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「人生・生き方」「教育・子育て」「健康・スポーツ」などについて考え、雑学的な知識を参考にしながらエッセイ風に綴るblogです。

「教育(学)の消費社会論的転回」とは?~神代健彦著『「生存競争(ザバイバル)」教育への反抗』から学ぶ③~

 前回の記事では、<資質・能力>を目的・目標とした日本の教育課程が抱える問題点を克服する方策について、オランダ生まれの教育学者G・J・J・ビースタの議論を参考にして著者が構想している内容を要約してみた。それは、端的に言えば「子どもと世界(コンテンツ)と出会わせる」教育論であり、「教科する」授業によって子どもを「主体にする」営みを指すものであった。つまり、「教えることの再発見」と言ってもよいものであった。

 

 著者が構想するこの方策の内容は、私が現職時に行っていた「環境や他者との相互作用を尊重する中で、子どもを主体として育てていく」教育論に立つ授業実践とほぼ同様のことだと思い「今更」という不遜な感想をもった。しかし、私自身が考えていた理論的な意味付けについては不十分な点があったことを率直に反省した。

 

    そこで今回は、「子どもと世界(コンテンツ)と出会わせる」教育論の理論的な意味付けについて、私が強く共感した本書の「第4章 そして社会と出会う、ただし別の仕方で」の中で提案された「教育(学)の消費社会論的転回」という考え方を、本文の記述を基にしながらなるべく簡潔に紹介したいと思う。

 

 まず、著者は教育の目的(何のために教育するか)と目標(どんな力を付けさせるか)を経済的効果に重点を置いて語る傾向が世界的に強まっていること、そしてその経済的効果という観点からコンピテンシー(あるいは広く「新しい能力」一般)が強調されていることを認めている。また、グローバリゼーションの波に襲われている日本経済やその中で生きる個々人にとって、教育とはほとんど唯一のサバイバルの方法として理解されているという現実について強調している。

 

 次に、経済と教育との関連を考える上では、従来から需要サイドより供給サイドに注目してきたことを指摘している。その理由は、市場に供給される財やサービスの生産において、教育とはその生産性を決定する重要な要因だからである。もちろん生産性を決定する因子は、物的資本・天然資源・技術知識等があるが、何といっても人的資本が大きい。この人的資本は、労働者に対して教育などによって付与される資本の在り方であり、特に人口減少に伴う労働人口の減少が予想される日本社会においては、教育によって労働者一人一人の人的資本としての価値を高めておくことが大切だったのである。ただ、慢性的に需要不足が続いている「成熟社会=低成長時代」と言われる日本の市場経済においては、従来のような人的資本を高める教育では不十分である。今、教育に求められているのは、市場そのものを大きく変革するような供給サイドに立つ「イノベーションする人間」=「小さな企業家(アントレプレナー)」を育成することなのである。そして、その役割を担っているのが、前回までに概説してきた<資質・能力>を目的・目標とする教育課程であった。

 

 しかし、日本におけるこの教育のコンピテンシー化は、社会の教育依存/教育不信をエンジンとして駆動していると著者は警告する。では、どうすればいいのか。その回答として、著者自身が主張する「世界との出会いとしての教育」の理念は、人々の「消費」の感性を育てることを通じて、需要サイドから経済に貢献する可能性を孕んでいると述べている。つまり、教育による経済的効果を供給サイドからではなく、需要サイドから意味付けるというアイデアを提案しているのである。そして、日本の教育と教育学は、消費や消費社会を等身大で捉え、それらとポジティブな関係を結び直す必要があることを訴えて、これを「教育(学)の消費社会論的転回」と呼んでいるのである。

 

 以上のような内容を確認した上で、著者は次に社会学者の間々田孝夫著『21世紀の消費』における3つの文化的類型を取り上げながら、消費なるものの理解を深める議論を展開している。この議論はとても面白く、私にとって新鮮な視点だったので、ここで少し詳しく説明してみよう。

 

 間々田氏によれば、個々人は消費を規定する3つの文化によって影響を受けつつ消費生活を送っているという。第一の消費文化は、商品の機能的価値(何かの目的を達成するための道具としての価値)をより高い水準で実現することを目指し、消費の量的拡大を志向する消費文化である。また、第二の消費文化は、商品の関係的機能(何かへの帰属を示したり、誰かとの差別化・競争において意味をもったりする価値)を志向する消費文化である。

 

    ここで重要なのが、この2つの消費文化は、いわゆる「批判的消費社会論」によって鋭く批判されたため、教育学を含む人文社会科学では消費なるものが非常にネガティブに理解されることになったという点。特に教育学においては、これら2つの消費文化に抗して実質的な人格形成や生産主体の育成を図ることについて長く論じてきた。つまり、企業による人々の統制や支配という社会の構図を乗り越えるような教育を求めてきたのである。しかし、消費の内で必要を超えた消費の全てが害毒であるかのように扱うのは誤りであると、著者は断言している。

 

 そこで、著者が注目したのが、間々田氏が提示した第3の消費文化である。この消費文化は、商品の文化的価値(人々が消費を通じて何らかの主観的に好ましい精神状態を実現する価値)を志向する、つまり人間の精神の充実をもたらし得る好ましい消費を追求する文化である。例えば、音楽、美術、絵画、演劇等の鑑賞の喜び、趣味の楽しみ、嗜好品の飲食の満足感、気に入った雑貨を身近に置く時の喜び、温泉での解放感やくつろぎなど。このように文化を広く深く受容するような消費は問題ないのではないかと、著者は消費に対して批判的な教育学者や読者に問い掛けている。

 

    また、価値を消費(享受)するよりも、価値を生産(創造)する生き方をより高いものと考え、消費よりも生産を価値とする人間を育てようとする今までの教育の発想を再考する余地があるとも主張している。そして、わたしたちに必要な新しい教育と社会のビジョンは、互いが作り出したものを、その総体としての世界を、互いに享受し合い、互いに味わい合うこと、つまり消費(価値の享受)を軸にして人が育ち生きる教育と社会であること、さらに文化的価値の消費を軸にした第3の消費社会、あるいは「教育(学)の消費社会論的転回」とは、そんな対抗的イメージを含んでいることにも言及している。

 

 ほかの誰かが生み出してくれた価値を、その瑞々しい感性によって適切に受け取り、深く味わい、そして同時に、その消費行動自体に道徳的反省を加えることができるような消費者を育てること。言い換えれば、経済の需要サイドに立つ「文化的消費」を、同時にそれが「倫理的消費」でもあるように育てていくことが、これからの教育の課題になるのである。この課題を解決するためには、供給サイドの生産者の「創造能力」だけでなく、需要サイドの消費者の「享受能力」も育成していくことが大切なのである。

 

 他者の作り出した価値に対する細やかな感受性、価値を享受する感性を育てるというのが、前回の記事で紹介した「子どもと世界(コンテンツ)と出会わせる」教育である。つまり、教育の在り方を「消費」という視点からとらえ直してみることが、「生産」の視点だけからとらえる<資質・能力>を育てる教育論を脱構築する方策なのである。私は、このような著者の提案した「教育(学)の消費社会論的転回」という考え方について本書を通じて知り、大きく目を開かされた。ただ、実践的な側面から、その考え方をどのような具体的な教育実践論として結実させるのか。また現在、学校現場で具現化されている<資質・能力>論の教育実践とどのように相補的に実践していくのか、これから早急に問われるべき課題だと思う。私はこれまでに積み重ねてきた教育実践経験を基に、これらの課題を解決していきたいと今、考えている。

「子どもと世界(コンテンツ)と出会わせる」教育の意味と価値について~神代健彦著『「生存競争(ザバイバル)」教育への反抗』から学ぶ②~

 前回の記事で、「ポスト近代型学力」と言われるコンピテンシーの世界的流行を受けて、日本の教育課程が独自のコンピテンシーとして提起した<資質・能力>の内実について、本書から学んだことを基に綴った。そして、この社会の要請に愚直に応えようとした<資質・能力>の教育課程は、「真の教育」「純化された教育」とすら呼んでもよいほど理想的なものである半面、その<資質・能力>としての子どもというのは「理論値」すり切りいっぱいの子どものことであるから、うまく学び得ない子どもをふるい落としながら進む、巨大な選抜機械に変質していきかねない問題点を抱えていることを指摘した。

 

    では、著者はこの問題点を克服する方策をどのように構想しているのだろうか。そこで今回は、そのオルタナティブな方策の基本的な考え方と具体的な内容等についてできるだけ簡潔に要約しつつ、私なりの所感を付け加えてみたいと思う。

 

 結論から述べよう。著者は、<資質・能力>論において見失っている、学校教育ができること(教科を介して「いま・ここで」しっかりと世界に出会わせ、子どもたちにこの瞬間を充実させること)へのタクス・フォーカスが必要だと主張している。ただし、このことは従来の「教科を学ぶ」授業のことを指すのではなく、各教科がもっている世界の把握の仕方や世界とのかかわり方(構造)をしっかり整理して、それを確実に子どもたちに身に付けさせるような「教科する」授業を構想している点を見逃してはならない。つまり、従来から批判されている「悪しき教科主義」による教科教育の実態を擁護しようとしているのではないのである。

 

 もう少し詳しく著者の構想する方策について説明していこう。そのためには、どうしても著者の方策に大きな影響を与えている、オランダ生まれの教育学者G・J・J・ビースタの議論の中身について概説する必要があるので、読者の皆さんにはお付き合いしてほしい。

 

    ビースタは主張する。「コンピテンシー教育論はそもそも学習論であり教育論の名に値しない。そしてその学習論は子どもたちを、与えられた環境を自律的に掃除して回る『ロボット掃除機』のレベルに貶めている。」と…。その真意とは、<資質・能力>としての子どもたちは、社会で必要とされる役に立つスキルを学習する場としての学校教育に「適応」することを通して、最終的にはこの社会そのものに「適応」していく、ロボット掃除機にほかなにないと言うのである。さらに、彼は(ロボット掃除機のように)閉じられた社会に対して適応的に生きる/学ぶだけではない人間の在り方・生き方をこそ、「主体であること」と名付け、その可能性の条件についても論じている。

 

 「人間はほかの動物と同じように自律的に社会に「適応」することができることを認めつつ、ほかの動物とは違って他者から教えられることにより、目の前の社会に「適応」するという営みをいったん中断して別様に考え生きることもできる。だから「教える」ということは、ロボット掃除機を『主体』であることへと導くことにほかならない。」…このように彼は言う。つまり、必要とされるのは「教えることの再発見」なのである。

 

    具体的には、世界やそれを構成する概念(むき出しのコンテンツ)を、それとして提示することである。これは、子どもにとっては既知のものへとスムーズに置き換え処理できないものとの出会いである。子どもはここで、自らの理解に服さない(分からない!)という世界の側からの「抵抗」を経験する。彼は、このような「抵抗」に出会い、学習(適応)を「中断」された子どもは、自分自身がもつ「学習(適応)したい」とい欲望の存在に気付き、その欲望それ自体の吟味を始めると言う。この事態を彼は「停止」と呼ぶ。

 

    しかし、これは子どもにとって極めて不安な状態になる。そこで、子どもは不安に耐えかねて再び「適応」に没入するか、逆に世界の「抵抗」から逃げ去ろうとするかという選択肢の前に立つ。そのような子どもに対して、「教える」とはどちらの選択肢も取らせずにその状態を「維持」するということだと、彼は続けて言う。「分からなさに耐えて、分かろうとすること」を子どもに強いるのである。この時、世界は子どもが一方的に理解する対象(社会)ではなく、むしろ向こうから呼びかけてくるもの、その意味で正しく「対話」の相手となる。ここに彼は、「学習」の促進に還元されない「教えること」の意味を再発見する。そして、この「教えること」「教えられること」を介して、世界と対話するようになった子どもこそ、彼は「主体」と呼ぶのである。

 

 「主体」であるとは、社会の一部になることではなく、他者としての世界に出会い、それと一致してしまうのではなく、「ともに在る」ことである。そのために必要なのは、社会への適応力を引き出すコンピエンシー学習論ではなく、「子どもと世界(コンテンツ)と出会わせる」教育論なのである。そんな子どもと世界を出会わせる仕事としての「教えること」の再発見こそが、ビータスの提案なのであり、著者の構想する方策の具体化なのである。

 

 この「子どもと世界(コンテンツ)と出会わせる」教育論の価値は、「教える」まさにその瞬間、子どもを「中断・停止・維持」のなかにつなぎ留めること、世界(コンテンツ)と出会わせること、つまりは子どもを「主体」とすることそのものにある。これこそが、著者が構想するオルタナティブな方策なのであるが、私自身は現職時にこのような「環境や他者との相互作用を尊重する中で、子どもを主体として育てていく」教育論に立つ授業実践を行ってきた自負があり、その意味では今更という気がしないでもない。しかし、その理論的な意味付けはまだ不十分だったと反省している。

 

    そこで次回は、経済学的な知見を基にして「子どもと世界(コンテンツ)と出会わせる」教育論の理論的な意味付けについて、著者が提案していることを要約してみたいと考えている。なるべく分かりやすく綴りたいと思うが、果たしてうまくできるかどうかわからないが、しばらくお待ちいただければ幸いである。

新学習指導要領の<資質・能力>という概念を問い直す視座について~神代健彦著『「生存競争(サバイバル)」教育への反抗』から学ぶ①~

 新年が明けて一週間が過ぎ、我が市にも今季最大の寒波が襲ってきて、日中珍しく小雪が舞った。振り返れば、元日は予想したほどの厳寒にはならず、日中はわずかに暖かい陽光が差していた。そんな好天のお昼過ぎに、二女夫婦が新年の挨拶に我が家を訪れてくれた。私たち夫婦と共に四人で、妻手作りのおせち料理を味わいながら、2月に誕生予定の第1子に付ける名前についての話題で盛り上がった。前々回の記事でも触れたように、二女の夫はお腹が大きくなった妻を労わり、私たち義父母に対しても何かと気遣いをしてくれ、私は新年早々に爽やかな気持ちになった。そして、二女夫婦が帰った後、私はお屠蘇気分のままで書斎の机の前に座り、年末に読みかけていた『「生存競争」教育への反抗』(神代健彦著)の「第2章 教育に期待しすぎないで」から読み始めた。すると、著者の教育に対する考え方の独創的な視座の面白さに惹かれて少しずつ読み進め、この一週間で二度読み直した。

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 「そうか。私は新学習指導要領の<資質・能力>という概念に何の疑いもなく賛同していたが、この本はその概念を問い直す視座を提示しているんだ。これは、確かに問い直す必要があるなあ。」昨日、二度目の読了後、本書をそっと机の上に置きつつ、私は自分に言い聞かせるように呟いていた。

 

 そこで今回は、本書で提示されている新学習指導要領の<資質・能力>という概念を問い直す視座について要約しつつ、私なりの所感を綴ってみたいと思う。ただし、私の力量では著者の考えを的確に要約することができないかもしれないので、本記事を読んで多少でも興味をもった方はぜひ本書を直に手にして、自分の目と頭で確かめることをお勧めしたい。

 

 さて、私は今までの当ブログの記事の中で、本年度から小学校で全面実施されている新学習指導要領の趣旨や内容等を肯定的に受け止めて、特に「問題解決力」の育成を目指した「主体的で対話的で深い学び」(いわゆるアクティブ・ラーニング)という学習論、また「カリキュラム・マネージメント」という教育課程の編成・実施・評価論等の考え方に賛同する立場から、それらのよりよい実施の在り方について言及してきた。しかし、この教育課程の目的・目標として重視されている学力観に基づく<資質・能力>という概念や内容等について、具体的かつ詳細に触れることはなかった。その理由は、私が現職時に大切にしてきた子どもの立場に立った教育観や学習観等から見て、それらの概念や内容等は望ましいものとして受け入れ当然視していたからである。

 

 ところが、私は本書を読んで、日本の学校の教育課程において<資質・能力>という概念や内容等を設定した背景には、1990年代にOECD現代社会に適合した能力概念を定義するために組織したプロジェクトDeSeCoの報告書において提言された「キー・コンピテンシー」という能力概念があったことを詳しく知り、改めてその根本的な考え方について再認識する必要性を強く感じた。

 

 そもそも「キー・コンピテンシー」とは、「これからの社会をよりよく生き得る個人」であり、かつ「これからの社会がよりよく機能するために必要な人材」でもあるような人間を、能力という観点から定義したものである。そして、日本の学校の教育課程がコンピテンシーの世界的流行を受けて、独自のコンピテンシー概念として提起したのが、「ポスト近代型能力」と言われる<資質・能力>である。その内実は、2016年の中央教育審議会答申で示された次の三つの柱である。

 

① 「何を理解しているか、何ができるか(未来に働く『知識・技能』の習得)」

② 「理解していること・できることをどう使うか(未知の状況にも対応できる『思考力・判断力・表現力等』の育成)」

③ 「どのように社会と関わり、よりよい人生を送るか(学びを人生や社会に生かそうとする『学びに向かう力・人間性等』の涵養)」

 

 これら三つの柱によって構成される<資質・能力>を育てることが、新学習指導要領で示された教育課程の目的・目標として重視されているのである。このように普通の意味での「能力」に加えて人格的な要素をも含み込んだ<資質・能力>とは、ある種の「力」としてとらえられた「まるごと」の子どもなのである。したがって、<資質・能力>は学力を「子どもの発達の道筋」に即して再定義したといえる。

 

 ここで重要なのは、この〈資質・能力〉論は、「白紙」としての子どもに教師が知識や技能を教え込むという教育観を拒否して、子どもが本来もっている学ぶ力(方法知としての資質・能力)を重視している点である。また、その学ぶ力が学ぶこと(対象の内容知の獲得)によってますます引き出され卓越化していくという、子どもの自律的な自己教育/学習の運動を強調する点である。さらにそこには、子どもが自律的に自身の学びを自己調節していく働きとしての「メタ認知」も含まれている。つまり、子どもは何かを学ぶと同時に、学び方を学ぶのであり、その意味でこの<資質・能力>の教育論は子ども中心主義の教育なのである。著者は、このような〈資質・能力〉が描く教育/学習論のことを、「真の教育」「純化された教育」とすら呼んでもよいと述べており、私も著者と同様な受け止め方をしていた。

 

 しかし、<資質・能力>の教育論に対して、著者は次のような問題点を指摘している。それは、社会の要請に愚直に応えようとしてあまりに純化・高度化した教育論は、子どもという存在、あるいは人間というものの可能性を、あまりに高度に想定しているという点。つまり、<資質・能力>の子どもには「前進/向上/増大/高度化」のみがあって、現実の子どもの実態として見られる「後退/停滞/減少/以前に出来たことができなくなる」ということが想定されていないのである。だから、〈資質・能力〉を目的・目標とする高度な教育課程は、うまく学び得ない子どもをふるい落としながら進む、巨大な選抜機械に変質していきかねない。言い換えれば、<資質・能力>の教育システムは、たまたま生まれつき資質・能力の初期値が高い、救世主/自己責任の「小さな企業家(アントレプレナー)」を見つけ出すための巨大な選抜機械以外の、何ものでもなくなってしまうのではないかということである。

 

 私は、上述の問題点を指摘され、ドキッとした。それは、以前から薄々意識していたことだったからである。そうなのだ!予測不可能な未来社会にフレキシブルに即応して、「個人の人生の成功」と「うまく機能する社会」を共に実現する<資質・能力>としての子どもというのは、「理論値」すり切りいっぱいの子どものことであり、ある意味で理想的な一握りのエリートを想定しているのではないか。これは、現在、様々な角度から批判されている「格差社会」を前提にしてしまっているのではないか。私は唸ってしまった…。

 

 では、このような<資質・能力>論、つまりコンピテンシー教育論の問題点を克服する方策はないのか。本書において著者はこの方策についても語っている。次回は、この点に言及した記事を綴ってみたいと考えている。乞うご期待!

「文化的再生産論」と「他者の合理性」について~「100分de名著」におけるブルデュー著『ディスタンクシオン』のテキストから学ぶ~

 この冬一番の寒波襲来を知らせるテレビの天気予報を聞いて、寒風が余計に身に沁みる大晦日になった。また、コロナ禍による失業や減収のために困窮した生活を余儀なくされている多くの人が、心細い気持ちで年の瀬を迎えていると思うと、胸が締め付けられる。そのような境遇に置かれている人々に思いを馳せると、今、自宅で穏やかな気持ちでパソコンを叩いている自分の境遇がどれだけ有難く、幸せなのかをひしひしと実感する。だからという訳ではないが、そんな境遇にある自分が今できることは、常に自分と社会との関係性を問い直し、自分なりのよりよい生き方と社会のよりよい在り方を求めて学び続けること。そして、その学んだことを拙いながらも言語化し、ブログというSNSを活用して社会に向けて発信し続けることだと考えている。

 

 そこで今回は、年末年始の休みを利用した学びの中から、NHK・Eテレの12月の「100分de名著」を取り上げる。具体的には、ブルデュー著『ディスタンクシオン』のテキストを参考にしながら、全4回分の録画をまとめて視聴して私なりに学んだことについて綴ってみたい。

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 まず、番組を視聴した全体的な所感を述べよう。全4回の内容構成が、『ディスタンクシオン』の中で人々の趣味と階層の不可分性を分析した「ハビトゥス」「界」「文化資本」という3つのキー・コンセプトとそれらを総括したことについて解説するものであったので、私のような社会学には疎い者でも大変理解しやすいものであった。また、講師の社会学者で立命館大学大学院教授の岸政彦氏の解説が的確であり、かつ司会の伊集院光氏の具体的な解釈事例とうまく噛み合った対応をされていたので、理解がより深まった。さらに、俳優の國村隼氏の『ディスタンクシオン』の朗読は、その内容が私の頭脳にも明確に伝わってくるほど素晴らしいものだった。私は全ての放送を視聴して、大きな充足感を得ることができた。

 

 次に、私なりに特に学んだことを二つ、述べよう。一つ目は、第3回の放送において語られた、教育社会学でいうところの「文化的再生産論」という見方について。これは、出身階級に傾向付けられる性向が階層を再生産するという見方のことである。もう少し学校教育の場に即して言えば、学校で勉強することをよしとする態度や性向は、就学以前に獲得される文化資本(身体化された文化資本)であるため、その資本の多寡によって学校での秩序が決まり、ひいては社会での位置も再生産されるということ。さらに、その学校で固定化される秩序が、その人の趣味やライフスタイルにも影響を及ぼし差異を再生産するという見方のことを示す。この「文化的再生産論」が投げ掛ける問題の核心は、学校の社会的機能を問い直すことにある。

 

 ブルデューは、本来、近代社会において階層に関係なく優秀な人を選抜する目的で、階層をシャッフルする機能が期待されていた義務教育が、結果的には選別と格差の維持機能を担ってしまっていたと指摘する。言い換えれば、学校は優秀な人を効率よくピックアップするための装置ではなく、ただ親から受け継いだ文化資本をそのまま自動的に親と同じように高い位置に押し上げるための装置になっていたのである。しかし、講師の岸氏は、このようなブルデューの主張は希望のない決定論ではないと考えている。その理由は、ブルデューの理論がその過酷さを代償に、幻想を持たずに他者を知ること、幻想を持たずに自分を知ることを可能にしてくれるからだと述べている。私は、ここに岸氏がブルデュー理論に対して新たな意味付け・価値付けを行っていると強く感じた。

 

 上述したことは、第4回(最終回)の放送において語られた、「他者の合理性」という言葉のもつ意味と意義に関連していくものであり、この内容こそ私が学んだことの二つ目に他ならない。「他者の合理性」とは、他者の行為や判断には、私たちにとって簡単に理解できないもの、あるいは全く受け入れないものでさえも、その人なりの理由や動機や根拠があり、それは他者なりの合理性があるということを意味する。そして、その合理性を調べるのが社会学の役割なのである。ブルデューがそれを階級格差や象徴闘争の中に見出し、非常に強力な理論で緻密に言語化したのが『ディスタンクシオン』であった。ここで描かれているのは、自分たちなりに自らの人生をよりよいものにするために懸命に闘っている人々の物語であり、ブルデューがやっていたのは「人生の社会学」なのだと、岸氏は明快に意義付けている。私はこの岸氏の意義付けの中に、他者との共存・共生の在り方に繋がる糸口があると確信した。社会には「私の合理性」とは違う「他者の合理性」があるということ。つまり、社会には複数の合理性が存在するという事実を認めることは、幻想に逃げることなく希望を持とうとする姿勢を形成することになるのである。これは、とても大事な視座である!

 

 もうすぐ新型コロナウィルスに世界や我が国が翻弄され続けた2020年が終わろうとしている。特に我が国は第3波がなかなか収束せず、逆に都市部では更なる感染拡大の兆候が見られる年末年始になりそうだが、高齢者の一人である私はこの期間、できるだけ妻と共に静かに「ステイホーム」しようと考えている。そして、元旦には神棚に向かって手を合わせ、「家内安全」を祈願すると共に、「今年こそ世界や我が国に希望のある未来をもたらせてほしい。」と祈念するつもりである。

 

    では、読者の皆さん、まだまだ安全・安心が保障された情況ではありませんが、よい年をお迎えください。そして、よかったら来年も当ブログの記事をご愛読くださいますようお願いいたします。

誕生日のプレゼントの一つは本だった!~白石一文著『ほかならぬ人へ』の思い出から~

 二人の娘たちが幼い頃、私は自分なりの視点で選んで買った絵本を、妻と交互に寝る前によく読み聞かせていた。また、小学生になってから成人して独立するまでの誕生日には、私は娘たちにそれぞれの性格や特性等を考慮して選んだ本をプレゼントの一つとして贈っていた。元教員の私としては、我が子が本に親しみ、少しでも広い世界に目を向けたり自分の興味のある世界を深く見つめたりしてほしいという願いのもと、これらのことを行っていたのだが、果たしてその願いは実現したのであろうか。今、長女は小・中学校の音楽科を担当する教員になり、二女は調剤薬局に勤務する薬剤師になっている。このことは小・中・高校時代のほどほどの学業成績の結果ではあるが、多少は私の願いも加味されているのではないかと手前味噌的な感慨に耽っている。

 

 ところで、今、二人の娘たちは結婚して独立しているが、彼女たちに誕生日プレゼントとして贈った本のほとんどは我が家の収納スペースの棚の中にある。先日、それらの本を何気なく眺めていたら、ある本が私の眼に止まった。確か20代前半頃の二女へ贈った『ほかならぬ人へ』(白石一文著)である。なぜこの本が私の眼に止まったかというと、今年の9月末から11月にかけていつもの如く私と妻が気に入って視聴した、BSプレミアムで放映された上川隆也主演のヒューマン・ドラマ『一億円のさようなら』の原作者と同じ作者の作品だったからである。

 

   「えっ、白石一文氏の本を娘にプレゼントしていたんだ!でも、自分はまだ読んだことがなかったなあ。」と呟きながら本書をそっと棚の中から取り出した私は、自然と最初のページをめくっていた。10年ほど前に本書を読んだであろう二女は、その時にどんな感想を抱いたのか。私は二女の立場になって、読んでみたくなった。それから、これもいつもの如く就寝前と起床後のわずかの時間の読書対象の一冊として本書と付き合い、ついに今朝読了した。

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 そこで今回は、誕生日プレゼントの一つとして二女に本書を贈った当時の私の想いを絡めながら、20代前半頃の二女の立場で読んでみた私の所感を綴ってみたいと思う。

 

 本書の帯には、「第142回 直木賞受賞作 愛の本質に挑む純粋な恋愛小説 愛すべき真の相手は、どこにいるのだろう?」と記されている。関西の私立大学の薬学部を卒業し、地元の病院薬剤師として勤務していた20代前半の二女に、今から10数年ほど前、私は本書を誕生日プレゼントとして贈った。父親の私には本当のところは分からないが、当時の二女には付き合っている彼氏はいなかったと思う。しかし、私は二女に対して「いずれは結婚することになるだろうから、本当に愛する相手を見つけて結婚してほしい。」という想いで、帯に記された文言を見ただけで本書を選んだと思う。

 

 今回、私は初めて本書に所収されている「ほかならぬ人へ」という作品を読み、当時の二女はどのような感想をもったのだろうかと思った。この作品は主人公が男性であり、女性の二女は感情移入しづらかったのではないか。でも、きっとこの物語に込められた大事なメッセージは伝わったと信じたい。

 

    では、簡単に「ほかならぬ人へ」のあらすじを紹介しておこう。

 

    エリート家系出身の27歳の宇津木明生は、周囲の反対を押し切って美人のなずなと結婚する。しかし、そのなずなは過去に付き合っていた真一のことが気になって夜も寝られないと打ち明ける。明生が結婚後の真一との関係をなずなに問い質すと、なずなは逆上して家出してしまう。失意の明生は徐々に自暴自棄になっていくが、そんな彼の愚痴を親身に聴き、優しく語り掛ける女性が身近にいた。明生は、なずなとの結婚生活を清算し、その女性と共に生きることを決意する。しかし、その女性には思わぬ病魔が潜んでいた…。

 

 私は「ほかならぬ人へ」を読みながら、二女はきっと自分のことを気遣い心配してくれる人、そして外見ではなく本当に内面の豊かな人こそが愛すべき人なのだと思ってくれたにちがいないと確信めいたものを感じた。そして、そのような愛すべき人を見つけ、結婚することが幸せをつかむことになると思ってくれたのではないだろうか。(もちろんそれだけが幸せの必要条件ではないことを承知しているつもりだが…)私がなぜこのようなことを想像したかというと、その後、二女は飾り気のない誠実な人柄の男性と結婚したからである。そんな二女夫婦には来春、初めての子どもが授かる。おなかが大きくなった二女を気遣い、優しく労わってくれる夫の姿を目の当たりに見て、私は本書を誕生日プレゼントの一つとして二女に贈ったことへの返礼を見せられているような気がして、満更ではない気分なのであります。

 

 この正月には二女夫婦が我が家を訪れるという。果たして私が想像したとおりか、そっと彼女に尋ねてみようかな…。

PV数がなんと20,000回を突破!!これまでの経緯や実態等を踏まえて、今後の当ブログ運営について展望する

 気が付いたら当ブログのPV数が、20,000回を突破していた。今日2020年12月21日14:00現在で、20,588回になっていた。2018年12月2日に当ブログを開設したのだから、それから約2年間で20,000回に到達したわけである。いわゆる人気ブログならこのような数字は驚くことはないと思うが、当ブログのような雑学的な内容をエッセイ風に綴る、高齢者による地味なブログにおいては大変嬉しいPV数である。

 

 そこで、今回も含めて記事の投稿数やPV数の節目ごとにまとめてきた内容の経緯を簡単に振り返ってみよう。

 

① 2019年2月11日(PV数未確認)、投稿数54、カテゴリー別投稿数は…「健康・スポーツ」46、「教育・子育て」15、「人生・生き方」12

② 2019年7月1日(PV数未確認)、投稿数100、カテゴリー別投稿数は…「健康・スポーツ」58、「教育・子育て」37、「人生・生き方」36

③ 2019年9月20日(PV数5,000回)、投稿数123、カテゴリー別投稿数は…「健康・スポーツ」59、「教育・子育て」52、「人生・生き方」57

④ 2020年3月23日(PV数10,000回)、投稿数172、カテゴリー別投稿数は…「健康・スポーツ」71、「教育・子育て」71、「人生・生き方」89

⑤ 2020年12月21日(PV数20,588回)、投稿数231、カテゴリー別投稿数は…「健康・スポーツ」80、「教育・子育て」89、「人生・生き方」136

 

 当ブログを開設してからの最初の約7か月間は、「健康・スポーツ」のカテゴリーの投稿数が他の2つに比べて多かった。これは当時、私が「生涯スポーツ社会の実現を図ることを目的とした事業を行う公益財団法人」に勤務していて、「健康・スポーツ」に関連した通信紙「もしもし生涯スポーツだより」を発行していたので、その記事を再構成したものが多かったからである。

 

    そして、それからの約8か月間には、「教育・子育て」や「人生・生き方」のカテゴリーの投稿数が増えてきた。これは、私が現職時に15年間も勤務した地元の国立大学教育学部附属小学校の教育研究大会に参加し、体育科の公開授業を参観して以来、体育科等の学習や教育に関する記事をよく書くようになったこと。また、初孫Hの育ちについて心配することがあり、それに関連した記事を綴ることが増えたことも影響していた。さらに、私が前期高齢者と呼ばれる年齢になり、「老い」をどう生きるかという切実な実存的課題に関連する記事を綴ることが多くなったからである。

 

    ここ最近の約9か月間は、ますます「人生・生き方」のカテゴリーの投稿数が増えている。これは、「第二の人生のセカンドステージ」をどう生きるかという課題に対する私なりの想いと現実の狭間で揺れ動く心情を反映していると思う。したがって、これからもしばらくはこのカテゴリーの記事の投稿数が増えていくだろう。また、私にとって二人目の孫に当たる、次女の初めての子どもが来年2月には生まれる予定なので、来年は次第に「教育・子育て」のカテゴリーの投稿数も増えていくと思われる。

 

 さて、今回は今までには示すことがなかったデータを紹介し、今後の当ブログの運営について展望してみたい。それは、これまでに投稿した記事(231)の中で、どのような内容の記事が多く閲覧されたかというデータである。このデータは、「はてなブログ」のアクセス解析における「最近のアクセス傾向」に基づいているので正確な実態ではないが、全体的な傾向はつかめるのではないかと思う。次に、ベスト5の記事名を挙げたい。

 

○ 第1位…小中学校教員を対象に「教育論文の書き方」講話と演習を行いました!

○ 第2位…どうなる?「総合型地域スポーツクラブ」の登録・認定制度の行方…

○ 第3位…ストレッチの効果とその科学的根拠について

○ 第4位…語彙力を高めるインプットとアウトプットの技法について~斎藤孝著『語彙力こそ教養である』から学ぶ~

○ 第5位…「新しい学力」のとらえ方とこれからの学校教育の在り方~斎藤孝著『新しい学力』を参考にして~

 

 ベスト5の記事名を見れば分かるが、「教育・子育て」のカテゴリーが3つ、「健康・スポーツ」のカテゴリーが2つになっている。しかも、具体的・実践的な内容の記事が多い。また、斎藤孝氏の著書を読んで綴った記事が2つも入っている。斎藤孝氏のファンの方々が、閲覧してくださっているのだろうか。私としては、「人生・生き方」のカテゴリーの記事が入っていないのが少し残念だが、読者のニーズからとらえれば仕方がないのかもしれない。

 

    したがって、以上のような実態を踏まえると、今後はできるだけ読者のニーズも意識して記事の内容を選定したいと考えている。しかし、正直、私の本音を言えば、やはり当ブログにおいては自分の課題意識に即した記事、特に「人生・生き方」に関する哲学・倫理学的なものを綴ることを最優先したいと思っている。それでもよかったら、今までに閲覧してくださった読者の皆さん、当ブログ記事をこれからもご愛読のほどよろしくお願いいたします。

「にんげん」の生き方や「じんかん」の在り方について考える~今村翔吾著『じんかん』から学ぶ~

 本年7月14日付けの当ブログの記事で今村翔吾著『童の神』を取り上げて私なりの所感を綴った際に、彼の歴史小説『じんかん』が第163回直木賞を受賞するだろうと予想した。また、その『じんかん』を<羽州ぼろ鳶組シリーズ>第4巻『鬼煙管』より先に読みたいという願望も記していたが、結局そのどちらも実現することはなかった。

 

    直木賞の方は残念ながら次点に甘んじ、その後、諸般の事情が絡んで私が先に読んだのは『鬼煙管』の方であった。私が『じんかん』を読んだのは11月下旬から12月初旬にかけて。読書場所はそのほとんどが私の寝床。時間帯は就寝前と起床後の各30分ほどであった。だから、一気に読み通すのではなく、途切れ途切れの読書になってしまった。しかし、本書を読み進めながら何度も枕を濡らしてしまった。予想に違わぬ、いや予想以上に壮大なスケールで描かれた感動的な歴史小説だった。 

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 本書は、戦国時代に「余人にはなしえぬ三つの悪事」(主君の暗殺、将軍の殺害、東大寺大仏殿の焼き討ち)をなした稀代の悪人と呼ばれている松永久秀の生涯を、最新の研究事情を踏まえて「三悪」の裏に隠された真相を大胆な新解釈で読み解いて描いた509ページにも及ぶ超大作である。過酷な体験を経て孤児になった少年期(九兵衛)から、知識と教養・リーダーとして必要な素養を培った青年期、さらに三好元長の「民のための民による自治を」という理想に共鳴して抱いた想いを遂げられぬまま自死を選ぶ壮年期へと繋がる久秀の半生を通して、著者は現代社会にも通じる「人間」(個人)の生き方や「人間」(社会)の在り方についての問いを投げ掛けている。特に本書の中で久秀が何度も自問する「人は何のために生まれてくるのか。儚く散るためだけに生まれてきたとでもいうのか。」という言葉が、私の胸に深く突き刺さってきた。まさしく実存としての「にんげん」の生き方を問うものである。

 

 「人間」という字は「にんげん」と読めば一個の人を指すが、「じんかん」と読めば人と人が織りなす間、つまり「この世」という意味である。(p114)久秀は、「この世」の常として「人は本質的に変革を嫌う」(p341)「本当のところ、理想を追い求めようとする者など、この人間(じんかん)には一厘しかおらぬ、残りの九割九分九厘は、ただ変革を恐れて大きな流れに身をゆだねるだけ」(p377)と語っている。このような「じんかん」の中で、人はどう生きていくべきなのか。これは、まさしく関係としての「にんげん」の生き方を問うものであり、さらに「じんかん」の在り方を問うものでもある。

 

 戦国時代に「いずれは民が政をみる」という民主主義的な考え方をもっていた理想主義者の三好元長。その理想に共鳴し志を引き継ぎ、ままならぬ現実との狭間に翻弄されながらも「じんかん」の中で己の志を貫こうとした松永久秀。そして、時代の先駆者としての久秀の生き様を理解し尊重していたからこそ、久秀の二度にわたる謀反にも寛容であった織田信長。元長は道半ばにして志が終わってしまったが、その想いを久秀に託した。また、久秀も結果的に悪名だけを残して自死を選ぶことになったが、その遺志を信長に託したのであろう。大事を為すには、人の人生はあまりにも短すぎるが、その大事は心ある一厘の人から人へと引き継がれていくのである。ここに「じんかん」の奥に秘められた善や正義の実現への道筋を見出すことができる。己だけの自己実現を図ることが、幸せな生き方ではない。限りある時空間の中で、大事を成し遂げるために自己の能力や才能を生かし切ることが、本当の意味での自己実現ではないか。本書を通して、著者は読者にそう問い掛けているように私は思った。

 

 この物語は、信長が小姓の狩野又九郎に松永久秀の人生を語り伝えるという、趣向を凝らした構成になっているが、その又九郎が久秀に邂逅した際に、次の言葉を久秀から投げ掛けられる。「夢に大きいも小さいもない。お主だけの夢を追えばよいのだ」(p505)私は、この言葉に勇気をもらったような気がした。すでに満66歳の老齢になった私だが、それでもまだ自分なりの細やかな夢を持ち続けている。当ブログでも何度か綴ったことがある「哲学対話」や「こども哲学」の実践である。今年、思わぬコロナ禍に遭遇してしまったために頓挫しているが、我が国でもワクチン接種を多くの国民が受けることができ、新型コロナウィルスの感染拡大が終息する兆しがはっきりと見えてきたら、ぜひその夢を実現しようと決意を新たにすることができた。人と人のつながりやかかわり合いが希薄になってしまった今だからこそ、この小事を成し遂げることに大きな意味を見出だすきっかけを与えてくれた本書に、そして著者の今村翔吾氏に心から感謝したい。

他者への観察癖の効用について~村松友視著『老人のライセンス』を読んで~

 2019年1月31日付けの当ブログ「プロレスって、プロのレスリングのことではないの?」と題する記事で、作家・村松友視著の初期プロレス3部作の一つ『私、プロレスの味方です―金曜午後8時の論理―』を取り上げたことがあったが、もともと私は直木賞受賞作『時代屋の女房』を読んで以来の村松友視ファンである。最初は、男と女の間における虚実皮膜の世界を、軽妙な筆致で描く著者独特の世界観に魅入られた。また、祖母に育てられた特異な家庭環境を背景にした私小説的作品も好きで、特に泉鏡花文学賞を受賞した『鎌倉のおばさん』は家族関係における愛憎が濃密に交錯した私好みの作品である。さらに、市井の人々の人間味溢れる日常を、著者独特のアングルでさり気なく描く芳醇なエッセイ集も味わい深い。今回、本記事で取り上げるのは、老年になった著者が「老い」を題材にして人間の醍醐味を魅惑的に描いたエッセイ集の中の一つ『老人のライセンス』である。

 

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 本書に編集されているエッセイ群は、2016年4月5日~2017年12月19日の「夕刊フジ」に「老人のライセンス」として掲載されたものである。そして、その中身はとうに後期高齢者の年齢を過ぎた著者が、宿病とも言える他者への観察癖をもって「老人の心のライセンス」所得者の愛すべき人間の幅広い味を描いたものである。私は本書に所収されている各エッセイを、生き物に模した自然の流木を磨き上げて作った置物を一つ一つ愛でるように鑑賞する気分で味読した。

 

 そこで今回は、著者の他者への観察癖の効用が表われているエッセイの中でも私が特に気に入ったエッセイ「蓮っ葉な女の読書に翻弄される」の内容概要を紹介しつつ、私なりの簡単な所感を綴ってみたい。

 

 電車に乗っていた著者は、向い側に座っている赤い口紅の艶っぽい若い女性が気になっていた。先細のジーンズに銀色のサンダル、偽物らしい毛皮のコートの内側には赤のVネックセーターという身なりは、著者の故郷である清水みなとを思い出させる蓮っ葉さ。足元に化粧ケースを置き、手には読み耽っている本をもっている。著者はストーカー直前の神経で彼女の表情や仕種を観察し始め、いったい何の本を読んでいるのか気になって降りるべき駅でも降りられぬという気分のまま。…ここまで読んだ私は、著者の陥った心情に共感してしまう。決してスケベ心ではなく、蓮っ葉な感じの外面と読書という知的な感じの内面のギャップの謎を知りたいという好奇心が彼女を観察対象にしてしまう。ついついその謎を解明したくなるものなのだ。

 

 ある駅で止まった電車が走り出す直前、その女性は慌てて立ち上がった。その拍子に彼女の手を滑り抜けた本が著者の足元に落ちたので、それを拾って彼女に渡す。その際にそっと覗き見た本の見開きページには、枠目と白黒の丸の組み合わせがあった。彼女は囲碁教則本を熟読していたのである。著者は、この白昼夢的けしきの残像とともに、次の駅で電車を降りたという、「蓮っ葉な女の読書に翻弄される」という顛末。…知ってしまえば、ある種の期待を裏切る、何とも面白みのない事実であった。

 

    しかし、このエッセイには書かれていないが、私はこの事実が判明する前に著者の頭の中には様々な種類の本を想定していたのではないかと想像する。地方都市の繁華街で殺伐と生きているヤクザと蓮っ葉なホステスの逃避行を描く物語とか、小さな劇場の舞台で端役しか回ってこなかった女優の卵が、様々な出来事を経験しながら実力派の女優として花開いていく物語とか…。もし結果的にそんな内容の小説を読み耽っていたのであったら、著者はますます彼女の成育歴や境遇等に思いを馳せていたであろうし、ワクワクした気分で次の駅に降り立ったであろう。

 

 でも、結果はあまりにもあっけないものだった。読んでいる私まで気落ちするような展開だったが、ここで私は考えた。いや、この事実だったからこそ、著者が宿病とも言える他者への観察癖の対象とした蓮っ葉な女の読書に翻弄されたこと自体が面白いエピソードになったのだ。そうなのだ。著者がこのような題材でエッセイを書くことができるのも、「宿病とも言える他者への観察癖」のおかげなのである。このエッセイ集は、著者独特のセンスの独壇場になっていて、ファンの私にとっては何とも心地よい読書時間を提供してくれた本になったのであります。

公道でなければ「一方通行」表示は無視!?~村松友視のエッセイ風に~

 休日は妻の買い物に連れ添いアッシー君の役割を果たす私だが、その際に老人性のボヤキを呟いている内についつい公憤が湧き上がってしまうような場面に出会うことがある。

 

    今日も今日とて、あるスーパーマーケットの駐車場に自家用車を止めて、ATMでお金を下ろすためにさっさと車を降りた妻を追うために車外に出ようとした時、その車は「一方通行」の表示を完全に無視して、私の目の前を通り過ぎた。そして、数少ない空きスペースに急いで駐車しようとバックを始めたのである。「おい、おい。公道ではないが『一方通行』表示を無視して逆走してくると、対向車と事故ってしまうぞ!」私は老人性のボヤキが自然と口に出てしまっていた。しかし、その車の所有者は何事もなったように下車して、さっさとスーパーの方へ歩を進めてしまった。私はしばし車のドアに手を掛けたまま唖然としてしまった。 

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 すると、何と先の車に続いて、3台ほどの車がやはり逆走してきてバックで駐車したのである。私の心は「唖然」状態から「呆然」状態へとスパイラル的に上昇していった。「何てことだ。日本人が本来もっていた公徳心は一体どこへ行ってしまったのだ!」私の感情的知性は「老人性のボヤキ」レベルから「公憤」レベルへとヒートアップしてきた。

 

    このスーパーマーケットの駐車場において逆走してきた人々は、おそらく公道においては「一方通行」表示を遵守しているのではないかと思う。それは、「一方通行」表示を無視して逆走すれば、道路交通法違反になり、警察に通報されかねない。また、警察が直に発見した現行犯であれば、当然罰金刑の対象になる違反行為であるから、ほとんどの市民は守るのである。しかし、民間事業所であるスーパーマーケットの駐車場における道路標示は、法律に規定されたものではなく、あくまで買い物客の安全面や公平性を考慮したお願いベースのものである。だから、「対向車がいない場合、安全面に問題はないでしょ。公平性には多少問題が残るけど、私は急いでいるから空きスペースが埋まらない内に駐車して早く買い物をしたいのよ。それに誰も咎める人もいないようだし…。」というような利己主義的な理屈を優先しているのではないだろうか。

 

 もし上述のような理屈が的外れでないならば、逆走してきた人たちは誰かが咎めれば「一方通行」表示を守るのだろうか。このことに関連したような実際の場面を、私はつい先日たまたま目撃していた。その事実の概要を述べておこう。

 

 その日も同じ駐車場で、私が車から降る用意をしていたタイミング。逆走してきた車は私の目の前を通ろうとしたちょうどその場所で、「一方通行」表示に従って進んできた大型普通車と対面する格好になり慌てて停止した。それに対して、大型普通車に乗っていた壮年男性は怒り顔で「ここは一方通行だ。バックしろ!」というように右手を上に払うように動かせた。すると、逆走車に乗っていた中年女性は少し怯えた表情になり、ギアをバックに切り替えてやや右後方へ下がって再び停止した。おそらく離合しようとしたのではないかと思う。しかし、壮年男性は先ほどの動作をさらに大きくして繰り返した。中年女性はしぶしぶといった感じで車をバックさせてその通路から出て行き、壮年男性は車を悠々と前進させていったという顛末であります。

 

 私はその一部始終の有様を目撃していた訳だが、逆走車の中年女性の表情から察するに、この駐車場の「一方通行」表示を意識していたのか、意識していなかったのかどちらとも判断することができなかった。たまたま空きスペースがあった通路に何も考えず侵入してきたら、対向車に乗った怖そうな壮年男性から威嚇されたのでその怖さからバックしたようにも見えた。もちろん逆走している自意識があったから、壮年男性の指示に素直に従ってバックしたようにも見えた。ただどちらにしろ、逆走してきた人たちは誰かが咎めれば、ほとんどの人は「一方通行」表示に従った行動を取るであろう。なぜなら、お願いベースであってもマナーとして守ってほしいと表示しているのだから。また、それに従わずに対向車とぶつかった場合は、事故の責任比率が相手側より大きくなるであろうから…。

 

 しかし、ここで私は考える。では、この駐車場の管理者であるスーパーマーケット側は、駐車場を整理・監督する任務を果たす警備員を配置する義務があるのだろうか。もちろん事業所の財政的な負担過多にならないのであれば、配置する方が適切であろう。ただし、義務とまでは言えないのではないか。なぜなら、「当スーパーマーケットは駐車場内で事故が起こった際に責任を負えません。」という旨の標示板が立っているのだから。だとすれば、駐車場を利用する買い物客自身が、事故を起こさないためにも駐車場を公平に利用するためにも、「一方通行」表示に従うというマナーを守るべきである。

 

 ここまで、公道ではないスーパーマーケットの駐車場における「一方通行」表示を無視して逆走する車が多いという出来事についてつらつらと綴ってきた訳だが、それは単に上述のような当たり前の結論を導くためではない。その真意は、そのような行為が日常茶飯事になっている現状に対して、その背景や原因等について深く考えることが必要ではないかと多くの人に問題提起したかったという、一席のお粗末でございました。…私も当記事を綴った責任を果たすべく、もう少し深く考えてみようと思っている次第であります。

 

 追伸;なぜ当記事を小説家・松村友視のエッセイ風(本当にそうなっているかどうかは読者判断)に綴りたかったかというと、現在進行中で読んでいる本が村松友視著『老人のライセンス』であり、その文体が私好みだったので、つい真似事をしたかったのであります。だから、次回の記事は本書に関する内容にしたいと目論んでいますので、乞うご期待…。

介護の本質とは…~三好春樹著『介護のススメ!―希望と創造の老人ケア入門―』から学ぶ~

 先日、介護福祉士の資格をもつ方による「介護のこころ」と題する講演をたまたま聴く機会を得た。約2時間の講演だったが、認知症の高齢者を介護した豊富な経験談をリアルに再現するような巧みな話術に引き込まれている内に、あっという間に時間が過ぎた。笑いを誘いながらも、認知症の高齢者の実態に応じた介護の在り方について熱く語ってくれたので、私は次第に思考を深めていった。改めて介護の本質について追究してみたい気持ちがより高まってきた。

 

 そんなこともあって、私は前回の記事で予告した理学療養士で「生活とリハビリ研究所」所長の三好春樹氏の著書を、最近読んだ。ちくまプリマー新書の『介護のススメ!―希望と創造の老人ケア入門―』である。ちくまプリマー新書は、プリマー(primer)が「初歩読本、入門書」を意味する通り、筑摩書房ヤングアダルトを対象として出版した新書。どの本も各テーマに即した内容のポイントを要領よく整理して、大変分かりやすく表現されている。本書は、特にその特徴が表れていた。私は数日間で読了し、著者の介護論のポイントを知ることができた。そして、私なりに介護の本質をつかむことができた。

 

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 そこで今回は、本書の中で特に私が共感した内容の概要をまとめつつ、私なりにつかんだ介護の本質について綴ってみようと思う。

 

 学生運動にかかわったことで卒業寸前に退学処分を受け、高校中退という学歴になった著者の三好氏は、数々の職業を転々としたと言う。そして、24歳の時に偶然、介護の世界に入ったそうである。勤務先は、交通の便が悪い場所にあった特別養護老人ホーム(以下、特養ホーム)。当時、特養ホームは入所者が「もう一度生きていこう」という気持ちを起こすような介護が行われていなかったので「姥捨山」と呼ばれていたそうだが、著者が働くことになった施設は入所してくる老人が元気になっていく。その理由は「老人が嫌がることをしない」という介護だと、著者は次第に気付いていく。介護者たちは「老人が嫌がることをしない」ために、例えば入浴を嫌がる老人の心理への「想像力」や老人の世界に沿うような演技力を含めた「創造力」を駆使して、様々な創意工夫をしていたのである。このことが、介護の仕事を楽しくし、よりよい介護をつくり出していたのである。私は、著者が気付いたこのシンプルな介護論に強く共感するとともに、ここにこそ介護の本質があると確信した。

 

 また、著者は医療やリハビリが「人体」に関わる仕事なのに対して、介護は「人生」に関わる仕事だと言っている。つまり、介護という仕事は「こんな体になったけど生きていてよかった」と思えるような体験をしてもらうことなのである。だから、介護が目指すべき方向は、医療やリハビリの評価軸である「専門的」「科学的」「客観的」という方向でいいとは言えない。むしろ「自発的」「主体的」「個性的」「個別的」という評価軸を大切にしていく方向こそ求められる。また、これからは医療やリハビリという「人体」に関わる仕事も同様な方向が必要とされるのである。私は、著者の介護という仕事に対する考え方について知り、大きく頷いていた。介護のみならず医療やリハビリの分野でも、利用者や患者たちの実存性をもっともっと大切にしてほしいと強く願っている。

 

 さらに、著者は認知症の人たちに対しても、「見当識障がい」や「記憶障がい」がありながら、その人らしく暮らしていくこと、生きていくことを支えるのが介護の仕事だと語っている。そして、そのような介護ができるには、まず介護者が興味をもつのは脳ではなく、その脳が作り上げている世界の方だと言い切っている。言い換えれば、介護者は「見当識障がい」をあってはならない異常と見るのではなく、「見当識障がい」の中身=「見当識変化」に興味をもつことが大事なのである。著者は、認知症の定義を「老化に伴う人間的変化」ととらえている。つまり、原因が何かはひとまず置いておいて、脳が作る世界で起こっていることを現象として見るという現象学的定義を採用している。私は、この認知症の定義について大いに共感するとともに、教育現場における子どもたちの問題行動に対する姿勢と共通するなあと共鳴した。

 

 最後に、著者は介護という仕事の魅力「3K」について語っている。その一つは、「感動」。入所してずっと無表情だったお婆さんが初めて笑った。食べなかった人が、自分の手でスプーンを口に運んだ。もう一回この体で生きていこうという気持ちになったのである。それに立ち会えたし、自分がそのきっかけになっているかもしれないのだから「感動」である。二つ目は、「健康」。食事、排泄、入浴の仕方について老人主体のやり方をすれば、介護で腰を痛めることはなく、より体を動かすから運動量は多い。高い入会金を払ってスポーツクラブに通ってトレーニングする必要はなく、「健康」の保持増進を図ることができる。三つ目は、「工夫」。介護は人の「人生」に関わる仕事。利用者たちは一人一人みんな個性的だから、単にマニュアルに頼るのではなく創意工夫が大切になる。だから、介護はやればやるほど、自分の「想像力」と「創造力」を豊かに駆使して「工夫」をしていく仕事なのである。私は、介護という仕事を誤解していた。今まではどちらかと言えば、別の意味の「3K」である「きつい」「汚い」「危険」な仕事ではないかと思っていた。しかし、本書を読んで著者の介護職に関するとらえ方を具体的に知るに至り、その認識は再構成された。

 

 読者の方々も、介護の本質を知れば知るほど、介護の世界は魅力に満ちたものになるのではないだろうか。また、在宅介護でご苦労をして疲れ切っている方々も、本書を読めば追い詰められている心が少しは軽くなるのではないだろうか。実際に在宅介護の過酷さや大変さを体験していない私が言っても説得力はないが、著者のように長年にわたって介護現場で体験を積み重ねてきた方の生きた言葉は、きっと一人一人の心に届くと信じている。