前回の記事にも書いたが、私は地元の国立大学教育学部附属小学校に勤務していた頃、主に体育科の実践研究に取り組んでいた。しかし、私が中学校及び高等学校の教員免許状で認定されているのは社会科なので、体育科は専門外であった。つまり、私は「スポーツ指導の門外漢」だったのである。だから、最初の頃は自分が体育科教育の実践研究者であることを後ろめたく感じていた。私は何とか自分の存在意義を確立したくて、しばらく落ち着かない日々を送っていたが、ある時にふとこう思った。「運動やスポーツを指導する側に立つのは慣れてなくとも、小さい時から私は運動やスポーツを指導される側だったではないか。そうだ、私の体育科教育の実践研究者のスタンスは、指導をされる側である子どもの立場に立とう。」私はそれまで悶々としていた気持ちが吹っ切れたような気分になった。それ以後、附属小学校に勤務した15年間は「子どもの側に立つ体育科教育の在り方」を追究し続け、自分なりに充実した実践研究ができたと今では満足している。
さて、そのような経歴をもつ私だが、最近読んだ『ぼくらの身体修行論』(内田樹・平尾剛著)の内容には「我が意を得たり」という共感的な感想をもったので、今回の記事に取り上げ「今までと、これからの学校体育の在り方」について考えてみたい。
本書は、2007年に朝日新聞出版から『合気道とラグビーを貫くもの 次世代の身体論』というタイトルで刊行されたものの増補改訂版である。内容は、元神戸女学院大学教授の内田樹氏と元ラグビー日本代表(同志社大学→神戸製鋼)の平尾剛氏による身体論をめぐる対談である。内田氏は大学退職後、武道と哲学のための学塾「凱風館」館長を務め、多田塾甲南合気道師範の免許をもつ武道家として生きている。また、平尾氏は現在、スポーツ教育・身体論を専門とする神戸親和女子大学講師として研究者の道を歩んでいる。本書には、前著出版から7年後に対談した「進化する身体論」も収録されている。ここでは「日本の子どもたちはどうしてスポーツが嫌いになるのか」という問題が中心的な論件の一つになっており、生涯スポーツを志向する現在の学校体育の在り方について考察する視座を提示している。
まず、本書の中で二人に共通している今までの学校体育の在り方に対する批判点は、「身体能力を数値で示し、その能力の優劣を競うというやり方は、一人一人の人間の蔵する潜在的な能力の開発にとってあまり有用ではない」という考え方である。これは、「全ての人間はそれぞれに固有の、個性豊かな身体能力・身体特性を賦与されており、それが開花する喜びは全ての人間に等しく保証されている」という視座から派生したものである。だから、学校体育では「子どもの身体運用のOSをバージョンアップさせ、そのブレークスルーの感覚を経験させること」が必須なのである。ところが、今までの学校体育の在り方は、ともすると教師が体力向上や技能習得等を目的にして、子どもに身に付けさせたい内容を一方的に教え込むような指導法が一般化されていた。もちろんその結果、身体能力が上がりブレークスルーする経験をした子もいたであろう。しかし、運動能力が優れていない多くの子が、このような経験をすることができないまま運動嫌いになり、その後のスポーツライフが乏しいものになっていたのではないだろうか。これでは生涯スポーツを志向する学校体育にはならない。現在の学校体育は、これらの問題点を十分克服しているであろうか…。私はやや疑問を感じている。
次に、このような学校体育の在り方の背景にある、今のスポーツ界に浸潤している発想についても言及している。それは、「身体の個別的な部位を一つ一つ集中的に強化して、その算術的総和として身体全体の機能がアップする」という発想である。言い換えれば、今のスポーツ界には「OSのバージョンアップ」・「全体のシステムの組み換え」という発想がないと指摘している。この発想の源は、デカルトを祖にした心身二元論に立脚する近代科学の「要素還元主義」の考え方にまで遡るのではないかと私は思う。本来、近代科学のパラダイムは、生命的な対象、例えば人間を対象にした研究には不向きであり、非連続的・非線形的パラダイムでとらえるべきだと私は考えている。つまり、「人間という生命」を部分の総和としての全体ととらえるのではなく、有機的につながっている全体相丸ごとととらえる考え方である。スポーツ指導で言えば、一つ一つの運動技術を細分化して指導するのではなく、一人一人の内側で感じている運動感覚を大切にした指導をするという考え方である。この考え方は、これからの学校体育の在り方の視座になると思うが、具体的な指導過程や指導法等はまだ十分確立されていないのが現状なのではないだろうか。