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「人生・生き方」「教育・子育て」「健康・スポーツ」などについて考え、雑学的な知識を参考にしながらエッセイ風に綴るblogです。

「総合型地域スポーツクラブ」とは?~その理念と我が県内の現状について~

   「総合型地域スポーツクラブ」(以下、「総合型クラブ」)という名称を聞いたことがある人はまだまだ少ないのではないだろうか。

 

    そこで今回は、「総合型クラブ」の理念と我が県内の現状について書いてみたい。

 

   「総合型クラブ」とは、「地域住民が生活する地域にある施設を主たる活動拠点として、参加する会員の会費で運営が賄われていることを前提に、複数の競技種目が行われたり、複数の世代で行われたりするスポーツクラブ」のことである。「多種目・多世代・多志向」や「地域住民の自主的・主体的な運営」等が、その主な特徴である。

 

    元々ヨーロッパ諸国では、地域住民の多くがその土地の「総合型クラブ」に加入し、生活の中にスポーツを根付かせている。そこで、生涯スポーツ社会を目指す日本も、ヨーロッパ諸国に見習い、クラブハウスをもつスポーツコミュニティづくりを導入しようとしたのが始まりである。

 

 国のレベルでは、平成12年9月に策定された「スポーツ振興基本計画」において、「総合型クラブ」の全国展開を最重点施策と位置付け、平成22年までに全国各市区町村に少なくとも1つの「総合型クラブ」を育成することを目標としていた。また、県のレベルでも、平成15年3月に策定された我が県の「スポーツ振興計画(前期)」において、「総合型クラブ」の設置(平成22年までに全市町村に少なくとも1つ、平成29年までに全中学校区に少なくとも1つ)を目標としていた。ただし、平成23年3月に策定された我が県の「スポーツ振興計画(後期)」においては、平成29年までに県内68の「総合型クラブ」の設置を目指すことに改訂していた。

 

    その他にも、国レベルの「スポーツ立国戦略」「スポーツ基本法」「スポーツ基本計画」等において、総合型クラブ育成による新たなスポーツコミュニティ=「新たな公共」の形成や、地方公共団体の役割として「地域スポーツクラブ」(「総合型クラブ」を含む)への支援等が謳われるなど、ライフステージに応じたスポーツ機会の創造、つまり生涯スポーツ社会の実現に対する具体的な施策が明示されており、「総合型クラブ」の積極的な創設と円滑な運営等は喫緊の課題になっていたのである。

 

 では、それらの施策に対応した我が県内の現状は、どのようになっているのであろうか。

 

 平成30年度末において県内に設立している「総合型クラブ」数は、41団体。その内、NPO法人格を取得しているのは4団体。ただし、県下20市町の内、4市町が設立数0。また、創設したものの、地域における人口減少や少子高齢化に伴って参加者数が減少したり、運営役員が高齢になったりして、主催事業や活動等が停滞しているクラブが少なくない。中には、ほとんど内実が形骸化して名ばかりのクラブもある。今、改めて「総合型クラブ」の存在意義が問われているのである。

 

  私が現在勤務している各種スポーツの普及・振興を図る事業を行う公益財団法人内には、県内の「総合型クラブ」の創設や運営等への支援とともに、県民が明るく豊かで活力に満ちた生活が送れるようにスポーツを通じた仲間づくり・環境づくりへの支援を行うことを目的とする我が県の「広域スポーツセンター」が設置されている。その主な事業は県からの委託費で賄われているが、当法人の自主事業も行っている。今後、我が県において生涯スポーツ社会の実現をより図るために、これらの事業にさらに力を入れなければならないと、私は改めて使命感に燃えている。

「テニスプロ」の過酷とも言える現実!~関口周一プロのエピソードから~

   新年早々、プロテニス界から朗報が入ってきた。現在、世界ランキング9位の錦織圭選手が、ブリスベン国際テニスを初制覇し、2016年2月のメンフィス・オープン以来約3年ぶりとなるツアー大会通算12勝目をマークしたのである。優勝賞金約992万円を獲得。プロテニス界は華やかな世界だとの印象を強めた。

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 ところが、そのような印象を払拭するような現実を著した『テニスプロはつらいよ―世界を飛び、超格差社会を闘う―』(井山夏生著)を読んだ。著者は、30歳から18年間「テニスジャーナル」の編集長を務めた後、フリーランスの編集者兼ライターに転身したらしい。そのテニスに詳しい著者が、テニスプロ・関口周一のジュニア時代からのエピソードを中心にして、「テニスプロ」の過酷とも言える現実を描き出したのが本書である。

 

 今回の記事では、私の心に深く残ったエピソードの中から幾つかを紹介してみたい。

 

 まず近年のエピソードから。2014年の楽天ジャパンオープンで優勝したのは当時世界ランキング8位の錦織圭選手で、その優勝賞金は30万ドル(約3300万円)であった。実は、この大会に出場した日本人選手の中に当時世界ランキング440位の関口周一選手(錦織の2つ下)の名前もあった。しかし、2回勝ってようやく本戦への権利を獲得できる「予選」の1回戦で彼は敗れている。彼が手にした賞金は550ドル(約6万円)。錦織選手の540分の1だった。これが「テニスプロ」の現実。強くなければ注目も集められないし報酬も得られない。当たり前と言えば当たり前。プロテニスの世界は過酷な競争社会なのである。

 

 とは言うものの、関口選手はジュニア時代に世界ランキング5位まで上り詰め、「修造チャレンジ」のメンバーにも選抜されて将来を嘱望されていたテニスエリートだったのである。その彼がなぜ今のレベルに留まっているのか?その理由の一つに挙げることができるのが、一つの試合の一つのミスから始まるエピソード。

 

    それは、18歳を迎えたジュニアの最終年度で出場した全仏ジュニアの前哨戦となるイタリアンオープン。それまで絶好調だった彼は、得意のレッドクレーでイタリアの選手と対戦したが、その試合で普通のラリーで打った何でもないボールがとんでもなくアウトしてしまった。そして、このたった1本のミスからパニックに陥ってしまったのだ。本番の全仏までに修正をかけたが元に戻らず、結局第4シードで出場した全仏ジュニアはベスト16止まり。続いて出場したウィンブルドンジュニアは1回戦負け。その後、プロ契約に直結する全日本ジュニア選手権では、決勝戦で0-6、2-6の完敗。全米オープンではまさかの1回戦負けと続く。これらの結果、ランキングは急降下してトップ10落ちし、JE (フューチャーズやチャレンジャーの試合に推薦枠で出場する権利)を喪失してしまうのである。春先までの夢の扉は秋口には閉ざしてしまった。彼にはジュニア時代にターニングポイントがこれ以外に2回あったが、全てあと一歩足りなかったのである。

 

    しかし、関口選手は2010年7月に日本テニス協会にプロフェッショナル申請を行い、承認されてプロになる。テニスは申請書1枚でプロになることができ、賞金を受け取ることができるシンプルな仕組みなのだ。プロになってからの彼は、1年目で世界ランキング568位、2年目700位台、3年目265位。4年目は途中259位まで上がったが、けがをしてから444位まで急降下。5年目は396位で獲得賞金は1万4849ドル(約170万円-単純に計算すると、錦織の300分の1以下)。これにスポンサーとの契約金を合わせても、ギリギリの状態でツアーを回っているのが、世界を目指すテニスプロ・関口周一の“極貧生活”とも言うべき現実!!最新のランキングは337位(2017年8月28日現在)。彼は国内では10位のレベルなのだが…。

 

    それにしても、「テニスプロ」になりたいという関口選手の夢を叶えるために、普通のサラリーマンだった両親はどれだけの経済的・生活的な犠牲を強いられたか!読後、「テニスプロ」自身はもちろんだが、「テニス親」も本当に大変だ!!という心象が強く残った。

箱根駅伝における「学連選抜」の選手が問われるチームワークの精神とは?

 箱根駅伝の総合5連覇に挑んだ青山学院大学だったが、復路は優勝したものの往路の誤算が響いて結局は2位に終わってしまった。総合優勝は東海大学。同大学は往路も復路も2位だったが、全ての選手が自分の持てる力を出し切って走り、まさに総合力によって46度目の挑戦で初の栄光に輝いた。3位は往路優勝の東洋大学だった。また、シード権を獲得したその他の大学は、駒澤大学帝京大学・法政大学・國學院大學順天堂大学拓殖大学中央学院大学の7校であった。

 

 私は毎年、正月恒例の箱根駅伝をテレビ中継で観戦するのを楽しみにしている。その理由は、優勝を目指して自校の襷(たすき)をできるだけ早く引き継ぐために、一人一人の選手が自分の力を出し切って懸命に力走する姿に感動を覚えるからである。若者が純粋にスポーツに取り組んでいる姿を見ると、身体の内側からやる気や勇気が湧いてくる。また、その一人一人の選手にはそれぞれに異なる歴史があり、さまざまな思いを背負って各区間を激走しているドラマがあるからである。「今、ここ」を生きて走っている若者の実存性に共感することは、私自身が各選手と共に走っている充実感を味わうことができる。私は今年もそのような濃密な時間を持つことができ、爽やかな新年のスタートを切ることができた。

 

 ところで、今年の箱根駅伝で関東学生連合の選手の走る姿が画面に映された時、私はふと疑問に思ったことがある。それは、自校の名誉と栄光のために襷を引き継いでいくことで芽生えるチームワークの精神に支えられた駅伝という集団競技において、「学連選抜」の選手のチームワークの精神とはどのようなものなのだろうか。自校の襷ではない襷を引き継いで走る各選手のモチベーションは、自分の記録にこだわり自分のために走ることなのだろうか。そもそも「学連選抜」の選手にチームワークの精神が必要なのだろうか。私の頭の中は様々な疑問でいっぱいになった。

 

 その時に、ある小説が私の頭の中に思い浮かんだ。それは、シリーズものの刑事小説で著名な堂場瞬一氏の『チーム』というスポーツ小説である。箱根駅伝出場を逃した大学の中から、予選で好タイムを出した選手が選ばれる混成チーム「学連選抜」を取り上げ、その選手たちの葛藤と激走を描き切ったスポーツ小説。私は初めてこのジャンルの小説を読んだが、箱根駅伝において激走する選手の心理描写とレース展開を克明に描いており、その臨場感に興奮した。

 

 本書の中に、傲岸不遜だけど走る能力の高い超エリートランナーの山城という人物が登場する。彼は、「こんな寄せ集め、チームじゃない。」と公言し、あくまでも2月に参加する初マラソンの調整のために走るだけだとする自己主張を曲げない。そして、吉池監督の作戦により9区を任せられ、期待どおりにチームを1位に押し上げてアンカーの浦キャプテンに襷を繋ぐ。しかし、そのレース中に初めて脚の故障が起き、過去に膝の故障が原因で苦杯を嘗めてきた浦の気持ちに気付く。最後には、浦のゴールを見定めるために大手町に必死で駆けつけようとするのである。結果は…。これから読もうとする読者のために結果は書かないでおくが、最後に山城が「俺たちはチームだから」という言葉を発して本書は閉じられている。

 

 私は本書を読みながら、箱根駅伝における「学連選抜」の選手に問われるチームワークの精神とは、「寄せ集めだけど、チームとしての目標を掲げ、各選手が自分の役割を果たそうと最善の努力を尽くして襷を引き継ごうとする心」であり、その根底には他のスポーツにはない駅伝という集団競技の特性があると確信した。

腰椎椎間板ヘルニアを自力で改善する方法について

   前回までに書いたように、腰椎椎間板ヘルニアによる左下肢の激痛に初めて襲われた日から、約2年の月日が過ぎた。現在、左下肢の痛みはほとんどなく、時々わずかなしびれを感じる程度である。このような症状の改善は患部の様子の違いにも表れている。下図のように当初のMRI画像(縦断面図)では、ヘルニア(髄核)が突出して神経根を圧迫している様子がよく分かった。(図1)それに対してそれから約3か月後のものは、ヘルニアがほとんど消滅している様子がよく分かった。(図2)私が患ったような突出型ヘルニアの場合、体内の免疫細胞(マクロファージ)が異物とみなして食べていくので、数か月で自然消滅することが近年判明したらしい。私は主治医の診断と治療方針を信じ、疼痛治療薬を服用しながら痛みと闘う決意をして、症状の改善を待った。その甲斐あって、約3か月後には左下肢の痛みはほとんどなくなったのである。

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      (図1)

    ↓

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      (図2)

     しかし、それ以後、少し活発な身体運動を行うと、左臀部と左ふくらはぎに多少の違和感とわずかなしびれが残るようになった。痛いわけではないが、何となく不気味な感じがする。「再発したら嫌だなあ。」と言うのが本音である。そこで、現在の症状をさらに改善したいと考えて、近くの書店で購入したのが、『椎間板ヘルニアは自分で治せる!』(酒井慎太郎著)である。

 

 本書は、腰や首の椎間板ヘルニアをはじめ、ひざ痛・肩こりなどを施術する「さかいクリニックグループ」代表の酒井氏が、既に突出したヘルニアを引っ込めたり、痛みやしびれを解消したりする簡単な方法を実践的に紹介している本である。この方法のポイントは、「椎間板ヘルニアをじわじわと進行させる関節異常をうまく矯正し、正常な状態に戻していくこと。」(直接的アプローチ)と「関節異常を進行させる“従来の生活習慣”を止め、正常な状態に導く“新しい生活習慣”を取り入れること。」(間接的アプローチ)の二つ。また、腰と首は密接にリンクしているので、「それらの関節のケアはセットで行うとよいこと。」さらに、腰や首の関節異常を放置していると、最終的にはひざ関節や股関節までトラブルに見舞われるようになるので、「上半身である腰と首の段階で関節トラブルをしっかり治す必要があること。」…

 

 では、具体的に私が現在行っている腰椎椎間板ヘルニアを自力で改善する幾つかの方法を紹介しよう。

 

    まず、直接的アプローチとしては、〔基本のストレッチ〕として「腰のテニスボール体操」と「オットセイ&ネコ体操」を行う。そして、進行度に応じて「腕上げ上体ひねり」「腰椎回旋テニスボール体操」等を追加していく。また、しびれがひどい時には「脚L字ストレッチ」を行う。

 

    次に、間接的アプローチとしては、「体重の約七割を後にかけるようにして立つ」「腕を後に引くイメージで振り、脚を後に蹴り出す時にひざを伸ばすように歩く」「上半身は立つときの姿勢と同じにし、骨盤が傾かないように椅子に深く座る」「少し硬めの敷布団で、枕は外すか、低いものを使ってなるべく仰向けに寝る」「少しぬるめのお湯(39℃くらい)に、首まで10分程度浸かって体を芯まで温める」等々。

 

    現在、私は腰椎椎間板ヘルニアを患う前に行っていた「夕食後のウォーキング」を、妻と共に再開している。また、私の趣味の一つになった「気楽な週末テニス」も楽しむことができている。折に触れて上述の腰椎椎間板ヘルニアを自力で改善する方法を実行しているからか、調子はまずまず。今後もこの方法を実行しつつ、継続的に運動やスポーツに親しみ、心身共に健康な日々を送っていきたいと考えている。

『言葉で治療する』ということ~闘病生活を支えたB医師の<言葉>~

    私が二番目の整形外科病院を初めて受診し、問診や触診、X線及びMRI検査の画像解析等から「腰椎椎間板ヘルニア」だと診断された際に、B医師は「痛みがひどく、辛そうですね。私も同じ病気で苦しみました。この病気は治り、今の激痛から解放される日は必ず来ますからね。それまで根気強く治療しましょう。」という<言葉>を掛けてくれた。最初に受診した整形外科病院のA医師の心ない<言葉>によって傷ついていた私は、B医師のこの<言葉>によってこれからの闘病生活に対して前向きの気持ちをもつことができた。

 

    それにしてもA医師の〈言葉〉を思い出すと、今でも腹立たしい気持ちになる。左下肢の激痛に耐えかねて再診した際、「この痛みはいつ頃軽減するのでしょうか。」という私の問いに「このまま薬物療法を続けて、自然に軽減したらめでたし、めでたし、ラッキーです。」と軽いノリの返答。次に、私が「神経ブロック注射をすれば少しは楽になると聞いたのですが…。」と言い掛けると、「神経ブロック注射は痛いですよ~。」とまるで脅すような対応。さらに、私が「これからもこの激痛が続くのなら手術も考えたいのですが、どのタイミングで手術を決断した方がいいでしょうか。」と問うと、「痛みに耐えられずに、ギブアップした時ですね。」「では、どのような手術をするのでしょうか。」「それは、手術をすると決めた時に教えします。」「そうですか…。」このようなA医師との会話によって、患者としての私の心は傷ついた。

 

    A医師は、関東の有名私立大学医学部卒で海外での臨床留学も経験し、今までに各種プロスポーツ選手の診療にも携わってきた、県下でもスポーツ・人工関節手術の分野で大きな業績を上げているエリート整形外科医である。それに対してB医師は、地方の国立大学医学部卒で地方都市において急性期の外傷をメインに様々な慢性疾患の治療に携わってきた、地域医療に尽力している地道な整形外科医である。外見的にもA医師は都会的なスマートさを備えた壮年医師、それに対してB医師は田舎的な人間味のある中年医師という感じ。でも、どちらの医師が患者にとって「よい医師」と言えるだろうか。もちろん私にとってはB医師の方である。

 

    長野県の諏訪中央病院で地域医療に長年携わり、現在名誉院長でテレビのワイドショーのコメンテーターとしても著名な鎌田實氏が著した『言葉で治療する』を病床で読んだ。その第1章「医療者の言葉しだいで治療の日々が天国にも地獄にもなる」において、著者に送られてきた手紙やメールの内容を引用しながら、主治医が心ない<言葉>を吐いて、がんの患者やその家族の心に傷と不信を与えた実例を紹介している。

 

    その中で「なぜ、お医者様たちは、患者や家族の感情を考えずに、自分の思ったことをストレートに言ったり、感情をそのままぶつけたりするのでしょう。医師としてよりも、まず人としての基本的なコミュニケーション能力が欠けているように思えてなりません。」という投書内容を引用している。私も同感である。私たち患者にとっては、自分たちの心に寄り添ってくれる医師であってほしい。患者の「病気」しか見ない医師ではなく、「人間丸ごと」を見てくれる医師であってほしい。そして、医学は人間を相手にする科学なのだから、何よりも<言葉>を大切にする医師であってほしい。著者は、「納得」「信頼」「共感」「聞く力」「支える」等のキーワードを基にして、医療現場における新しいコミュニケーション術の視座から<言葉>の大切さを力説している。心ある医師は、医療技術だけでなく『言葉で治療する』ものなのである。

 

 私は元教師である。現職の時、私は一人一人の子どもに対して、その子のその時々の気持ちや置かれている立場等を踏まえた〈言葉〉を語り掛けていたつもりである。また、現在の職場でも、運動施設の利用者やスポーツ教室等の受講者という一人一人の人間と心が通い合うような〈言葉〉遣いに気を付けている。これからも<言葉>によるコミュニケーション能力を高める努力を怠らず、誰に対しても誠意ある<言葉>で語り掛けることができるようにしようと思う。

痛みと闘う日々(3)~「腰椎椎間板ヘルニア」発症の誘因について~

    夜、とんぷくの消炎鎮痛剤を服用しても、依然として断片的な睡眠時間しか取れない情況が続いていた。また、最近、左臀部の鈍痛という症状が加わった。そこで、12月14日(木)、1週間ぶりに二番目の整形外科病院を再々度受診し、これらの情況を愁訴した。

 

    B医師は、「夜、十分な睡眠が取れないのは辛いですね。」と言い、1週間分の睡眠導入剤を処方してくれた。また、「左臀部の鈍痛は、腰痛椎間板ヘルニアの典型的な症状です。症状の変化はよくあることです。全体的に痛みが軽減しているのなら、そんなに気にすることはないですよ。」と話された。しかし、その夜、睡眠導入剤を飲んだが、その後1時間ほどの睡眠しか取れなかった。また、日中は左臀部の鈍痛のために、椅子に長く座れなくなってしまった。なかなか出口の光が見えてこない…。

 

 とはいうものの、同月21日(木)には、常用している鎮痛剤が効いている日中、前屈みの姿勢ながら杖をつかないで何とか歩行することができるようになっていた。もちろん左下肢の痛みやしびれと左臀部の鈍痛を感じながらではあるが…。でも、発症時と比べたら現在の左下肢の痛みやしびれの程度は大きく軽減した。また、精神的な面でも随分安定してきた。発症してから約1か月間の自宅での安静と、鎮痛剤を主とした保存療法による治療等の効果である。

 

 そこで、「腰椎椎間板ヘルニア」を発症した誘因について、当時いろいろと思いを巡らせてみた内容をまとめてみる。

 

    今までの人生を振り返ってみると、私は20代後半にひどい腰痛を患ったことがある。その時は整形外科の治療よりも、整体や針等の治療に頼って治した。しかし、この腰痛はその後事ある毎に再発し、持病になってしまった。もしかしたら、この腰痛の原因は軽い「腰椎椎間板ヘルニア」だったのかもしれない。

 

    また、数年前に市内のある小学校の修学旅行で団長として引率した際に、左下肢(特にふくらはぎ)に痛みが走り、歩行が困難になったことがあった。その際は学校近くの整形外科病院を受診し、軽い「腰椎椎間板ヘルニア」と診断されて薬物や牽引・電気治療等による保存療法を受けて治したことがあった。

 

    さらに、今回発症する数日前から、何となく腰部や左下肢に倦怠感を感じて、風呂の中でマッサージしたり布団の上でストレッチ体操をしたりしていた。そのような中、たまたまテニスの練習中に腰を強く捻ったことがきっかけで発症してしまった。つまり、もともと私は「腰椎椎間板ヘルニア」になりやすい体質なのである。私のこの体質に関する自己認識や健康保持に関するリスク・マネージメントが甘かったことが、発症の誘因になっていたのではないだろうか。また、否が応にも老化現象が進んでいる年齢にもかかわらず、激しい動きが求められるテニスを自分の現在の健康状態を考慮せずに行ったことも今回の発症の誘因になったのだと思う。

 

    今後は自分の年齢や体調、そして運動レディネスや能力等を考慮して自分に合った運動・スポーツ実践に心掛けたいと思っている。さらに、ある医学雑誌には、「椎間板ヘルニア」の発症にはストレスも誘因になると書いていた。現在の職場でストレスを感じることはほとんどないが、勝手に自分がストレスを作っている場合もあるので、これからは精神的なゆとりをもって、部下たちと対話的・協働的に仕事をしていこうと思った。

痛みと闘う日々(2)~「自然治癒力」と「精神力」について~

    12月9日(金)に、二番目の整形外科病院を再度受診した。朝・昼・夜(寝る前)と服用して日中は一定の効果があった今までの鎮痛薬(過剰に興奮した神経から発信される痛みの信号を抑え、痛みを和らげる薬)以外に、夜、数時間眠った後に起きると必ず襲ってくる激痛を抑えるために効果の高いと言われる消炎鎮痛薬を追加してもらった。夜にまとまった睡眠時間を確保するためである。

 

    また、B医師に「なぜ腰椎椎間板ヘルニアなのに私の場合は身体を前屈しても痛くならないのか。」と質問したら、「腰椎椎間板ヘルニアでも腰部脊柱管狭窄症でも、多くの患者さんは前屈みの姿勢の方が楽だと言っている。あまり気にしなくてもよい。」との回答。B医師は私の病態からあくまで病名は「腰椎椎間板ヘルニア」であり、治療方針は「まずは左下肢に起きている痛みを軽減し、痛みの悪循環にならないようにすることが第一だ。後は飛び出たヘルニア(髄核)が早く自然消滅するのを待つしかない。どうしても痛みを我慢できなければ手術という方法もあるけど、それは最後の手段だ。」と説明してくれたので、私は納得した。というのは、この病気について自分なりに学習していたからである。

 

    最近までヘルニアは手術で摘出しないと治らないと考えられていたが、近年MRI検査で経過を観察できるようになり、ヘルニアが自然に消滅する例が多いことが明らかになってきた。現在、最低3か月間は手術しないで経過を観察するのが主流なのである。では、なぜヘルニアは自然消滅するのか?それは、白血球中のマクロファージが飛び出たヘルニア(髄核)を異物とみなして食べるのである。つまり、自己を守る免疫機構の一つであり、生体がもつ「自然治癒力」の一つなのである。特に私の場合のように髄核が遊離脱出しているタイプは自然消滅することが多いらしい。私は自分のもつ「自然治癒力」を信じたいと思った。

 

    さて、処方してくれた薬が効いてくれることを願って、その夜私は指示された通り消炎鎮痛薬を服用した。ところが、数時間の睡眠時間が取れた後、今までの痛み以上の症状になってしまった。朝の4時過ぎから、今までの鎮痛薬を飲んで効き始めた8時過ぎまでの4時間ほど、左下肢の膝下の部位を襲った激痛に耐え続けた。私は初めの症状に戻ってしまったのではないかと怯え、絶望感に苛まれながらひたすら耐えた。

 

    その最中に私の頭に浮かんだのは、身近に迫る死期を自覚しながら脊椎カリエスによる激痛に耐え続けた病床の正岡子規の姿であった。子規は「病気の境遇に処しては、病気を楽しむといふことにならなければ生きて居ても何の面白味もない」(『病床六尺』75)と書いて、最悪の状態になってなお、現在の不満より楽しさを求めようとした。私は子規のそのような「精神力」に思いを馳せた。その点、私はついつい現状の不安や不満に苛立ち、つまらないことで腹を立てたり自分を責めたりしてしまう。でも、今の私は子規以上の自由がまだ残されている。そこで、痛みが軽減している間に、子規を見習って身近にある楽しさや嬉しさを味わうようにしようと考えた。食欲を満たす食事や知識欲を満たす読書等、今の私に与えられている自由を大いに活かそうと思った。私はそれらを実行するようになって以来、左下肢の膝下を何度も襲ってくる痛みと夜の睡眠不足等を、「精神力」に支えられた平常心で耐えられるようになった。(ある意味、諦観の境地みたいなものになったのかなあ…。)

 

    その1週間後、薬が効いている時の痛みは今までの最高レベルを10としたら4~5まで軽減した。夜はまだまだ睡眠時間が確保できず、日中は杖をついての歩行が余儀なくされている状況に変わりはなかったが、精神的には楽になってきた。これも子規から学んだ「精神力」のお陰だと感謝した。(次回へ続く。)

痛みと闘う日々(1)~「腰部脊柱管狭窄症」?「腰椎椎間板ヘルニア」?~

    昨年最後になった前回の記事で、痛みについて2年ほど前に妻に起こった出来事を書いた。そこで、新年最初の今回は、その同時期に私自身に起こった出来事を、当時の手記を手掛かりにして書いてみたい。しかし、何分にもかなりの時間が経過しており、記憶が曖昧になっていることも多い。その点について御容赦願いたい。 

                             ※

 「痛いっ!」…左下肢にあまりにも激しい痛みが走り、布団の上で身動きができなくなってしまったのは、平成28年11月21日(月)の夜10時半頃だった。とにかく激痛だったので、家にあった鎮痛剤を飲んで様子を見ることにした。しかし、激痛は収まらず、その夜は朝まで寝ることはできなかった。

 

    翌朝、取り敢えず勤務先の所属長に電話で事情を説明し年次有給休暇をもらい、朝一番に以前妻が診てもらった整形外科病院を受診した。問診と触診、そしてX線検査の画像解析等による総合的な診断として、老齢期によく発症する「腰部脊柱管狭窄症」と言われ、薬物療法による治療を続ける中で自然に痛みが消滅するのを待つことになった。しかし、処方してくれた薬を3日間飲んで静養していても、左下肢、特に左臀部から左脚の後ろ側に走る痛みとしびれはあまり軽減せず、毎夜ほとんど眠ることができない状態が続いた。

 

    そこで、25日(金)に再度受診して効果の高い消炎鎮痛剤を追加してもらった。ところが、それでも少ししか症状は改善せず、一日中左下肢の激痛と闘う日々が続いた。とにかく左下肢に強い痛さとしびれの波が襲い続けてくるので、「居ても立ってもいられない」状態なのである。何度も心が折れそうになるが、A医師の診断と処方等を信じて耐え続けた。

 

    たが、我慢するにも限度があり、もう少し痛みを緩和してほしくて、28日(月)に再々度受診し、A医師に今までの情況を説明したり、今後の見通しについて質問したりした。ところが、A医師の回答はそっけなく、患者に寄り添うような医療態度とは感じなかった。また、この病院はX線検査しかできなくて、神経根を圧迫している原因をはっきりと特定できなかった。

 

    そこで、私はA医師に対する不信感と痛みの原因解明欲求のために、セカンドオピニオンを得るべくMRI検査ができる別の整形外科病院を受診することにした。

 

    二番目の整形外科病院では、問診と触診、X線及びMRI検査の画像解析等による総合的な判断して、「腰椎椎間板ヘルニア」と診断された。そして、初めの病院とほぼ同じで薬物療法や神経ブロック等による治療を続ける中で自然に痛みが消滅するのを待つという治療方針を示された。しかし、B医師の医療態度は患者に寄り添った人間味豊かなもので、質問に対しても一つ一つ丁寧で分かりやすく回答してくれたので、私は初めての出会いで信頼感をもった。だから、翌日再度受診した際には、激痛の治療法として効果的な神経ブロック注射を決死の覚悟(ちょっと大袈裟か!)で打つことができた。ただ残念だったのは、この注射による症状消失効果は約12時間しか続かなかったことである。その代りと言っては何だが、このことは注射を打った神経根の圧迫が痛みの原因であると証明することになり、それはそれなりの意義があった。その後、左臀部から左太ももの裏側にかけての痛みは軽減し、主に左膝から下の部位に痛みとしびれが集中するようになったことも治療効果の現れなのではないかと思う。それでも夜の睡眠時間は襲ってくる当該部位の痛みとしびれのために断片的に1時間半~2時間半程度しか取れない。また、日中は杖をついての歩行しかできない状態が続いた。

 

 それにしても初めの病院では「腰部脊柱管狭窄症」(①と呼ぶ)、二番目の病院では「腰椎椎間板ヘルニア」(②と呼ぶ)と診断されたことに疑問は残った。医学雑誌等による鑑別診断によると、①は前屈すると症状が軽くなり、②は逆に前屈すると痛みが出るらしい。私の場合は①の症状を示す。しかし、MRI検査の画像を見せてもらうと、繊維輪の亀裂から髄核が飛び出して移動し神経根を圧迫しているので、典型的な②の病態を示しているのである。私の頭は今でももやもやしていた。病名をはっきりさせることが症状の改善に役立つ訳ではないが、精神を安定させ痛みと闘う気力を起こす契機にはなる。明日受診する際にB医師に質問しようと思った。(次回へ続く。)

痛みを解消するには「統合医療」という方法が有効!

  私は妻に「あなたは発熱や痛みに対する耐性力が乏しく、大袈裟だ。」とよく言われている。確かにちょっと熱が出たりすると、「しんどい、しんどい。」という言葉が口をつく。また、持病の腰痛が起こったりすると、「痛っ、痛っ。」と無意識に言ってしまう。自分でも「少し大袈裟なのかな。」と思う時もある。しかし、そんなことを私に言う妻にも、2年ほど前にこんなことがあった。

 

 勤務を終えて帰宅した私に、妻が「商店街にあるドラックストアに行きたいけど、足が少し痛いので車で連れて行って。」と言うので送迎した。その時、妻は左足を少し引きずるような様子だったが、私は自分のことを棚に上げて「ちょっと大袈裟じゃないの。」と思った。しかし、その夜、症状は急激に悪化。股関節横の左足外側に強い痛みが襲い、一人で歩くことができないどころか、私が介助して体重移動を少しするだけでも数10分かかり、妻は痛みのためにあぶら汗が流れ、一睡もできないほどになった。それでも、妻は私とは違い、じっと耐えているようだった。

 

 翌日私はどうしても手を離せない仕事があったので、それを手早くやり終えて午前中には早退し、妻を近くの整形外科病院に連れて行った。受付から1時間半ほど待ってからやっと受診。レントゲン撮影後、診断を受けた。痛みの原因は左腰骨の外側に石灰化によるトゲが出て、神経を圧迫しているらしい。治療法は患部へのシップと投薬。その結果、翌朝には痛みが軽減し、妻は何とか自力で歩けるようになった。「やはりあなたは痛みに対して耐性力が強かった!」

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 そこで、この出来事を契機にして、私は以前購入していた『痛みの力』(永田勝太郎著)を読んでみた。当時多くのことを学ぶことができたので、今回はその学びの内容の一部を私なりに簡単にまとめてみたい。

 

 人間の痛みには、身体の痛み・こころの痛み・環境からくる痛み・生きる意味(実存性)を失うことからくる痛みなどがあると言う。これらは取りも直さず人間の「生きざま」そのものが原因の痛みである。これらの要素が複雑に絡み、人間の痛みをわかりにくくする。そのもつれた糸を解きほぐし、できるだけシンプルな形にすると、痛みを解消しやすくなるらしい。

 

 また、問題の解決には、西洋医学のパソジェネシス(病因追究論=悪いところを見つけて、そこを除去することが主な治療になる病気中心の考え方)に加え、東洋医学や心身医学等のサルトジェネシス(健康創生論=どこか病んでいる臓器があっても、他に健康な臓器があるなら、そこをもっと活性化させて人間全体のバランスをとっていく全人的な考え方)の智慧も導入した「統合医療」という方法が有効らしい。

 

 次に、身体の痛みで苦しんでいると、こころも痛んでくる。その時、救ってくれるのは「痛い!」という叫びを「傍にいて!」と理解し、受け止めてくれる人である。つまり、医療の一番の基本は「doingよりもBeing」(何かするよりも絶えず傍にいること)なのである。私は、一晩中痛みに苦しんでいる妻に対して「何もしてやれない」という無力感ばかりに苛まれていたが、常に傍にいて支えたことは「大きな救いになっていたのだ」と思えて何となく嬉しくなった。

 

 最後に、機能的病態(漢方医学で言う「未病」)が器質的病態に進行すると、強い痛みが出てくる。そして、西洋医学は器質的病態にまで進行した病態が治療の対象になる。一方、伝統的な東洋医学はその人の身体が「今、ここ」でどういう状態かを医師が診断し、身体全体のバランスをとる補法(その人に合った補剤による方法や心理療法による方法)を中心とした治療を行う。これは、あまり強い痛みのない「未病」のうちの治療法として有効である。特に痛みを伴う病は「未病」のうちに治してしまうことが大切なのである。したがって、痛みを未然に防ぐ医療としても、「統合医療」という考え方や方法が有効だと言えそうである。

「自分のため」と「社会のため」を両立させる教育を目指して

   私の書架には古びた岩波文庫の『エミール』の上・下巻が並んでいる。本当は中巻も加えて三巻なのだが、中巻はない。若い頃、上・下二巻と勘違いして古書店で購入し、上巻の途中まで読んで根を上げてしまったからである。教師として「教育はどうあるべきか」と真剣に追究しようと読み始めたのに、日々の授業準備や成績処理等の実務に追われていたとはいえ、何とも情けない話である。そして、いつしか忘却の彼方へ…。

 

 ところが、2年ほど前にNHKのEテレ「100分de名著」において、哲学者で東京医科大学哲学教室教授の西研氏を講師に招いてルソーの『エミール』が取り上げられていた。私は第2回目からの放映を3週にわたって視聴するとともに、NHKテキストを購入して読んだのである。教職教養として内容の概要は知っていたが、改めて著者のジャン=ジャック・ルソーの教育及び社会思想等を今まで以上に知ることでき、当時大変感銘したことを覚えている。

 

 そこで、今回は私がそのNHKテキストを読んだ当時、特に心に残ったことを思い出しながら、教育のよりよい方向性について考えてみたい。

 

 18世紀の絶対王政下のフランスで活躍したルソーは、近代の「自由な社会」の理念を設計した思想家である。ルソーの考えた「自由な社会」とは、平和共存するために必要なことを自分たちで話し合ってルール(法律)として取り決める「自治」の社会であった。そして、そのような自由な社会をつくるために、『社会契約論』で「一般意志」(=皆が欲すること)という概念を提出した。議会で決める法律の正当性は「多数が賛成したから」という点にあるのではなく、「一般意志=皆にとっての利益を保障しているから」という点にあると主張したのである。

 

 私は国民国家における「多数決」の民主主義の本質は、この「一般意志」なのだと再認識した。自分の利益はもちろん大切だが、他人の言い分もよく聞いて“自分も含めた皆が得になるような”ルールをつくっていくこと。そして、それを実現するためにはそのような姿勢をもつ人間を育てることが思想的な課題になる。ルソーが『エミール』で課題としたのは、「自分のため」と「みんなのため」という、折り合いにくい二つを両立させた真に自由な人間をどうやって育てるかということであったのだ。したがって、共に1762年に出版された『社会契約論』と『エミール』は、いわば車の両輪であり二つで一体の書物なのである。

 

 「近代教育学の古典」ともいわれる『エミール』は、著者ルソー自身である語り手が家庭教師となって、エミールという架空の男の子をいかに育て上げていくかを空想し、それを小説のような形式で語った作品である。

 

    エミールが生まれてから大人になり結婚するまで、その成長に沿って5つの編に分けており、各時期の発達段階を明快に示している。この発達段階の記述は20世紀の発達心理学の祖の一人であるピアジェの説の原型とも言えるものである。長く義務教育に携わってきた私は、乳幼児期の「快不快」や児童期・少年前期の「感覚・知覚」、少年後期の「好奇心・用不用」等、ルソーによる発達特性のとらえ方はピアジェのそれと共通していることが多いことに気付き、驚いた。

 

 また、ルソーは思春期・青年期には人間一般に対する「あわれみ」の情を育てることを大切にしている。ここでいう「あわれみ」とは「他者への共感能力」のことである。そして、「あわれみ」を広げていくことを可能にする心理的な条件として三つの格率(原則)を述べているが、その中には仏教でいう「自利利他の心」を意味するような格率がある。私は洋の東西に関係なく、教育には普遍的な原則があるのだなあと感銘した。

 

 とにかくルソーは、「自分のため」と「社会のため」を両立させる教育を目指していたのである。このことは、個人の尊厳を第一に守ろうとする現代社会においても、大切にされるべき教育の方向性ではないだろうか。