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私が「読書」を続ける理由について~勢古浩爾著『それでも読書はやめられない―本読みの極意は「守・破・離」にあり―』を手掛かりにして~

 例年であればワクワクした気分で迎える「ゴールデンウィーク」。でも、今年はこのコロナ禍によって不要不急の外出自粛要請があり、東京都の小池知事などはこのゴールデンウィークを「ステイホーム週間」にしてほしいとの呼び掛けを都民にした。一般的に家に居ることはストレスを溜め込むと言われているが、はたしてそうとばかりは言えないのではないか。家に居てストレスを上手に解消する手軽な方法があるではないか。そう、この時間を活用して「読書」をするのである。読書習慣のない人には、ぜひこの機会に本に親しむことをお勧めしたい。「読書」は楽しいよ。

 

 さて、当ブログの記事は、私が読んだ本の中で特に心に残った内容を紹介するとともに、それに関して自分なりに思ったり考えたりしたことを簡潔に綴っているものが多い。たまたまその時に読んでいる本から触発されたテーマを設定して綴る場合もあれば、自分が取り上げたいテーマに関連しそうな本を読んで綴る場合もある。前者の場合は自分が気ままに読む「無為の読書」に基づくので、面白く楽しいものである。しかし、後者の場合は自分が意図的に読む「有為の読書」に基づくので、面白さや楽しさよりも必要感に迫られるものである。だからか、多少のストレスを感じることもあるが、読後所感を綴り終わった時の達成感や充実感を味わうこともあり、それはそれで「読書」の醍醐味ではないかととらえている。どちらにしろ、私は「読書」が好きなのであり、ブログの記事を書くのが楽しいのである。

 

 最近、上述の「無為の読書」をしながら、著者の考えに大きな共感を覚える体験をした。書名は、『それでも読書はやめられない―本読みの極意は「守・破・離」にあり―』(勢古浩爾著)。著者は、洋書輸入会社で34年間勤務した後、2006年に退職。市井の一般人として「自分」が生きていくということの意味を問い、独自の思考を展開している方である。もう忘れてしまったが、私は何かのきっかけで著者の『思想なんかいらない生活』を読んで以来はまってしまい、その後も『こういう男になりたい』『自分をつくるための読書術』『わたしを認めよ!』『まれに見るバカ』『白洲次郎的』『定年後のリアル』『定年後7年目のリアル』『定年バカ』等を読んできた。本書は、『自分をつくるための読書術』に続く著者の「読書論」であるが、前著に比べると肩の力が抜けた成熟さを感じる内容になっており、古希を過ぎた著者の読書人生の終着点とも言える本である。

 

 そこで今回は、本書を手掛かりにして、私が「読書」を続ける理由についてなるべく素直な気持ちで綴ってみたい。

 

 本書の中で、著者は子どもの頃から本が好きだったわけでなく、本格的に本を読み始めたと言えるのは24歳頃からだと述べている。そのきっかけは、大学院のある友人から「おまえなんか吉本隆明が合うんじゃないかな。」と言われて『情況』という本を読んだことだそうである。その後、夏休み中に『吉本隆明全著作集』を買いそろえて、そればかりを読んだ。そのおかげで、磯田光一や梶木剛や北川透桶谷秀昭小林秀雄江藤淳などの名前を知り、少しずつ彼らの「文芸評論」を読むようになったらしい。それは、本の世界にいきなり横道から入ったようなものだと著者は言っている。

 

 以前の記事で書いたことがあるが、実は私もほぼ似たような体験がある。私は子どもの頃、「少年サンデー」や「少年マガジン」などを愛読する単なるマンガ好きであり、学校から帰ると暗くなるまで近所の友達と外遊びに耽っていた。今思い出しても、本らしい本を読んだ記憶がない。そして、中学校・高校時代は「巨人の星」というマンガに魅入られ、「野球」の道をひたすら歩んでいたから、本を読む時間的余裕がなかったし、そもそも読もうという意欲もなかった。ところが、大学に入って受講した授業の担当教員から紹介されてしぶしぶ読んだ参考図書の中には、学問的な面白さを感じるものもあり、少しずつ本に親しむようになった。教育学部在籍だったので、斎藤喜博氏の著書群を熱心に読んだ記憶がある。また、暇つぶしに読んだ松本清張氏の『時間の習俗』に民俗学的な魅力を感じて以来、次々と社会派ミステリーの清張作品にはまった経験もある。

 

 しかし、その頃はまだ本格的に本好きになったとは言えない。「読書」が私の生活の一部になったきっかけは、何度も今までに書いてきたが、教師になって地元の国立大学教育学部附属小学校に赴任し出会ったI先生から「あなたの問題を解決するには、岸田秀という心理学者の『ものぐさ精神分析』という本が役立つかもしれないよ。」と言われて読んだことである。あの当時のことは今でも鮮明に記憶している。『ものぐさ精神分析』の内容は、私の身の上に襲い掛かってきた公私にわたる精神的な課題を解決するための糸口になるものであった。本が自分の人生をよりよくするためのアイテムになり、「読書」という営為はよりよく生きることそのものなのだと、私はその時に深く認識したのである。

 

 それ以来、「読書」は私にとって単なる趣味の領域を超えて、睡眠や食事等のように実生活を成り立たせる必要不可欠な習慣になったのである。だから、結果的に今に至っても私は「読書」を続けているのである。しかし、このような意味付けだと、「読書」がもつ生活的有用性だけが目立ってしまうが、これは必ずしも私の本意ではない。では、私が「読書」を続けている本意は何か。著者が「はじめに」の中で次のようなことを述べている。

 

…日々の暮らしのなかで、「ああ、おもしろかった」と思えるようなことはめったにない。ところが、本だけは特別だ。ほんとうにおもしろい本に当たれば、心底楽しいのである。こういう経験をできるのは本を読むこと以外にない。まあ、いいすぎだが、読書はもっとも地味な行為なのに、他の愉楽を凌ぐおもしろさをもっているとは、本を読まない人には信じられないだろうと思う。…

 

    これが、私の本意であり、多くの「読書家」の本意なのではないだろうか。