違いない!