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「人生・生き方」「教育・子育て」「健康・スポーツ」などについて考え、雑学的な知識を参考にしながらエッセイ風に綴るblogです。

「特別の教科 道徳」の実践的な内容について考えたこと~竹田青嗣氏と苫野一徳氏という二人の哲学者による対談内容から学ぶ(2)~

     前回の「特別の教科 道徳」に関する理念的な内容に引き続き、今回は実践的な内容の根本的な考え方について、『授業づくりネットワーク』(第28号/2017年)における竹田青嗣氏と苫野一徳氏という二人の哲学者による巻頭対談「全面実施目前、『道徳』の本質を問う!」を参考にしながら考えてみたい。

 

 まず、竹田氏は「道徳は学べるか、教えられるか」という質問に対して、おおよそ次のようなことを答えている。

 

 共同体的な同情や憐憫、共感などという道徳的感受性や道徳感情は、知識として教えることはできない。それを育てるのはまず家庭、次によい友達関係である。ただし、「相互承認」が我々の社会の基本であること、他人の自由を侵害しないという意志において、実は自分の自由が守られているということ、その共通の意志で社会の営みが支えられていることは教えられる。また、このことの理解を深めるのは単なる知識ではなくて、我々が教養と呼ぶものである。つまり、様々な人間がどのようにしてその生き方を模索したかを知っていくのが教養であり、近代における教養の源泉は哲学と文学と芸術(表現的文化)。だから、道徳的な教育の中心は教養教育としての教育の中心に入っているのでないといけない。近代の教養教育の大事な本質は、家庭的な環境という初期条件の大きなハンディを自分で考え直し、この条件をリセットできる可能性を誰にでも与えることである。したがって、道徳を教えるという考えはやめて、教養を育てることが大事なことである。

 

 それを受けて、苫野氏はおおよそ次のようなことを述べている。

 

 教育は「承認の最後の砦」であるべきである。「相互承認」には三つの契機があり、まずは「自分を承認できること」、次に「他者を承認できること」、そして「他者から承認されること」。その中で一番重要なのは、「自己承認」。したがって、立てるべき問いは、「ではどうやって、しっかりと自己承認の土台となり、相互承認の感度が育めるような教育環境が整えられるか」になる。だから、道徳教育というやり方で、相互承認の感度を育むみたいな話はちょっと無理がある。だだ、それでもなお、何か道徳教育ということをやるのならば―市民教育(シティズンシップ教育)と言いたいが―、その中身は教養である。その一つの根本は、近代社会とは「自由の相互承認」から成り立つ社会であること、そのために異なる価値観やモラルをもった人たちが互いに承認し合い共存するために、「ルール」を作り合う経験が必要になるということである。

 

 また、それを受けて、竹田氏は次のような持論を展開している。

 

 根本的には、モラル教育ではなく、ルールの本質を少しずつ教えていくことが大事である。ルールというものは、初めは親のルールを受け入れ、次に学校のルールを受け入れる。つまり、子どもは初め上から与えられたルールを守る能力を身に付けていくけれど、大事なのは、複数のルールを経験する中で、子が徐々にルールの本質というものを理解するようになること。また、そうなるような仕方でルールを与えないといけない。そのことで徐々に自分たちでルールを作れるようになってくるからである。ルールは、根本は人間同士の相互承認に根にもつという感覚がだんだん理解できる仕方でルールを与えることが大事なのである。ただし、その時の原則は、いきなり子どもの「自由」をすべて認めてはいけない。子どもが少しずつ他人の自由を認め、もし侵害した時にはその責任を取るという自覚と能力が身に付いてくる度合いに応じて、子どもにより大きな自由を与えていく。つまり、他者の自由を承認できる感度と意思の形成に応じて、より「自由」を認めていくという原則である。

 

 さらに、それを踏まえて、苫野氏は次のような公教育批判を行っている。

 

 学習指導要領では、ルールを共に作るというような契機がほとんどない。ルールを守るとか、法を遵守するとしか書かれていない。これは大きな問題である。日本人の多くは、ルールの本質を分かっていなくて、ルールは与えられるもの、意味はよく分からないけど、従わなくてはならないものという発想が強い。また、ルールは自由を束縛するものというイメージも強い。これらの実態を生んだのは、教育の責任が大きいと思う。本来、ルールというのは自由を束縛するものではなく、みんなが自由になるためのものである。この発想がない一つの理由は、やはりルールを共に作る経験が圧倒的に不足しているからである。また、そもそも今あるルールの問い直しさえもほとんど行われず続いている。だから、公教育は、ルール共創教育とでも言うか、ルールを共に作り合う経験をたっぷり保障する必要があると思う。

 

 私はお二人が応答しているほとんどの内容についてほぼ賛同する。私が現職の時には、低学年であれば「体育科」のゲーム領域の学習において、まずは基本のルールに従ってゲームをして楽しみ、徐々に個人技能や集団技能が高まって基本のルールでは物足りない事態になったら、より複雑にルールを変更してゲームを楽しむという学習過程を保障していた。また、中・高学年であれば「学級活動」において、年度当初に学級で決めたルールが様々な事情で適用しにくい状態になったら、よりよく改善するための話合い活動を行い、改善されたルールを基に実践するという活動過程を保障していた。そのような実践は今までの学習指導要領に基づく教育実践でも可能だったのであり、私は積極的に「ルール共創教育」に取り組んできたつもりである。しかし、「道徳の時間」の実践では十分な取組ができなかった。

 

    だから、本対談においては現場の教師たちが求めている「特別の教科 道徳」のより実践的な内容、つまり日々の道徳の授業にどのように取り組むかという課題に対する具体的な内容に触れられていないのが不満である。道徳教育の理念や実践への構えについては、「自由の相互承認」の感度を育むことに尽きるが、ではそのための道徳教育の具体的な目標やそれを実現するための授業をどう構想していくのかという実践方略上の課題は残されたままである。この課題に対する回答内容については、いずれ私なりに思っていることや考えていることを記事にしたいと考えている。

 

 次回は、その課題解決の前提になるシステムとしての学校教育のよりよい在り方を探るために、苫野氏の近著『「学校」をつくり直す』から学んだことをまとめてみたいと考えている。

「特別の教科 道徳」の理念的な内容について考えたこと~竹田青嗣氏と苫野一徳氏という二人の哲学者による対談内容から学ぶ(1)~

     新元号が「令和」と決まり、各種のマスメディアには新しい時代の到来に向けた夢や希望を語っている国民の声が取り上げられている。一方、そのような祝賀ムードに溢れた雰囲気の中、各地から満開の桜の下で「お花見」を楽しむ庶民の姿が、テレビ画面に映し出されている。私の自宅近くの河川土手の「お花見」会場では、陽が落ちた後も肌寒さが残る中で「夜桜」見物を楽しむ酔客が多い。その騒々しい声は自宅にいる私の耳にまでかすかに届いてくる。昨夜は「華やいだ音が風に乗って運ばれる季節になってきたなあ。」と呟きながら眠りに就いた。

 

   いよいよ今年も爽やかな春風がそよぐ季節を迎え、各学校はもうすぐ入学式や始業式を迎える。長く教職に身を置いていた私の心には、定年退職後4年も経た今でも「いよいよ本年度が始まる!」という気持ちが自然に湧き上がってくる。長年の生活習慣の中で肌身に沁みついた時間感覚は、簡単には消えないものなのだ。

 

 ところで、小学校では来年度から新学習指導要領が全面実施になるので、本年度はその移行措置の最終年度になる。既に昨年度から年間を通して「外国語活動」は中学年で15時間、「外国語科(英語科)」は高学年で50時間、「特別の教科 道徳」は全学年で35(1年は34)時間、先行実施されている。各小学校では全面実施に備えて、それらの教科等や新しく導入されるプログラミング教育等の学習指導の在り方を研究する校内研修会に鋭意取り組んでいると思われる。

 

 そこで今回は、私が一番気がかりな「特別の教科 道徳」に関する理念的な内容の根本的な考え方について、『授業づくりネットワーク』(第28号/2017年)における竹田青嗣氏と苫野一徳氏という二人の哲学者による巻頭対談「全面実施目前、『道徳』の本質を問う!」を参考にしながら考えてみたい。

 

 苫野氏の「そもそも道徳とは何か。」という質問に答えるという形で、竹田氏が哲学的な観点から回答したことは、おおよそ次のような内容である。

 

    近代哲学の中で特に有名なのは、カントの道徳哲学である。カントは道徳の本質を「聖なるもの」から考えることを全てやめて、人間なら誰でももっている「理性」に道徳の基礎をおいた。まず「人間は何が善であるかを必ず理性で判断できる」という基本命題を立てた。次に、「これが善である」という理性の判断に基づいて、自分の感性(欲望)を抑えてこの判断に従って行動すれば、その行為は必ず道徳的行為(善)と言える。これがカントの道徳原理である。

 

   ところが、このカントの「道徳」の考えは中世までの宗教的道徳に比べると大変よいが、近代社会ではこの考えは本質的に成り立たないと痛烈に批判した哲学者がいる。それは、ヘーゲルである。ヘーゲルは、近代社会では生活様式がますます多様になり、価値観もそれに応じて多様になる必然がある。このために何が善か、また何が幸福かは決して一律に決められず、むしろ各人が自分なりの「善」や「幸福」の在り方を追求することを、他人の自由を侵害しない限りで、互いが相互承認するのが大原則だと主張したのである。そして、「善」は多様な理念として信念対立となることが必然だけど、自分の信念に固執せず、それが本当に普遍的な「善」かどうかを絶えず検証しようとする心意が必要になる。この「善」の心意をヘーゲルは「良心」と呼んだ。近代人は「道徳的」心意をもつだけではなく、「良心」という心意にまで進まないといけない。「良心」という在り方が近代人の倫理の本質であると、ヘーゲルは言っている。この批判は大変本質的かつ強力なのである。

 

 以上のような竹田氏の回答内容を受けて、苫野氏は次のような重要なことを述べている。

 

 「相互承認」。これが一番のキーワードである。共同体の慣習的なモラルを教育する道徳教育は、公教育においてはナンセンスだと考えている。「相互承認の感度」、こちらの方に道徳教育はシフトしていかなくてはいけないと思う。つまり、「これこそがモラルである、善である」と強弁したり教育したりするのではなく、お互いの価値観やモラルを、絶えず「相互承認」へと投げかけ吟味し合う経験や教育こそが大事なのだ。しかし今の道徳教育は、劣化版カント主義とでもいうか…。絶対に従わなければならないとまでは言わずとも、多くの場合、結構その構えが強いのである。

 

 私はこの苫野氏の発言内容に対して、概ねのところは賛同する。私が現職の時に見聞した今までの「道徳の時間」の指導の在り方は、様々な指導方法を創意工夫しているものの基本的には、その時間のねらいを「徳目」として自覚させ、身に付けさせようとする授業構造になっていたと思う。つまり、知らず知らずの内に劣化版カント主義に陥っていたのである。確かに、授業の中で価値葛藤の場面について話合いをする場を設定はしていたが、それはあくまでねらいを達成するための手段的な指導方法である。「話合い」が、お互いの価値観やモラルを「相互承認」へと投げかけ吟味し合う場になっていなかったのではないか。私は、新学習指導要領で新設された「特別な教科 道徳」の授業構造を、「相互承認」を大切にするヘーゲル的な道徳教育の在り方へと転換してほしいと期待している。

 

   なお、次回は今回に引き続き、竹田氏と苫野氏が実践的な道徳教育の在り方として「道徳は学べるのか、教えられるのか」を語り合った対談内容について触れてみたいと思っている。

「parkrun」(パークラン)という運動イベントのこと、知っていますか?

 4月6日(土)の午前中、東京の二子玉川で日本初の「parkrun」(パークラン)が開催されるらしい。また、それ以降に開催する予定で準備が進んでいる地域が、神奈川・湘南、千葉・柏の葉、大阪・深北緑地、そして私の住んでいる愛媛・松山の4か所となっている。では、「parkrun」とはどのような運動イベントのことなのだろうか。

 

 そこで今回は、この「parkrun」について少し解説してみたい。

 

  「parkrun」は、そもそも2004年に英国でPaulという男性が親しい友人と公園に集まり、5㎞のランニングを土曜日の朝に習慣的に行ったことから始まったそうである。それが今では世界各国に広がり、毎週土曜日の定時に行われる参加費無料の5㎞のウォーキング、ジョギング、ランニングなどを行う運動イベントとして認知されてきたのである。「parkrun」は、大人から子どもまで、誰でも気軽に参加することができる運動イベントであり、習慣的に集い楽しみながら運動する場となることで、人々の健康増進に寄与する取組になっている。現在、世界20か国、毎週1,700か所以上で開催されており、ウォーキング、ジョギング、ランニングなどを行う人々、そしてそれを支える運営ボランティアとして毎週30万人以上の人々が参加している。また、2004年に発祥して以来、全ての地域で熱心なボランティアたちによって運営され、現在までに合計350万人の会員が4,500万回の「parkrun」に参加したそうである。

 

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 ところで、本年の3月6日、住友生命保険相互会社は英国の非営利団体parkrun Globalとパートナーシップ契約を結び、この「parkrun」を日本国内で展開することにした。それに合わせて、parkrun Globalは一般社団法人parkrun Japanを設立し、parkrun Japanが日本国内の「parkrun」運営を行うことになった。そして、今のところ最初に取り組む地域が上述した5か所なのである。

 

 さて、我が郷土である愛媛・松山での開催に向けての準備状況はどうなっているであろうか。現在の時点で私が知り得ている情報をまとめると、次のようになる。

 

○ コンセプトは、「健康増進」と「コミュニティの醸成」。

○ 主催は、一般社団法人parkrun Japan。

○ 第1回の開催期日は、5月の大型連休後の最初の土曜日。(以後、毎週土曜日)

○ 開催時刻は、午前8時スタートに間に合うように集 合。時間になったら、号令に合わせてスタートし、ゴー ル後は自由解散。

○ 開催場所は、城山公園堀之内地区(園内に定めた5㎞のコースで実施)。

○ 参加者資格は、あくまで個人の意思で事前にparkrun  Japanに「パークランナー」として登録した者で、誰で自由に参加可能。

○ 運営については、「パークランナー」として登録した者のうち、自分が責任者となって開催したいと希望する人が、開催コースなどを設定してparkrun Japanに申請し、認められれば「イベントディレクター」(1名or最大2名)として運営。

○ 「イベントディレクター」は、登録した「パークランナー」の中から「ランディレクター」及び「ボランティアスタッフ」(両者は兼任可)を最低20名確保。

○ 大会当日のスタッフは最低5名必要であり、週ごとに交代で対応することも可能。「ランディレクター」の出席は必須。

 

 果たして愛媛・松山での開催が上手くスタートするかどうかは、まだ見極めにくいところがある。ただ、私も「ランディレクター」の役割を担うつもりである。松山市及びその周辺市町の方々は、この「parkrun」という運動イベントに気楽に参加し、一緒に盛り上げていきませんか。まずは、parkrun Japanの公式サイトから「パークランナー」として登録しましょう。

「胃弱」が意味することについて~「100分de名著」における夏目漱石著『道草』に関する解説内容から学ぶ~

     3月のNHK・Eテレ「100分de名著」で取り上げられていた「夏目漱石スペシャル」の放送はもう終わったが、前回の記事はその第2回放送分、『夢十夜』に関する阿部公彦氏の解説内容から学んだことを綴った。そして、私がそのブログ更新についてTwitterで呟いたところ、何と!講師の東京大学教授の阿部氏本人がTwitterで取り上げてくださった。おかげで、このブログのPV数が一挙に増え、私のテンションも一気に上がった。そこで、今回も私自身の複雑な生い立ちや青年期の悶々とした内面的葛藤などと重なる内容が含まれていた第3回放送分、『道草』に関する阿部氏の解説内容から学んだことを綴ってみたい。

 

 阿部氏は、『道草』を「胃弱小説」だと評している。その理由として、作品の冒頭に示唆された無限大の不安や恐怖が、慢性的な胃部不快感のエピソードを通して「胃弱」という型の中に収められ、少しずつ鎮められていく物語の展開を挙げている。つまり、『道草』は胃部不快感を得た主人公の健三が、そのおかげで無限大の闇からこの世に連れ戻される小説なのである。ただし、大事なのは胃部の不快感がいつもそれ以上の何か、言い換えれば何かの「兆し」を示すもののように描かれていることである。例えば、健三が姉から食べたくもない海苔巻きを無理矢理に勧められたり、金の無心をされたりする場面。肉親からの逃れられない圧迫感が、まるで胃部不快感のような重みとともに健三を苦しめるように感じられる。また、この内側からの不快感は、養父の島田に対する感情とも通じている。島田の使いの者が訪ねてきたことを知らされる場面。食欲なく床についている健三は、それを生理的、身体的な不快として受け取る。うまく言葉にならない「嫌悪感」に、慢性的な胃部不快感という「居場所」を与えることで物語は前に進むのである。さらに、この傾向は健三が幼少期のことを思い出す場面にも表れる。島田のうとましさが「腐った泥」や「嫌な臭」となって表れた心理的描写。ここにも嫌悪感が滲み出しているが、特にそれが生理的な不快感―嘔吐感を催すようなそれ―と結びついているのが『道草』の特徴であると、阿部氏は解説している。

 

 このように『道草』のいくつかの場面には、ゴシック的と言ってもいい異界や魔界の不気味さがたっぷりと出ている。しかし、前半のほとんど無限大の不快感や不安は、後半になって夫婦関係のもつれや胃部不快感として具体性を持つようになる。主人公の健三の病が目に見えるようになる。それでも、健三の日常はあいかわらず闇をたたえている。その一つが、健三の幼少期の思い出の描写。子どもが魚を釣るという牧歌的な場面であるはずが、糸を引っ張る不気味な力や、死んだ状態で水面に浮かぶ緋鯉のイメージからは底知れぬ気持ち悪さが伝わってくる。この場面において緋鯉が死体として登場することに、阿部氏は注目している。そして、緋鯉の死体と出会って健三が気持ち悪いと思ったのは、彼が緋鯉を殺した過去の自分と出会ったからではないかと独自の解釈をしている。このような場面に限らず、漱石が恐怖の感情を描くとき、「過去からの懲罰」というイメージが繰り返し出てくる。この「過去からの懲罰」という感覚は、お腹の痛み、胃部の不快の感覚とよく似ている。というのは、多くの場合、胃腸の不具合は食後に訪れるからである。漱石にとって、胃のむかつきが過去の自分に起因する痛み、「過去からの懲罰」という形をとることは多かったのではないかと、阿部氏は鋭く洞察するのである。

 

 最後に、阿部氏は次のようなまとめを行っている。漱石の病には、精神の病と胃の病の二系統があった。精神の病は自分をまるごと呑みこんでしまうような果てしない闇と感じられた。未知のものへの不安も伴う。これに対し、胃病のほうは慢性的で日常的。いつものやつがやってきたという既視感がある。つまり、「精神病の不安が未来的」であるなら、「胃病は過去からの集積」を暗示する。漱石にとっては、未来の不安よりも過去の「片付かない」という不快感の方が安心だったのかもしれない。「胃の病気がこのあたまの病気の救い」という言葉はそういうことだったのではないか。胃病のおかげで健三は不健康な健康さの中で、片付かないがらくたの中で、一服の安定を得た小説として『道草』を読むことができると締めくくっている。

 

 この『道草』という小説は、漱石の自伝的事実に基づいて「私生活」を描いているが、単に私小説作家の赤裸々な告白とは違っている。上述したような捉えどころのない恐ろしげで暗い感覚を描いたものである。しかし、それは「精神病の不安を胃病の不快感で隠すような、不健康な健康さを何とか保っている物語」なのではないだろうか。少なくとも阿部氏はそのように解釈していると思われる。この解釈を踏まえて私なりの言い換えをすれば、『道草』は「胃弱」の意味することを表現しつつ、「過去の不快感によって未来の不安がかき消され、現在の魂がかろうじて救われる物語」ということになる。また、別の表現にすれば、近代的個人主義に立脚した実存的な不安を抱えた私たち日本人が、「胃弱」の意味すること、つまり「過去からの懲罰」を意識することで、何とか「不安や恐怖に満ちた現在を生きようとする意志」を保っている日常生活を描いたものになる。さらに、私の勝手気ままな解釈に基づけば、100年以上前に生きた漱石が、近代的な人間観や価値観の中で生きる現代の私たちの複雑な心理情況を見抜いて、「日本人は自己に自閉する“実体的な個人”として生きるより、開かれた自己である“関係的な間人”として生きる方が、日本的な風土の中ではまだマシな生き方ができるのでは…。」と呟いているような小説と言ってもいいのではないだろうか。これは、素人ゆえのあまりに意訳的過ぎる解釈なのか…。それはともかく「100分de名著」において夏目漱石四作品についての独自な解釈に基づいた解説をして、私に未読の漱石作品を読もうとするモチベーションを与えてくださった阿部公彦氏に対して心から感謝の意を表しつつ、今回の記事はここら辺りで筆を擱きたい。

「ネガティブ・ケイパビリティ」のもつ意義について~「100分de名著」における夏目漱石著『夢十夜』に関する解説内容から学ぶ~

    3月のNHK・Eテレ「100分de名著」は、「夏目漱石スペシャル」。取り上げているのは、漱石が西洋小説の形式と格闘した『三四郎』『夢十夜』『道草』『明暗』の四作である。毎回四作の内の一冊ずつ取り上げて行う放送内容は、NHKアナウンサーの安部みちこさんとタレントの伊集院光さんによる軽妙な司会の下、講師の東京大学教授の阿部公彦氏が独自の作品解釈によって解説をしていくもの。「100分de名著」ファンであり、夏目漱石に多少なりとも関心をもっている私は、その作品世界の魅力を堪能しながら毎回視聴している。

 

 我が郷土とのかかわりが深い青春小説『坊ちゃん』や、飼い猫の視線から人間社会を滑稽に風刺的に描いた『吾輩は猫である』、罪の意識に苛まれ続けた男の末路を描いた『こころ』などの漱石作品を私は読んでいたが、その他の作品の多くはずっと書棚に行儀よく並んだままで今までは手を出すことがなかった。いつか読もう、いつか読もうと思い続けていたものの、なかなかそれを実行することはなかった。今回の「夏目漱石スペシャル」の視聴を契機にして、少なくとも私の書棚に並んでいる未読の作品には遅からず目を通してみようと思っている。しかし、今回取り上げられている四冊の内で私の書棚にない本がある。それは、『夢十夜』である。では、なぜ私は買わなかったのか。それは、書店でさっと目を通した時に、おどろおどろしい夢の話が多く、何となく楽しめそうにないと直感したからである。ところが、今回『夢十夜』が取り上げられた2回目の放送を視聴したり、その部分のテキストの解説内容を読んだりしてみて、私の意識は変わった。俄然、興味が掻き立てられたのである。

 

 そこで今回の記事では、その私の意識が変わった理由とも関係している「ネガティブ・ケイパビリティ」という概念のもつ意義について、阿部氏の解説内容を参考にしながら書いてみたい。

 

 『夢十夜』は漱石が西洋小説的なルールを無視し、もっと自由な書き方をして読者をおもしろがらせようとした作品ではないかと、阿部氏はとらえている。その際に漱石が意識して使ったと思われるのが、人間の魂の根底にある「ゴシック(暗黒時代の中世をイメージさせる語)的想像力」。具体的には、夢という設定を用いることで、日頃は見えない怪奇なものを読者の前に展開させている。『夢十夜』には死、遠い過去、荒涼とした風景、謎めいたセリフなどがふんだんに出てくるのである。しかも、全てが夢にすぎず、しかもその夢に対する「感動」が欠落している。言ってみれば、「こころ」がないのである。しかし、『夢十夜』には『三四郎』とは一味違う「こころ」が描かれていると、阿部氏は主張する。その「こころ」を描く手法として注目しているのが「ネガティブ・ケイパビリティ」という批評用語なのである。

 

 「ネガティブ・ケイパビリティ」とは、19世紀の英詩人ジョン・キーツシェイクスピア作品の力を説明するために用いた批評用語で、「世界や対象のわからなさや不可解さを分からないままに捉える消極的能力」のことを表す。そして、この「ネガティブ・ケイパビリティ」という語は、近年、狭い文学の領域を越えて、医療と哲学や文学などを繋ぐメディカル・ヒューマニティーズ(医療人文学)の領域で使われるようになっているらしい。例えば、死を目前にした患者に医師はどう対応すべきか、という問いに答えを出すには、科学の知見だけでは十分でないことも多く、とりわけ精神医療の現場において、この概念が活用されているという。精神科ではマニュアルから外れる症例も多く、患者との対話を重ねれば、理論に当てはまらないことも多く出てくる。精神科医には、謎や不思議さを、そのままぐっと受け止めねばならない場面が出てくるのである。だから、この概念が有効なのである。

 

 「わかったふりをしない。無理に答えを出さない。」という宙ぶらりんの力。これは文学が得意とするところであるが、医療は文学からヒントを得たのである。反対に、文学もこの医療の態度を参考にしていいと阿部氏は言っている。また、漱石が晩年に唱えた「則天去私」、自然をそのまま受け止めて自我から解放されるという考え方と、「ネガティブ・ケイパビリティ」には近いものがあると、大変重要な指摘をしている。漱石は、近代個人主義の考え方を我が国の歴史的・社会的経緯を踏まえて高く評価し「自己本位」の生き方を肯定している。反面、その近代的自我による「自己本位」の生き方の矛盾や苦悩などについても深く洞察していたのではないかと私は考えている。その漱石が悪戦苦闘しながら近代的自我の在り方についての思索を深めた末に、晩年になって「則天去私」という宗教的な思想を提示した事実を考えれば、私たち現代人の自我の在り方を問い直す上でも、この「ネガティブ・ケイパビリティ」という概念は大きな意義をもっているのではないだろうか。

孫にとっての〈ことば〉の世界について考える(2)~浜田寿美男著『「私」とは何か-ことばと身体の出会い-』を参考にして~

     前回の記事では、『「私」とは何か-ことばと身体の出会い-』(浜田寿美男著)を参考にしながら、初孫Hにとっての「〈ことば〉の世界」の手前になる「意味世界」形成の構図や道筋について、特に私たちじじばばとHとの間における「三項関係」の具体的な様相を交えながら説明してみた。多分に言葉足らずの記事だったのではないかと反省しているが、そこは私の説明能力の乏しさが原因になっているので、その点ご容赦願いたい。

 

 そこで今回は、Hが「意味世界」から「〈ことば〉の世界」へどのように移行・発展していくのか、その構図や道筋についてHの今の発達情況も踏まえながら説明してみたい。この作業を通じて、できれば私たちじじばばのHへの今のかかわり方に妥当性があるものなのかどうかを知る手掛かりにしたいというのが、私の本音である。

 

 著者は、人間の声が〈意味するもの〉としての〈ことば〉の要素となるのは、自分と相手が相互に声を「かける-かけられる」関係として、声を介した「三項関係」を成り立たせているからにほかならないと言っている。また、その声は深く情動とつながっており、このことは〈ことば〉の発生の過程で大きな意味を持っていると強調している。つまり、声=情動の世界の共有ということがあるからこそ、声は〈意味するもの〉という、〈ことば〉の交換を担う不可欠の要素として、人間の世界に根を下ろしてきたのである。具体的に述べよう。この世に生れて間もない頃から私たち周りの大人は、Hが〈ことば〉を理解することができないことを重々承知の上で、しきりに声をかけ、しっかりと〈ことば〉でもって語りかけてきた。一方、Hの方も、最初は泣き声で、次第に喃語を発しながら、その声の調子で何かを訴えようとし、また現にそれだけのことで何かが伝わる実感を得てきたと思う。また、それ以外にもまなざしを交わし、身体を触れ合わせ、抱き合い、ものを受け渡しし、そのもので一緒に遊び、声をかけあう…まさにこのような何気ない日常のやりとりこそが、Hが「意味世界」から「〈ことば〉の世界」へと移行・発展する過程を保障することになっているのである。

 

 では、そのような中からHにとってはっきりと「〈ことば〉の世界」が成り立っていくのは、どのような道筋があるのであろうか。

 

 この点について著者は、声をテーマにする「三項関係」と、ものの体験をテーマにする「三項関係」が、〈ことば〉につながるものとして問題になると指摘している。例えば「母親が子どもと一緒になって犬と遊びながら、『ワンワン、かわいいね。』と声をかける」という一つの事態の中に、この二つの「三項関係」が重なり合っていると言っている。そして、この重なり合いの中で、「ワンワン」が犬であるという結びつきを、大人の側から子どもの側に同型的に敷き写して、〈意味するもの-意味されるもの〉の記号的関係を染み込ませていくのである。つまり、この二つの「三項関係」の重なり合いによって声が体験とつながり、〈ことば〉が成り立つという訳である。前回の記事で構図として描いた「意味世界」の敷き写しと同じように、「〈ことば〉の世界」についても、大人から子どもに向けて、互いの共同の生活を通して敷き写しが行われていくのである。もちろん忘れてはならないことは、このような「〈ことば〉の世界」の敷き写しが可能になるのは、人間の脳が本来的に備えている言語獲得装置的な基盤を前提としているということである。したがって、脳のこの部分に欠損があれば、前述したようなコミュニケーション基盤が整ったとしても、言語獲得的な機能が働かないことになり、「〈ことば〉の世界」が成り立たないことになる。

 

 私はHが発語する有意味言語数が少ないことを心配し、脳が備えている言語獲得装置的な基盤の欠損について多少不安を持っていたが、前回の記事で記したような今のHの発語内容を考慮すれば心配することはないと判断している。一般的に男の子の方が女の子より発語に関しては年齢的に遅い傾向があるらしいので、今のところ私たちじじばばのHへのかかわり方は現状のまま、つまり前回及び今回の記事で述べたようなかかわり方を大切にしながら、今後のHの様子を見守っていこうと考えている。

 

 今回の説明も前回同様、あまり要領のよいものにはならなかったなあと反省しきりである。皆さんの中で、もっとこのような内容を詳しく知りたい方や、子育てや孫育ての最中で私と同様な悩みや心配をしている方がいたら、本書はとても参考になるものであり、発達心理学研究における「発達論的還元」の手法を用いた新たな知見を得ることができるので、ぜひ本書をご一読されることをお勧めしたい。私自身、とても多くの学びを得ることができ、本書に出合えたことを心より感謝している。

孫にとっての〈ことば〉の世界について考える(1)~浜田寿美男著『「私」とは何か-ことばと身体の出会い-』を参考にして~

 今までに何度か、初孫Hの成長の様子を話題にした記事を綴ってきた。最初に綴ったのは、Hがまだ1才3か月の頃の様子であった。その際、Hの有意味言語の発語状態やノンバーバル・コミュニケーションの具体的な姿について触れた。今、Hは2才2か月を過ぎている。しかし、有意味言語の発語はまだ数少ない。正直なところ私たちじじばばは、Hのその点については少し心配になっているので、Hと接する時には今まで以上に意識して〈ことば〉によるコミュニケーションを取るようにしている。家族写真を見せる時であれば、「パパ」とか「ママ」とか「ばあば」とかと言いながら指さしている。食事の時であれば、「キュウリ」とか「トマト」とか「ニンジン」とかと言いながらHの食器に入れるようにしている。また、一緒に乗り物のおもちゃで遊ぶ時であれば、「郵便車」とか「飛行機」とか「新幹線」とかと言いながらHに手渡すようにしている。このようなじじばばの〈ことば〉掛けに対して、Hが今のところ発しているのはわずかに「まんま」と「ばあば」くらいである。ただし、Hが好んで視聴する「機関車トーマス」の映像の中に出てくるフランキーというクレーン機が荷物を下ろす音「ギーッ」とか、散歩中に見かけた救急車が鳴らす音「ウー、ウー」とかという擬音語を、それらに関連する動きを交えながら最近よく発するようになっている。

 

 そのような情況の中、私は以前に読んだ時に発達心理学研究における「発達論的還元」の手法の意義を痛感した『「私」とは何か-ことばと身体の出会い-』(浜田寿美男著)を再読してみた。改めて学び直すことが多かったので、今回は本書を参考にして、孫にとっての〈ことば〉の世界について考えたことを綴ってみたいと思う。

 

 私たち人間は、意味で張り巡らさせているこの世界、つまり「意味世界」の中を生きている。大人はこの「意味世界」を当たり前のようにして生きているが、赤ちゃんはその生の出発点において周囲のものを意味づけることはできない、言わば無意味の状態から始めざるを得ない。もちろん赤ちゃんは誰も教えていないのに、口に母乳や哺乳ビンを触れさせるだけでくわえ込み、舌を啜る。その点で赤ちゃんにとって母乳や哺乳ビンの意味は最初から分かっていると言ってもよいかもしれない。また、赤ちゃんは人の顔を他のものよりよく見るようにできており、人は人としての意味を帯びているとも言える。しかし、これらのように生得的にその意味が与えられているものはむしろ少ない。

 

 では、赤ちゃんはどのようにして周りの世界を意味に満ちた世界としてとらえていくのであろうか。大人になれば当たり前のことだが、誰も自分がどのようにして「無意味世界」から「意味世界」へ移行してきたかを覚えている者はいない。そこで著者はこの過程を探るために、ゼロの地点に立ち戻ろうとする立場、つまり「発達論的還元」の作業を展開することで明らかにしていこうとするのである。

 

 著者が注目するのは、「三項関係」である。「三項」というのは、人と人とが一緒に何かのもの、あるいはテーマを体験するという意味である。これに対して、人が他者を介さずものに直接かかわるとか、人がものを間に挟まず他の人と直接かかわるというのは、二項関係という。赤ちゃんが「無意味世界」から「意味世界」へ移行するために必要なのは、二項関係ではなく「三項関係」なのである。例えば、著者は赤ちゃんと母親が何かを「一緒に見る」という「三項関係」の中に、赤ちゃんの「意味世界」形成にとって重要な働きを見出している。そして、そこに〈ことば〉に至る源を見ているのである。

 

 ただし、人がものを見るという時、ただまなざしを注ぐということではなく、人が見てとらえた世界がその人の身体におのずと表現される。そしてその表現された姿が、そばでその様子を見ている人に伝わる。この回路の中では、見ること自体が人と人とをつなぐ一つの表現になるのである。具体的に述べよう。以前の記事にも書いたが、私たちじじばばの自宅近くの県立病院には「ドクターヘリ」がよく飛んで来て、その屋上に離発着する。家の中にいる時に「ドクターヘリ」の轟音が聞こえてきたら、私たちは急いで乗り物好きのHを抱きかかえて外に飛び出し、「ドクターヘリ」の飛行の様子を一緒に見ることがある。その時、私たちはそれを指さしながら「すごいね。ヘリコプターが飛んでいるね。」と〈ことば〉掛けする。そのような機会が何度となくあった後、私たちはミニチュアのヘリコプターをHに買ってやった。すると、Hはそのヘリコプターを手に持って高くかざしながら、飛ばせるようなしぐさをしたのである。私は「ブルブル、ブルブル」と轟音の真似をしながら、一緒にその様子を見守った。つまり、私たちじじババとHが「ドクターヘリ」を一緒に見ながら、飛ぶ様子を声やしぐさで示す表現をして見せているという「三項関係」の中で、Hはヘリコプターが空を飛ぶ乗り物だという意味世界を敷き写していたのである。このようにHにとって、まだこれという意味を帯びてないものが、周囲の他者(この場合は、私たちじじばば)との「三項関係」を通して、一定の意味のものとしてHの世界に根を下ろしていくのである。

 

 さて、〈ことば〉はこのような「意味世界」の上に成り立つ。語るべき対象のないところに〈ことば〉が成り立つことはないのである。その点、まだ有意味言語数が少ないHとは言え、私たちじじばばと一緒に遊んでいる様子を見ていると、大人と同様な「意味世界」を形成しつつあることは間違いない。とすれば、Hは〈ことば〉の世界の手前まで至っていると言える。後は、Hがより多くの〈ことば〉を発するための神経や運動感覚等の身体的な発育・発達状況が整うのを待つだけである。本書に書かれているここまでの内容から、私は少し安心感を得た。この後、Hが「意味世界」から「〈ことば〉の世界」へどのように移行・発展するのかについての構図や道筋についての内容については、次回に譲りたい。

スポーツは見えない?

    以前、日本経済新聞に「スポーツは見えない」というコラムが掲載されたことがあった。著者は、美学者の伊藤亜紗氏である。私はこの表題を最初に見た時「??」と思った。「スポーツは見えない」とは、どのような意味なのか。また、「見えないスポーツ」などあるのだろうか。頭の中が疑問符だらけになった私は、いつの間にか本文を目で追っていた。

 

 著者は「目の見えない人のスポーツ観戦」をテーマに、NTTと共同研究しているらしい。視覚障がい者のような身体的条件が異なる人と、どうやったら一緒にスポーツを楽しむことができるのか。それは新しいスポーツの楽しみ方を探る挑戦でもあるとのこと。共同研究では、言葉もデバイスも使わないで、「動きの質感」を再現することに焦点化したそうである。使ったのは、手ぬぐい、段ボール、モップ、うちわ、ペンなど。身の回りにある日用品を使って、その種目ならではの質感を表そうと試みたという。例えば、柔道には手ぬぐい。まず、目の見える二人が手ぬぐいの両端を持つ。それぞれ担当する選手を決め、実際の試合の映像を見ながら、手ぬぐいを上下させたり引っ張ったりしながら、選手の動きや攻防を再現する。そして、この上下左右する手ぬぐいの真ん中を、目の見えない人が持つ。手ぬぐいの動きに体ごと翻弄されながら、選手同士の力のせめぎ合いや緩急を感じてもらうという訳である。手ぬぐいは道着と素材が近いから、布の張りを表現しやすいのである。

 

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 私はここまでの内容を読んで、確かに今まで試みられてきた「言葉で説明する方法」(言葉)や「視覚情報を振動や聴覚に変換する方法」(デバイス)とは異なる実感的な観戦になるなと感心した。ただし、この「動きの質感」を再現する方法はデバイスの変形型であり、この上に言葉による説明を加えるとより分かりやすいのではないかと思った。だが、この方法では、それぞれの有効性が相殺されてしまうのだろうか。実際に体験した視覚障がい者の方の感想を聞いてみたいものである。

 

 著者は続いて、次のようなことを述べている。この「動きの質感」を再現する方法は、試合を再現している目の見える側も、何だかとても楽しく感じるらしい。楽しい、というかだんだん本気になってしまうそうなのだ。実際の試合は映像の中で行われているのだが、布を引っ張り合っているうちに、選手が憑依したかのように勝ちたくなってしまう。伝える、というよりは試合をもう一つ起こす感じに近いらしい。そして、研究を進めるうちに、そもそも私たちはスポーツを見ながら何を見ているのかが気になってきたという。リズムや力ならまだしも、「気」としか言いようのないものを見ていることだってある。目に見えないものを見ることなのかもしれない。見えないその種目の本質とは何なのか。著者は、「見えないスポーツ図鑑」を作るのが今後の目標だと締め括っている。

 

 私は「見えないその種目の本質」の中身についてしばらく考えを巡らせてみた。著者が言うように、「気」としか言いようがないものなのか。はたまた、試合中に醸し出される「トポス」(濃密な空間)のようなものなのか。私にはつかみどころがないものだが、これはスポーツを観戦する上で、視覚障がい者だけでなく健常者にとっても面白い視座になるかもしれないとふと思った。

健康づくりに関わる全ての大人に求められることとは…

    30年前ぐらいから子どもの「体力・運動能力の低下傾向」が続いていたが、最近はその傾向に歯止めがかかり向上傾向に転じている。しかし、スポーツの基礎となる走・跳・投に係わるテスト項目や握力は依然低い水準とどまっている。特に小学生は跳・投等の「全身を全力でタイミングよく操作する能力」、中学生以上では「粘り強く全身の運動を持続する能力」の回復が遅れているのが現状である。

 

    これらの現状の背景には、学校や家庭・地域等において子どもが外遊びや運動・スポーツを行う機会が依然として少ない実態がある。少し古い資料になるが、文科省刊『体力・運動能力調査報告書』(2014年)によると、学校体育においても発達段階に応じた運動指導ができる指導者が少なく、楽しく運動できるような指導の工夫が不十分であること。また、「体力・運動能力の二極化」が進んでいることも問題点として指摘されている。これらのことから、ともすると運動していない子どもばかりが問題視されがちだが、よく運動している子どもの中にも「特定のスポーツしかできない」、あるいは「やり過ぎによって体や心に歪みが生じてしまう」という問題点が浮び上がっている。何事も中庸が大切なのだが…。この点、前回の記事でも取り上げた「総合型地域スポーツクラブ」において、運動やスポーツを楽しむことを志向する教室を開催することができればいいのではないか。

 

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 ところで、子どもの体力・運動能力の低下は、それ自体に問題があるというよりも、中高年齢時に重大な疾患として発症する生活習慣病の予備軍となる原因になることから、その背景にある生活習慣の誤りを問題視していると考えるべきであろう。具体的には、体力・運動能力の低い子どものライフスタイルは、「運動をしていない・夜更かしをする・朝起きられない・朝ごはんを食べない」などの生活習慣の誤りが負の連鎖に陥りがちであることが指摘されている。つまり、体力テストの成績が子どもたちの健全な発育発達を反映する大きな指標の一つであるととらえれば、それが全国的に低下しているという事実は、子どもだけでなく大人も含めた国民全体の生涯にわたっての健康づくりに警鐘を鳴らしているといってもよいのである。言い換えれば、子どもの体力・運動能力の低下問題は、日本国民にとって社会的な健康問題なのである。

 

 したがって、平成29年3月にスポーツ庁が公表した『第2期スポーツ基本計画』の中で具体的な施策目標として「学校における体育活動を通じ,生涯にわたって豊かなスポーツライフを実現する資質・能力を育てるとともに,放課後や地域における子供のスポーツ機会を充実する。その結果として,自主的にスポーツをする時間を持ちたいと思う中学生を80%(平成28年度現在58.7%→80%)にすること,スポーツが「嫌い」・「やや嫌い」である中学生を半減(平成28年度現在 16.4%→8%)すること,子どもの体力水準 を昭和60年頃の水準まで引き上げることを目指す。」が設定されたことは、大きな意義があると思う。今後この目標を実現するために、スポーツ庁を中心に幼児期からの子どもの体力向上策の推進、学校の体育に関する活動の充実、子どもを取り巻く社会のスポーツ環境の充実等に向けて様々な事業が一層展開されていくことを大いに期待したい。

 

 そこで、学校・家庭・地域等において健康づくりに関わる全ての大人は、子ども自らが運動・スポーツを行うことができるように、特に幼児期や小学生年代での運動遊びや運動・スポーツの時間・空間・仲間という「三間」を取り戻すための「仕掛け」や「仕組み」づくりにこれまで以上に取り組むことが求められている。そのためには、私たち大人が運動・スポーツのもつ意味や価値、特に運動・スポーツの楽しさや喜びを味わうという欲求充足機能について再認識する必要があるのではないだろうか。

どうなる?「総合型地域スポーツクラブ」の登録・認証制度の行方…

    前回の記事において、人生100年時代におけるスポーツの役割を考える中で、「スポーツを中心としたコミュニティの構築」の大切さを述べた。その際に触れることができなかったが、その役割を我が国の各地域で担っている団体の一つが以前紹介したことがある「総合型地域スポーツクラブ」(以下、「総合型クラブ」)である。本県で実際に定期的に活動しているのは、昨年度末では41クラブあったが現在では32クラブに減少している。その主な理由は、各地域において少子高齢化の波が押し寄せて会員が激減したり、運営スタッフが高齢化している上に後継者が見つからなかったりして、各種のスポーツ教室の継続を始めとするクラブ運営全般が円滑にできなくなってきたからである。因みに、「総合型クラブ」は現在のところ全国で約3,600クラブ設立しており、一番多いのが兵庫県の781クラブ、次が愛知県の142クラブ、3番目が東京都の137クラブとなっている。反対に一番少ないのが鳥取県の22クラブ、次が佐賀県福井県の27クラブとなっている。本県は全国的に見て少ない方の県である。

 

 そのような状況下、平成29年3月にスポーツ庁が策定した「第2期スポーツ基本計画」の具体的施策の中で「総合型クラブ」の質的充実が謳われ、そのために「総合型クラブ」の登録・認証制度を新たに構築することになった。そして、スポーツ庁は「スポーツ活動支援事業(総合型地域スポーツクラブの質的充実に向けた支援推進事業)」を公益財団法人・日本スポーツ協会へ委託した。現在、日本スポーツ協会は「総合型クラブ」の登録・認証制度の整備に向けてプロジェクトを発足させ、「総合型地域スポーツクラブ全国協議会(SC全国ネットワーク)」と連携しながらその具体案を策定しているところである。

 

 ところで、私は2月25日(月)に東京都で開催された「SC全国ネットワーク総会」にオブザーバーとして参加する機会を得て、今のところの「総合型クラブ」の登録・認証制度(案)概要を知ることができた。そこで、今回はその概要を簡単にまとめながら、私なりの所感を付け加えてみたい。

 

 まず、この制度の目的は「総合型クラブ」の質的充実を図ることである。そして、本制度を創設・運用することで「総合型クラブ」と行政機関との連携が深まることを期待しているのである。しかし、この期待に関して私はやや疑問をもっている。その理由は、現在までのプロジェクト推進過程において、国及び地方公共団体等の行政機関との連携が十分に図れているとは言い難い状況なのに、登録・認証制度を創設・運用し始めたら急にそれらとの連携が深まることは難しいのではないかと思うからである。今後、この点を考慮しながらプロジェクトを推進してほしいものである。

 

 次に、この制度は基本的に「登録」(「総合型クラブ」からの申請に基づき、制度の運営主体が「登録基準」に合致したと判断した場合に「総合型クラブ」としての名簿に記載する手続き)と、「認証」(当該クラブが登録手続きを完了した後に、制度の運営主体があらかじめタイプ別に用意した「認定基準」のいずれかのタイプに当該クラブをあてはめ、タイプに応じた認定証を当該クラブに対し発行する手続き)の2段階で構想しているとのこと。ただし、「登録基準」はある県で検討している例を示しただけであり、「認定基準」についてはまだ示す状況にないとのことであった。つまり、この制度の根幹の部分はまだ定まっていないのである。私はこの「登録基準」の設定に関して、「総合型クラブ」の質的充実という目的に適うためには「多世代・多種目・多志向」の確保という視点は外せないと思うが、その他の条件はあまり厳しくしない方がよいと考える。その理由は、全国約3,600クラブの中には今まで地域の有志が細々とクラブ運営を行ってきて、地域住民の生涯スポーツの機会を保障することに貢献しているクラブも多いので、それらのクラブが登録できないような事態に陥らないようにしてほしいからである。特に人口減少社会と言われ、過疎化を余儀なくされている地域においては、地元に数少ない「総合型クラブ」の活動の灯が消えないように配慮してほしいと願っている。

 

 さらに、この制度の運営体制図や組織等の概要説明があった。基本的には、中間支援組織は都道府県体育・スポーツ協会(県体協)が担い、その中に「総合型クラブ登録審査委員会(仮称)」の事務局を設置するという案であった。この点に関しては、現在は本県において中間支援組織として機能しているのは、私の勤務している公益財団法人の中に設置している「広域スポーツセンター」であるので、本県の県体協にその機能を移譲するというのは困難ではないかと考えている。各都道府県の実情を十分配慮した柔軟な対応を期待したい。

 

 その他、登録申請から登録認定までのフローチャート(案)やこの制度の創設・運用に向けたスケジュール(案)も示されたが、参加者の多くはそこまで問題意識が至っていない雰囲気であった。この制度の策定予定は来年度末(来年3月まで)であり、運用実施予定は再来年度(来年4月から)である。私はこの制度の創設・運用まで漕ぎ着けるには、まだ数多くの課題を解決しなければならないのではないかと考えているので、「間に合うのだろうか?」という疑問と不安が頭の中を覆ってきたのが正直なところであった。

 

 以上、今のところの「総合型クラブ」の登録・認証制度(案)概要の内容と私なりの所感を述べた。所感の内容がやや否定的なものになったが、私としてはこの制度の創設・運用が全国の、そして本県の「総合型クラブ」にとってその存在意義や認知度を高め、持続可能な運営組織になるきっかけになってほしいと思っている。全ての国民の生涯スポーツの機会が保障されるハード及びソフト環境が整備されることを心より念願しつつ、今回はそろそろ筆を擱きたい。