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「吃音」って、どのように克服するのだろうか?~伊藤亜紗著『記憶する体』(エピソード10「吃音のフラッシュバック」)を読んで~

 学校で様々な「困り感」をもつ子どもの適切な学びの場や、その子の特性に応じた学校や家庭での支援の工夫等に関する教育相談を行う仕事をするようになって、約4か月半。改めて、様々な「困り感」をもつ子どもたちは、自閉スペクトラム症(ASD)や注意欠陥・多動症ADHD)、学習障害(LD)等の発達障害の診断を受けていたり、診断は受けてないがそれらの障害特性に類似した様態を見せたりする子が多いと感じる。しかし、中には構音障害や「吃音」等の言語障害を有する子もわずかながらいる。最近も、「吃音」のある子どもの保護者が「本人はあまり気にしていないが、就学後に吃音のことで友達からからかわれたり虐められたりしたらいけないので早く治してやりたいから、通級による指導を受けたい。」と申し出ていると、ある幼稚園から教育相談の申請書が届いた。

 

 私が勤務する市教委・学校教育課の特別支援教育指導員室には、言語聴覚士(ST)の資格を有する者がおり、上述の相談内容への対応について会話をすることがあった。そのSTの話によると、「吃音」は発達性と獲得性に分類され、そのうち約9割が発達性であり、幼児期に発生する場合がほとんどであること。また、発生率は幼児期で8%前後、体質的要因(遺伝的要因)の占める割合が8割程度という報告もあること。さらに、発達性「吃音」の7~8割ぐらいが自然に治ると言われていること。そして、「吃音」の治療方法は現時点ではまだ確立しておらず、最近は家庭で「吃音」の子どもの発言に対して声を掛けていく「リッカムプログラム」という海外で開発された手法を使う医療機関が増えてきていることなどの情報を得ることができた。

 

 以上のことを踏まえると、「吃音」を治すことを目標にして「通級による指導」を受けるという保護者の願いは望みが薄いことになる。その上、現在の本市の「通級による指導」体制は、障害種別ではなく保護者が送迎しやすい距離を考慮した地区別なので、言語障害に特化した専門的な指導を受けることができない場合が多い。もちろん「吃音」による精神的な不安を少しでも取り除くための個別支援を望んでいるのであれば、それはそれで有効な場にはなる。しかし、この保護者は我が子の「吃音」を早く治したいために、「通級による指導」を希望しているのだから、私たちはまず上述のような情報を幼稚園側から保護者へ提供してもらった上で、相談内容を再考してもらう方がよいという結論に至った。

 

 私は、このような会話をしながら、確か「吃音」当事者である美学者・伊藤亜紗氏が「吃音」を通して人間の身体の在り方を論じた『どもる体』という本を著していたことを思い出し、それを借りるために昼休みの時間を利用して職場近くの市立中央図書館へ自転車を走らせた。だが、残念ながら所蔵していなかったので、その代わり「吃音のフラッシュバック」というエピソードが所収されている『記憶する身体』という本を借りることにした。

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 そこで今回は、本書の内容概要に触れつつ、特にエピソード10「吃音のフラッシュバック」の事例を紹介しながら、「吃音」当事者がそれを克服していくローカル・ルールについてまとめてみたい。そして、私なりの簡単な所感を付け加えてみようと思う。

 

 本書は、障害のある12名の体の「記憶が日付を失う過程」を取り上げている。つまり、何らかの障害をもつ方にとって特定の日付をもった出来事の記憶が、いかにして経験の蓄積の中で熟し、日付のないローカル・ルールに変化していくかというプロセスに注目しているのである。著者はエピローグ「身体の考古学」の中で、何らかの障害をもった人間は、その障害を抱えた体とともに生き、無数の工夫を積み重ね、その体を少しでも自分にとって居心地のよいものにしようと格闘してきた、その長い時間の蓄積こそ、その人の体を唯一無二の代えのきかない体にしているのではないかと語っている。そして、その事例として、「吃音」のある人の多くは、どもりそうな言葉を直前で感じ取る鋭敏な感覚を持っていることや、どもりそうな言葉を似た意味の別の言葉に即座に言い換えるとスムーズに話せると知っていることなどを取り上げている。

 

 それだけではなく、エピソード10の「吃音」当事者である柳川太希さんは、大学時代に「一人称を“私”に揃える」、言い換えれば“私”を安定させるという工夫を行って、中学・高校の頃に比べて「吃音」の状態が軽くなったそうである。また、彼は「吃音」とつきあうには身体が起点であると考え、「運動をする」ことで“身体”を安定した状態に保つ工夫もしている。これらの工夫は、「どもってしまうことに対して過剰に敏感になるという極」と反対の「安定した鈍感な極」を作ることを意味する。つまり、安定した極を作れれば、まさに振り子のように、いったんは不安定な極に触れたとしても、いずれはそれ自体の力によって安定した鈍感な極に戻ってくるのを待つのである。彼はこの「二つの極を作る」ということで「吃音」へアプローチした結果、今では日常会話にほとんど困らないほどスムーズにしゃべれるようになったそうである。

 

 「二つの極を作る」という彼の「吃音」へのアプローチは、まさに彼自身のローカル・ルールであり、「吃音」を克服するために当事者の誰でもができる一般的な手法ではない。しかし、だからといって全く参考にならないかと言えば、「そんなことはない。」と私は反論したくなる。その訳は、たとえ人によって結論としての答えが違っていても、その人が独自の結論を導き出すプロセスには共通するものがあるはずだからである。著者も言うように、おそらく「吃音」のある人の多くは、言葉をあやつることの一部に「吃音」というファフクターが組み込まれており、その人のしゃべるシステムは長い時間をかけて「吃音」とともに形成されていくものなのである。

 

 本書のエピローグには、「吃音」当事者数名のおしゃべりの中で「もし目の前に、これを飲んだら吃音が治るという薬があったら飲む?」という「究極の問い」の話になったことが記されている。この答えは、意外にもそこにいた全員が「N0」だったそうである。著者は、その訳を〇〇という障害であるという「属性」ではなく、その体とともに過ごした「時間」こそが、その人の身体的アイデンティティを作るのではないかと考えている。だからこそ、「吃音」当事者は、これを克服するために彼独自のローカル・ルールを作ることが求められるのである。そして、このような考え方は、「吃音」当事者だけでなく、実は何らかの特性をもっているであろう全ての人間にとって必要な考え方ではないのだろうか。私はエピソード10からこのことを学んだ。