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「人生・生き方」「教育・子育て」「健康・スポーツ」などについて考え、雑学的な知識を参考にしながらエッセイ風に綴るblogです。

1年振りに孫Hを「こどもの城」に連れて行った日を振り返って~孫Hの近況報告も兼ねて~

 先週の土曜日に1年振りに、孫Hを連れて当市の郊外にある「こどもの城」という施設を訪れた。前回、乗ることができなかった園内の池を利用したボート乗り場に行って、あひるのボートに乗せてやりたいと思ったのが、その目的の一つであった。だから、私たちじじばばとHの3人は、まず駐車場からまっすぐボート乗り場へ向う坂道を歩いた。ところが、何とその道路端に「カマキリ」がのそのそと歩いていたのである。そのカマキリを見つけたHは、飛び上がらんばかりの大喜び。「Hはカマキリ先生になる。」と言いながら、怖がりもせずカマキリの胸の後ろ側をそっと掴んで、顔や足などをじっくりと観察し始めたのである。

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 「Hくん、今日は虫取りに来たのじゃないから、ボートに乗りに行こう。」と、ばあばが声を掛けても、Hはカマキリに夢中の様子。道路に下ろしたカマキリが、自分の靴を登ってズボンを這い上がって来るのを見て楽しんだり、カマキリとにらめっこして愛おしそうに触ったりしている。私は、「しばらくカマキリと遊ぶ時間ぐらい待ってやろうよ。」と、ばあばに語り掛けた。ばあばはやや不満そうであったが、私の言葉に従ってくれた。でも、Hはしばらくどころか、ますますカマキリに夢中になっていった。それで、私から「カマキリが気になるなら、このビニル袋に入れて一緒にボートに乗ろうよ。」と提案すると、Hは「それなら、いいよ。」と言って、私が差し出したビニル袋の口を広げて捕まえたカマキリを入れたので、一応、最初の「カマキリ騒動」は収まったのである。

 

 その後、ボート乗り場ではアヒルではなくクジラのボートに3人で乗り、じじばばが漕ぎ手、Hは運転手になって水面を蛇行しながら走って遊んだ。しかし、Hは思ったほどは喜ばず、しばらくすると「もう降りる。」と言い始めたので、私たちは船着き場へ戻ることにした。ボートから降りたHは木製の階段をさっさと上り、ボート乗り場へ来る途中に設置してあったゴジラの乗り物へと一目散に向かっていった。「これに乗りたかったんだね。」と私たちはお互いの目を合わせて肯いた。Hは、ゴジラの乗り物の中のボタンを押して画面に出てくる怪獣を何度も見て喜んでいた。しかも2回も乗った。

 

 正午も近づきお腹が空いてきたので、3人でばあば自作のお弁当をベンチで頬張った。Hはおにぎりを少し食べてから、鳥の唐揚げや卵焼き、ウインナーソーセージなどを美味しそうに食べていた。食事中もHはビニル袋に入れていたカマキリをしきりに気にしながら、「カマキリもお腹空かないのかなあ。」などと呟いていた。食後は、近くの通路に落ちていたどんぐりを拾ったり、グランド端の草地でバッタやカマキリ探しをしたりして遊んだ。その時、少し離れたところにいたばあばが、「そろそろ、てんとう虫のモノレールに乗りに行こうよ。」と優しく声を掛けてくれたので、Hは素直に「行く。」と言って、ばあばの方へ走り出していった。

 

 てんとう虫のモノレールに乗るのも今回の目的の一つだったので、私たちは乗り場への距離が一番近い遊歩道を利用することにした。遊歩道は急な坂と土の地面が続いていたが、Hは歩くのを嫌がりもせず頑張って登った。私たちはHの体力がこの1年間で大きく高まったことに驚くとともに、その確かな成長を心から喜んだ。ついこの間までは、少し歩かせるとすぐに抱っこをせがんでいたのに…。そうこうするうちに、やっと目的地の乗り場に着いた。すこし汗ばむほどになったので、私はHにアイスクリームを買ってやった。Hがそれを食べている間に、ばあばが乗り物チケットを買ってくれた。モノレール乗り場のルールは幼児の場合、保護者が一緒に乗ることになっているので、私はHと一緒に赤色のてんとう虫モノレールに乗った。

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 発車してすぐ車体が斜め下に傾き、ゆっくり降下し始めた。私はその視界にちょっとビビってしまったので、「Hくん、怖くない?」と問うてみると、「全然怖くないよ。」との返答。私がHの身体を包むようにしていたからかも知れないが、何事にも怖がり屋だった幼い頃とは大違い。また、Hは登って来るモノレールの人たちに向けて「おーい。」と手を振る余裕を見せながら、周りの秋の紅葉や小鳥のさえずりを楽しんでいるようだった。ここでも私はHの逞しい成長ぶりを実感した。ところで、昼食後からてんとう虫モノレールの到着場に着くまでの間、カマキリを入れていたビニル袋は、私が背負っているリックサックに付いている輪に結んでいたが、カマキリは何とか無事でいてくれた。

 

 てんとう虫モノレールの車体を降りた後、Hは「ふあふあドーム」で跳んだり転がったり、児童館の「空の塔」に登ったり、「エスカルゴスライダー」を滑り降りたりして遊んだ。時計の針が15時を示す頃になったので、名残惜しみながら私たち3人は「こどもの城」を後にした。帰りの車内で、ばあばが「Hくん、帰ったらカマキリは逃がしてやる?」と問うと、「そうだね、今までも捕まえたセミやトンボは逃がしてやったから、そうする。」と素直に答えていた。ところが、帰宅後にこのことに絡んで第二の「カマキリ騒動」が起こったのである。

 

 帰宅後、自宅近くにある民営バスの置き場入口で、捕まえたカマキリを逃がしてやることになった。私はトイレに行くためにすぐ車を降りて家の中に飛び込んだので、Hとばあばがカマキリを逃がすことになった。私が用を足してカマキリを逃がそうとしていた場所に着くと、ばあばが「まだ逃がしていないので、一緒に逃がしてやって。」と言って家に帰ったので、Hと一緒に逃がすことにした。しかし、Hはなかなかカマキリを逃がしてやる踏ん切りがつかなかったので、私は「じゃあ、家に置いてあるプラステック製の虫かごに入れて少し置いておけば…。」と提案した。Hはほっとしたような申し訳なさそうな表情になり、カマキリを虫かごにそっと入れてやった。

 

 その後、家の中に入り、恒例のスポーツ育能マットで遊ぶことになり、私はHと一緒に楽しもうと思っていたが、Hの方は逃がすことができなかったカマキリのことが気になり心ここにあらずの状態だったので、いつものように二人で協力してバイキンマンチームに勝つことができなかった。すると、Hは自分が上手くできなかったことに腹を立てて拗ねるようにしてピアノ室に逃げ込んでしまった。そして、その拗ねた気分がなかなか収まらずに、何かの拍子に応接室へ出入りするドアを強く締めたためにドア止めを壊してしまったのである。ドアのガラスの部分を強く押したので、Hは危うく大怪我をするところであった。そのことに本人もバツが悪かったのか、さらに2階にあるクローゼットの中に入り込み、拗ねたような態度を取り続けていた。

 

 私は、Hが大怪我するかもしれない乱暴な態度を取ったり、そのことで反省もしないで拗ねた態度を取り続けたことに業を煮やし、Hが生まれて以来初めて厳しく叱ってしまった。Hは私に強く叱られたのは初めてだったので、大声で泣いた。その時、私は「自分が悪いことをしてしまったら、拗ねたりせずに反省しなさい。」と至極常識的な言葉を発していた。ちょうどその時に、Hの母親(私の長女)が迎えに来たので、Hはその日は宥められながら帰って行った。私は心の中に何かわだかまりが残ったような心境に陥ってしまった。

 

 私はHの多少の我がままを受け入れ、自分が反省するのをじっくりと待つような接し方を今までしてきたが、今回は初めて強く叱るという対応をした。自他の生命や身体に危険を及ぼしたり、相手の人格や人権を傷つけたりする恐れのある言動については、厳しく指導することは、教職に就いていた頃の鉄則だったので、ついその時のような対応を取ってしまったが、本当にそれでHにとってよかったのかとその夜は悩んでしまった。しかし、次の日にHが我が家を訪れた時に、長女が上手に諭してくれたのだろう、「じいじ、ばあば、昨日はごめんね。」と謝ってくれた。私はほっと胸をなで下ろし、「いいよ。でも、これからもHがもし危ないことをしようとしたら、昨日のようにじいじは叱るよ。」と言うと、Hは「はい。」とはっきりと返事をしてくれた。私は素直ないい子に育ってくれていることが、この上なく嬉しかった。

小説家で戯曲家でもある「柳美里」という人間について~柳美里著『南相馬メドレー』を読んで~

 今の勤務場所に近い市立中央図書館が数か月ぶりに再開したので、私は昼休みの時間を利用して自転車を走らせた。そして、仕事に関連した『イラストでわかる特別支援教育サポート辞典―「子どもの困った」に対応する99の事例―』(笹森洋樹編著)と、趣味に関連した『てらこや青義堂』(今村翔吾著)『南相馬メドレー』(柳美里著)の3冊を借りた。その中の『南相馬メたドレー』をここ1週間ほどで読み継ぎ、今朝方やっと寝床の中で「あとがき」を読み終えた。

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    その「あとがき」の中には、小さい頃からよく迷子になる著者が、つい先日も迷子になったという逸話が書かれていて興味をもった。というのは、その内容から私は、最近研修して知った心理検査でアセスメントすることができる認知スタイルのことを思い浮かべたのである。そして、おそらく著者の認知スタイルは、「同時処理」(まず全体を把握してから,細部を認識していくことが得意)タイプではなく、「継次処理」(ひとつずつ物事を順番に考え,処理を行っていくことが得意)タイプなのだと思った。この「継次処理」タイプというのは言葉による論理的思考を得意とするから、著者は小説家で戯曲家という職業に適性があった。その意味で自分の特性に合った職業選択ができたことは、不幸だらけの著者にとっては僥倖であったと思った。

 

 さて、今回はその著者が神奈川県鎌倉市から福島県南相馬市に引っ越したばかりの頃から執筆し、月刊誌『第三文明』に連載された「南相馬メドレー」(2015年12月号~2020年2月号)というエッセイに加筆・修正したという本書を取り上げて、その中で私の心に印象深く残った内容の一部を紹介しながら、簡単な所感を付け加えてみようと思う。

 

 まず、<南相馬に転居した理由>という文章において印象深く心に残った内容は、まさにその理由である。著者は、「南相馬ひばりエフエム」で「ふたりとひとり」という30分番組のパーソナリティを2012年3月16日の放送から毎週務めていて、おそらく1年後には閉局されるだろうという見通しだったので、「閉局まで続けます」と約束したらしい。ところが、意に反して番組は2年を過ぎても続いたために、交通費や宿泊費を工面するのが苦しくなり、約束を果たすためには南相馬に転居するしかないと考えるようになったとのこと。また、放送を通じて出会った地元の方々と親しくなり、家族ぐるみのつき合いをするようになったり、南相馬の方々と暮らしを共にしなければその苦楽を知ることはできないと思うようになったりしたことも大きかったと書かれている。さらに、朝鮮戦争時に難民として日本へ密入国した祖父が、かつてここの原町でパチンコ屋を営んでいたという縁も後押ししたという。私はこれらの転居の理由を知り、著者の人間としての律義さと情の深さのようなものを強く感じた。

 

 次に、<最後の避難所>という文章では、南相馬市小高区の駅通りに2018年4月にオープンした「フルハウス」(「大入り満員」という意味で、著者が初めて出版した小説本のタイトル)という本屋の1か月後の様子が綴られており、そこには著者の本への思いが滲み出ている。著者は、現実の中にはどこにも居場所がなかった子ども時代、本にしがみついて、言い換えれば本の中の登場人物と手に手を取り合って生きてきたという。だから、「この世に誰一人味方がいなくても、本があれば孤独ではない」と信じている。ここ南相馬小高区は、東京電力福島第一原子力発電所から16㎞地点で、原発事故によって「警戒区域」に指定された場所であり、原発事故前に13,000人ほどいた住民は現在2,400人ほどしか帰還していない場所なのである。著者は、そのような場所に本屋を開店した。「現実の中に身の置き場がなく、悲しみや苦しみで窒息しそうな人にとって、本はこの世に残された最後の避難所なのです。」という一文は、本と共に生き抜いてきた著者の人間としての共感力の強さが表れていると私は思った。

 

 最後に、<「転」の連なり>という文章では、51歳になった著者が「50歳以降は起承転結の結を仕上げるのだ」と考えていたのに、東日本大震災原発事故が起きて、南相馬に転居したから実際はそうはいかなかった現実について綴っている。著者が臨時災害放送局で「被災者」の切迫した苦痛の声を聴き続けたために、自分の作品世界の完成を第一に考えることができなくなってしまったのである。このことを通して、著者は「自分というのは確固とした不変の存在ではなく、他者との出会いによって流動するものだと気付いた」のである。つまり、今を生きるということは「結」という終点がある道程ではなく、延々と他者に巻き込まれて、他者を巻き込んでいく「転」の連続であるということに気付いたのだ。私は67歳の今でもどこかで自分の人生の「結」に向かって生きているような意識をもっていたと思う。しかし、著者は、人間はそのような実体的・固定的な存在ではなく、常に関係的・生成的な存在なのだという実感を51歳という年齢で気付いており、私は著者の人間として大きさに対してある種の羨望にも似た感想を抱いてしまった。

時代小説の新たな地平を拓く青山作品の魅力について…~青山文平著『遠縁の女』を読んで~

 私の睡眠時間は、平均すると約5時間である。日によって多少時間のずれはあるが、午後11時頃に入眠して午前4時頃には目が覚める。目が覚めた後は何をしているかというと、枕元に置いている電気スタンドのスイッチを押して点灯し、寝る前に読んでいた本の続きを読むことが多い。でも、しばらくすると目が疲れてくるので、また目をつむってうとうとする。意識は覚醒しているように思うが、時々は夢を見ていることもある。私はこの浅い睡眠状態が結構気に入っているので、そのままでずっと寝床にいたいと思う。しかし、午前7時前になると必ずトイレに行き、その後起床するというルーティンを守っている。週5日のフルタイムの仕事をしているからである。

 

 以前の記事にも書いたが、1日フルタイムの勤務をすると、帰宅してからじっとりと読書をしたり落ち着いてブログの記事を書いたりする時間に余裕がない。だから、月曜日から金曜日までは就寝前後のわずかの時間に読書をしたり、土曜日か日曜日にブログの記事を書いたりしている。ただし、今回の記事は、前の土曜日に昼間は妻とショッピングをし、夜は私の満67歳の誕生日の前祝ということで1年振りに妻と「焼肉」の外食をし、また、昨日の日曜日の昼間は通勤用自転車のサドルを買い替えに行ったり、その自転車で普段なかなか行くことができない市内の古書店回りをしたり、夕方になってからは自宅前の小さな庭に植えている樹木等の剪定作業をしたりしたので、日曜日から月曜日に掛けて綴っているという仕儀なのである。

 

 さて、ここ最近の私の寝床の友は、昼間のストレスを解消するために選んだ『冷たい檻』や『痣』という井岡瞬氏の警察小説であった。私好みのヒューマンなハードボイルドであったりノワールな犯罪ミステリーであったりしたので、十分に堪能して心身のリフレッシュを図ることができた。私は「何を読もうかな」と思案しながら、自宅の本棚にある積読本から次に読む本を探していた。「そうだ、以前に市立中央図書館から借りた単行本を読んで面白かったので、文庫本になった時に購入したまま積読状態にしてあった時代小説があったはず。」と何気なく呟いて手に取ったのが、『遠縁の女』(青山文平著)である。

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 青山文平氏直木賞受賞作家であり、2019年12月10日付けの当ブログの記事「“名前”に込められたアイデンティティーや実存性の大切さについて」において取り上げた『半席』の著者である。私は今までに『半席』以外にも、『白樫の樹の下で』『鬼はもとより』『つまをめとらば』『約定』『伊賀の残光』『励み場』『かけおちる』『跳ぶ男』等という青山氏の著作群を読んできた。その結果、藤沢周平乙川優三郎葉室麟・今村翔吾という私好みの時代小説家たちの仲間に、青山氏も最近入ってきた。それほど青山作品に魅入られているのである。

 

 そこで今回は、『遠縁の女』の表題作を取り上げながら、時代小説に新たな地平を拓く青山作品の魅力について綴ってみたいと思う。

 

 江戸開幕から約二百年が経った寛政の世に、徒士頭の父からの勧めで浮世離れした武者修行に出た片倉隆明は、最初の腹積もりは2年間であったが、己の脆いかな字の剣を葬るために百姓たちが駆け巡る野の稽古場で修行に励むうちに5年の歳月を費やしてしまう。そのような中、その野の稽古場で沢村松之助という若い武家と運命的な出会いをし、生死を賭けて木刀を使った仕合をすることを決意することになる。ところが、様々な配慮から仕合う場所を別の土地で行うことになり、その路銀を得るために父からの為替を受け取りに城下の飛脚問屋を訪れると、何と叔父からの便りで父の急逝を知り、急きょ帰国することになった。5年振りの帰国をした隆明を待っていたのは、遠縁に当たる右筆の市川政孝の娘、信江の仕掛ける謎の罠であった。その謎とは何か…。それはぜひ本書を読んでのお楽しみということにしたい。

 

 この表題作「遠縁の女」もそうなのだが、青山作品の多くはその時代背景が江戸時代といっても軍事ではなく行政が必要とされる寛政の世であることに、私は注目している。この時代の幕藩体制は、武力を司る番方ではなく官吏たる役方、とりわけ財政を担う勘定所と監察を司る目付筋こそが組織を支える柱になっているのである。また、商人が台頭し町人文化が花開くのとは裏腹に、武家は確固たる居場所がないこの時代に、武家はどのような生き方をすればよいのか。青山作品の多くは、このような閉塞した武家社会を生きる人間の姿を鮮やかに描き切るのである。それが、今までの時代小説とは違う新たな地平を拓くのである。

 

 このような青山作品の中に描かれる登場人物たちの生き方に、現代社会に生きる私たちの実存性や関係性との類似性を見出し、つい私は自分の日々の生き方について反省的に考え込んでしまう。いかに生き、いかに死んでいくのかという死生観に関する深い思考の穴に私を引き込んでいく青山作品を、これからも味わうことができる幸せを感じている。

障害者に対する差別や偏見を助長する「世間」の変化とは…~佐藤直樹著『目くじら社会の人間関係』から学ぶ~

 先月22日(水)の地元の新聞紙に<児童に「生きる価値なし」 特別支援学級教諭を免職>という見出しの記事が掲載された。その記事によると、兵庫県姫原市立のある小学校教諭(39歳の男性)が、2018年~2021年6月の間に、かばんをしまわないなどした4年生男児に「生きる価値なし。死ぬしかない。早く転校しろ。」と発言したり、給食の準備に手間取った1年生男児に「おまえは必要ない。人間、必要ないと言われたらおしまいやな。」などと言ったり、この他、複数の児童を床に押し付けたり、プールの授業中に泣いている児童を無理やり水に押しつけたりしたという。そして、その事実を受けて、兵庫県教育委員会は同教諭を今年の9月21日付けで懲戒免職処分にしたというのである。何らかの障害をもつ子どもたちに対してあまりに理不尽な言動を繰り返しているのだから、本処分は当然のことだと思う。それにしても「なぜ?」と強い憤りを込めて問い質したくなる。

 

    続いて同月25日(土)には、<神奈川県立の入所施設 障害者ほぼ終日閉じ込め>という見出しの記事が掲載された。その記事によると、神奈川県立の知的障害者施設「中井やまゆり園」で、一部の入所者を1日20時間以上、外側から施錠した個室に閉じ込める対応が常態化していることが、共同通信の入手した園の内部資料で分かり、職員からは「実質的な虐待だ」との声が出ているという。県の有識者会議は今年3月にまとめた報告書で「園を指導する県自身が権利擁護に対する認識が低かった。」としていた。また、同園の職員は「障害者を人として扱わない県の体質が事件の背景にあったのに、変わっていない。」と話したという。2016年に「津久井やまゆり園」で起きた殺傷事件の教訓が全く生かされていない実態に、私は唖然とするとともに悲しい気持ちに覆われた。「どうして?」こんなことが繰り返されるだろうか。

 

    このような障害者に対する偏見や差別を生む原因や背景について、私なりに考えていた時に「目から鱗」のような指摘をしている本を見つけた。それが、『目くじら社会の人間関係』(佐藤直樹著)である。著者の佐藤氏の略歴については、当ブログの2019年9月16日付けの記事<「世間」との関係における「妬み」の構造について考える~『暴走する「世間」で生きのびるためのお作法』を参考に~>において詳しく記しておいたので重複は避けるが、彼は「日本世間学会」設立時の初代代表幹事で、刑事法学・現象学・世間学を専門とする元九州工業大学教授である。本書は、近年話題となった事件や社会的事象を解析することを通して、日本にしかない「世間」によって多くの日本国民がちょっとした出来事に対してすぐに「目くじら」を立てるようになった経緯や構造等について解説している。その中に「津久井やまゆり園」で起きた殺傷事件についての解析も含まれていて、私はその解説内容が肚にストンと落ちたのである。

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 そこで今回は、障害者に対する偏見や差別を助長する原因や背景について、本書から学んだことをなるべく簡潔にまとめ、私なりの所感を付け加えてみたい。

 

 著者は、現在のような障害者に対する偏見や差別を助長する原因や背景には、日本にしかない「世間」の変化があると指摘している。この「世間」の変化に関する著者の解説を要約すると、次のようになる。…日本においては明治時代になって西欧から「社会」という人的関係を輸入したが、現実的には定着することがなく、「贈与・互酬の関係」「身分制」「共通の時間意識」「呪術性」という四つのルールをもつ「世間」という千年以上も歴史がある人的関係が未だに存続している。また、これらのルールは法律とは明白に異なるが、それに匹敵するチカラを持って同調圧力として作動する現状がある。特に近代以降の「世間」は、江戸時代までの負荷性・抑圧性を帯びてない「やさしい世間」から、それらを強く帯びた「きびしい世間」へと再構成した。そして、1990年代末以降の後期近代に入ってから、この「きびしい世間」の様相がさらに新たな段階を迎えていると…

 

 では、このような「世間」の変化と、障害者に対する偏見や差別を助長する心理的・社会的事象との関連は、どのようになっているのであろうか。

 

    著者は言う。もともと「世間」には「共通の時間意識」というルールがあるために、「みんな同じ(同質)」であることを要求される。それ故、健常者と異なり障害者は、異質な者とみなされるのである。また「世間」にはウチ/ソト(ヨソ)の厳格な区別があり、障害者は異質な「ヨソ者」として「世間」のソトに排除されるとともに、「世間」のウチ側では障害者に対する偏見や差別が生まれるという構造がある。つまり、日本だけにしかない「世間」というものは、「排除の構造」を内包する人的関係なのである。

 

 その上に、1990年代末以降の、グローバル化に伴う新自由主義の浸透と拡大は、職場への成果主義の導入に代表されるように、人々が「強い個人」になることを要求するようになった。ここでは、働けない者や生産できない者は社会的に無価値だとする考えが広まっていく。その結果、障害者や高齢者など、社会の役に立たない「社会の敵」「国家の敵」に対する排除の空気が強まっていったのである。また、このような後期近代への突入に伴って、海外では人種的・民族的・宗教的対立と排除の形をとって生じている「再埋め込み」(この概念については、社会学アンソニー・ギデンズの「埋め込み」「脱埋め込み」「再埋め込み」という議論の中で取り上げられているが、その解説は長くなるのでここでは省略する。詳しく知りたい方は、ギデンズ著『近代とはいかなる時代か?モダニティの帰結』1993年、而立書房か本書を参照されたし。)が、日本では「世間」への「再埋め込み」として生じている。先にも述べたように「世間」は差別が的本質を持つので、これが一種のヘイト・クライムとして、心身障害者に対する偏見や差別の形をとったと考えられる。

 

 では、「世間」の中に生きている私たち日本人は、このような「きびしい世間」に対してどのような対抗策を講じればよいのだろうか。

 

 著者は、この問いに対して本書の「おわりに-「やさしい世間」の復権に向けて」の中で、<生き心地がよく、風通しのよい「やさしい世間」の復権>が喫緊の課題だと述べ、そのために一人一人ができることを箇条書きにまとめ、次のように示している。

① 「いろんな人がいてもよい」と考える。「みんな同じ」とは考えず、個人を生かすということである。(「共通の時間意識」)

② 「なんであいつだけが」と考えない。他人との身分差を妬まずに、「他人は他人。自分は自分。」と考えるということである。(「身分制」)

③ 「つき合い残業」をやめよう。職場で「共感過剰シンドローム」に陥って、過労死しないようにということである。(「共通の時間意識」)

④ 「お返し」はほどほどに。お中元・お歳暮、香典返し、返信メールなど、お互いに過剰な心理的負担にならないようにということである。(「贈与・互酬の関係」)

⑤ あまり「聖地」とか「前世」とか「パワースポット」にこだわらない。こだわらなくなるとも、不幸になったり、世の終わりが来たりはしないということである。(「呪術性」)

⑥ 「いえ」意識にとらわれない。「いえ」は差別の根源であるし、子どもに対する「親の責任」をあまり過剰に考えるなということである。(「共通の時間意識」)

 

 これらの内容を見て、私はこの3か月間ほど特別支援教育指導員の教育相談業務を行う中で、未だに「特別支援学級」や「特別支援学校」に対する負のイメージをもつ人が多い現実を知り、特別支援教育をよりよく推進していく上でも日本人にはぜひ求められる事項だと痛感した。私自身の今までの生き方についての反省も込めて…。

約3か月振りに馴染みの喫茶店へ出掛けました!~「まん延防止等重点措置」の解除を受けて~

 10月になり、全国的に「緊急事態宣言」と「まん延防止等重点措置」が全面解除になった。本県もしばらく継続されていた「まん延防止等重点措置」が解除になり、我が家でも今まで継続していた外食自粛を解禁することにした。まずは、2日(土)の午前中、約3か月間も行っていなかった馴染みの喫茶店へ、妻と共に遅い朝食をとるために出掛けた。もちろん出発前には不織布のマスクを正しく着けることは忘れず、さらに店内に入るとすぐに手指消毒を徹底して行った。店内は、池の中を悠々と泳ぐ大小の金魚を描いたちぎり絵の作品群が飾っている壁面、秋の草花を活けている華やかな花瓶を整然と並べている出窓棚、優雅なメロディーラインのクラシック曲が静かに流れるBGMなど、相変わらず居心地のよい雰囲気。私は安らぎに似た気分に知らぬ間に浸ることができた。

 

    中年の主婦らしき店員が水の入ったグラスを持って注文を聞きに来ると、妻は迷うことなくモーニング・サービスの「おにぎりセット」を2つ頼んだ。久し振りなので、家を出る前に二人で何を注文するか相談して決めていたのである。しばらくすると、まず漆塗りのお椀に入った当店自慢の味噌汁2椀と二人分のスプーンや箸等の入った四角い網籠を、先ほどの店員が運んできた。そして、適度な大きさのわかめや玉葱、豆腐の入った薄味の味噌汁を一口二口ほど啜っていたら、次の写真のような「おにぎりセット」が運ばれてきた。

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 私たちは早速、ドレッシングのかかった野菜サラダから口に入れた。食事中の血糖値が急に上がらないように、私たちは野菜のサラダや酢の物等から先に食べる習慣を身に付けているからである。トマトやきゅうり、キャベツ、玉葱がとても新鮮だった。職場で私が昼食として注文する市営食堂の弁当に入っている萎びかけのキャベツの千切りとは、大違い!

 

 次に口にしたのは、茄子と厚揚げ、インゲン豆が入った煮物。出汁がしっかりと染みた具材は、やはり薄味だったので、これも身体に優しいものだ。私は煮物と交互に味噌汁も味わおうと思った。その時、ふと小さい頃に味噌汁の中にゆで卵の黄身を崩して啜っていたことを思い出した。実際にゆで卵の殻を丁寧に剥がし、白味の部分だけ先に食べ、黄身の部分を味噌汁に入れて潰しながら啜ってみると、本当に懐かしい味がするとともに、当時の貧しい日常的な風景まで脳裏に蘇ってきて、鼻の奥がつんとした。私は味覚と記憶との関連は結構深いのだなあと、暫し複雑な感慨に耽ってしまった。

 

 私は、煮物と味噌汁を交互に口に入れつつ、その合間に雑穀米のおにぎりも頬張ってみた。海苔と雑穀米が混ざった素朴な味が口の中に広がり、これまた身体が喜んでいるような感じがした。でんぷん質とたんぱく質が主な栄養素である白米に比べて、雑穀はミネラル類、食物繊維のほか、抗酸化作用によって生活習慣病などを抑制するといわれるポリフェノールが豊富である。だから、白米に交ぜて炊くだけで、同じ量なら低カロリーになり、食物繊維やミネラルを手軽に補給することができる。できれば毎日食べると、その健康効果が上がるが、今のところ我が家ではたまに雑穀米を食べるぐらいの食習慣しかない。でも、この喫茶店で「おにぎりセット」を注文する時には、必ず白米ではなく雑穀米のおにぎりにするようにしているのである。

 

 さて、主食や副食を平らげた私は、デザートに手を付けた。半切れの温州ミカンの皮を丁寧に剥がして二口で食べてしまった後、ヨーグルトの上に載っていた野イチゴの実のようなものをそっとスプーンで掬って舌の上で味わうと、ちょっと酸っぱい味がした。やはり野イチゴの味がした。次に、私はヨーグルトだけになった小さな器に、皮を剥いだバナナの小片をスプーンで削るようにして落とし、そのスプーンを使って混ぜ合わせた。私は、ヨーグルトに塗したようなバナナの小片を食べるのが好みなのである。一市民のささやかな食のこだわりだが、それが満たされただけでちょっと幸せな気分になる。私は安上がりな男だなあと、多少自虐的な気分も重なり、知らぬ間に素早く呑み込んでしまった。

 

 私たちが「おにぎりセット」をほぼ食べ終わる頃を見計らって、先の店員が当店自慢のブレンドコーヒーを持ってきてくれた。以前の当ブログの記事でもこの喫茶店ブレンドコーヒーの味を紹介したことがあるが、コクのある苦みとささやかな酸味が仲良く同居しているすっきりした味は、これまた私好みなのである。妻は数口で飲み干してしまったが、私は一口一口じっくりと味わうように飲んだ。身体に沁み込ませるように味わいながら飲むのが、私のコーヒーの飲み方である。妻の豪快な飲み方に比べると、女々しい(表記において女を重ねており、この言葉はセクハラ言葉なのか!)飲み方のようだが、小さい頃にひもじい思いをしてきた私にとって、普通に食事ができることがこの上なく幸せなことなので、どうしてもじっくりと味を確かめながら飲食したいのである。ブレンドコーヒーを味わいながら、私は自分を貧乏性な男だなあと、やはり自虐的な気分になっていると、コーヒーカップの底が白一色になってしまっていた。

 

 久し振りに妻と共に馴染みの喫茶店で外食し、「おにぎりセット」の味を堪能しながら複雑な気分も味わったが、この時の気分は私にとって決して悪いものではなかった。過去との懐かしい出会いの機会にもなったし、現在の幸せな環境にある自分を相対化する機会にもなった。やはりたまに外食をすることは、日常的な生活意識を活性化するきっかけになるのだなあと改めて自覚した。これからも、本県独自の最大警戒レベル「感染対策期」から引き下げた「感染警戒期」以下の場合には、新型コロナウイルスの感染防止策を徹底しながら、機会を見つけては妻と共に外食しようと思った今日の心であった。

「障害」を媒介にして人々の関係を変えよう!~伊藤亜紗著『目の見えない人は世界をどう見ているか』から学ぶ~

 前回の記事をアップした後、私は当ブログで以前に「伊藤亜紗」という美学者に関わる内容の記事を綴ったことがあったことを思い出した。それは、「スポーツは見えない?」(2019年3月20日付け)というタイトルで、彼女がNTTと共同して「目の見えない人のスポーツ観戦」というテーマで取り組んでいることを紹介したものである。具体的には、視覚障害者が手ぬぐいを活用することで、対戦者たちの「動きの質感」を再現するように柔道を観戦しようとする取組を取り上げていた。その際は、とても面白い取組だなあという程度の感想しかもてなかったが、最近読んだ『目の見えない人は世界をどう見ているのか』(伊藤亜紗著)は、今まで当たり前だと思っていた世界とは全く違った世界へ私を誘うほどの身体論を提示してくれるものになった。

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 そこで今回は、本書から学んだことを基に、「障害」を媒介にして人々の関係を変えることの意味や意義等について理解した内容の概要をまとめるとともに、それに対する私なりの簡単な所感を付け加えてみたいと思う。

 

 本書は、視覚障害者やその関係者6名に対して著者が行ったインタビュー、ともに行ったワークショップ、さらには日々の何気ないおしゃべりから、晴眼者である著者なりにとらえた「世界の別の顔」の姿をまとめたものである。いわゆる福祉関係の問題を扱ったものではなく、見える人と見えない人の違いを丁寧に確認しようとした身体論の本なのである。具体的には、「空間」「感覚」「運動」「言葉」「ユーモア」という5つのテーマを設定して、見えない人がどのように世界を見ているのかを解明することを通して、「障害」に対して新しい社会的価値を生み出すこと、つまり「障害」を媒介にして人々の関係を変えることを目指しているのである。

 

 本書の中で私を今までとは全く違った世界へ誘ってくれたのは、特に第4章「言葉」で紹介されている「ソーシャル・ビュー」という美術鑑賞の取組と、第5章「ユーモア」で取り上げている見えない人が「不自由」の意味を変える発想法であった。以下、それぞれの内容をまとめてみたい。

 

 まず、「ソーシャル・ビュー」という美術鑑賞の取組について。今まで見えない人の美術鑑賞と言えば、触覚を用いた鑑賞を思い浮かべる人が多いと思うが、この「ソーシャル・ビュー」はそれとは全く異なる方法を工夫した美術鑑賞である。簡単に言うと、見える人と見えない人が混ざり合ったグループの中で、積極的に声を出して仲間とのやりとりをしながら作品を鑑賞するという方法である。ただし、それが決して「見える人による解説」ではないということ。あくまで「みんなが見る」という「ソーシャル」としての経験がそこにはあり、作品という一つのトピックをめぐって、それまで面識がなかった人が集まって対話するのである。

 

 「ソーシャル・ビュー」において見える人の仕事は、「正解」を言うことではない。「見えているもの」、つまり目の前にある作品の大きさ、色、モチーフなどの「客観的な情報」と、「見えていないもの」、つまり個人の思ったこと、印象、思い出した経験などの「主観的な意味」を言葉にすることである。特に「ソーシャル・ビュー」の面白さはこの「見えないもの」、つまり「意味」の部分を共有することにあり、その新しさは結果的に見出すゴールに辿り着くまでのプロセスを共有する点にある。だから、「ソーシャル・ビュー」は、見えない人だけでなく、見える人にとっても「筋書きのないライブ感満載」の美術鑑賞なのである。

 

 「ソーシャル・ビュー」において、見える人が自分の見方を言葉にする理由は、とりもなおさずそこに見えない人がいるからである。不慣れな人にとっては、なかなか難しいことであり、場合によってはプレッシャーに感じる。しかし、その抵抗感を越えて言葉にしてみることで、自分の見方を明確にできるし、他人の見方で見る面白さも開けてくると言う。一人だけの無言の鑑賞とは異なる、より創造的な鑑賞体験の可能性が見出せるのである。つまりここでは、見えないという「障害」が、その場のコミュニケーションを変えたり、人と人の関係を深めたりする「触媒」になっているのである。見えることを基準に考えてしまうと、見えないことはネガティブな「壁」にしかならないが、見えないという特徴を皆で引き受ければ、それは人と人を結び付け、生産的な活動を促すポジティブな要素になり得るのである。

 

 「ソーシャル・ビュー」は、単なる意見交換ではなく、ああでもないこうでもないと行きつ戻りつする共同作業。だからこそ、お互いの違いが生きてくる美術鑑賞になり、「特別視」ではなく、「対等な関係」ですらなく、「揺れ動く関係」を生成していくのである。見えないという「障害」が「見るとは何か」を問い直し、その気付きが人々の関係を揺り動かすのである。福祉とは違う、「面白い」をベースとした「障害」との付き合い方のヒントが、ここにはあるように思うと著者が語っていることに、私は強く共感した。

 

 次に、見えない人が「不自由」の意味を変える発想法について。著者は、難波さんという全盲の方の事例を取り上げている。その事例というのは、難波さんはスパゲティ用のレトルトのソースをまとめ買いするが、そのソースにはいろいろな味があるのに全てのパックが同じ形状をしていることに起因した出来事である。一人暮らしの難波さんがパックの中身を知るには、基本的に開封してみるしかなく、ミートソースで食べたい気分の時に、クリームソースが当たってしまったりする。はたから考えれば、こうした状況は全くネガティブなものである。でも、難波さんはそうとは受け取らず、食べたい味が当たれば当たり、そうでなければハズレととらえ、「くじ引き」や「運試し」のような状況として楽しむのである。

 

 つまり難波さんは、見えないことに由来する自由度の減少=「不自由」を、ハプニングの増大としてポジティブに解釈している。言い換えれば、「情報」の欠如を、だからこそ生まれる「意味」によってひっくり返しているのである。これはまさに視覚障害者がもつ「ユーモア」という武器を使って、社会に無理矢理自分を合わせなければならないプレッシャーをかわしている事例である。そして、このような「障害」を笑うような「ユーモア」は、健常者の心の中にある「善意のバリア」に気付かせてくれる。つまり、障害者による「ユーモア」は健常者との緊張した関係をほぐし、お互いの文化的差異を尊重するコミュニケーションの端緒に私たちを立たせてくれるのである。私は、この事例を知ることによって、自分の中に無意識に存在している「善意のバリア」なるものを取り払うべく、これからでも意識改革していく必要性を痛切に感じた。

 

 最後に、著者は「そもそも障害とは何か」と問い直し、自分の障害観を披露している。その中で、障害学の言葉でいう「個人モデル」から「社会モデル」への転換に触れた箇所で、「個人レベル」でとらえられた障害の概念が背景にある「障がい者」や「障碍者」という表記を、旧来通りの「障害者」と表記してそのネガティブさを社会が自覚するほうが大切ではないかと主張している。さらに、障害を受け止めるアイデアや実践がまだまだ不足していることを指摘し、日本がこれから経験する前代未聞の超高齢化社会を生きるためのヒントを探すためにも、障害を受け止める方法を開発することが必要だとも提言している。現在、曲がりなりにも特別支援教育に関係する仕事をしている前期高齢者の私としては、著者のこのような主張や提言を真摯に受け止めたいと考えている。

「道徳」ではなく「倫理」を中核にした道徳授業について~山口尚著『日本哲学の最前線』から学ぶ~

 職場で新型コロナウイルスの感染拡大防止のために時差出勤が実施されていた時期に、定時より1時間早く出勤する日があった。当然、その日は退庁時刻も早くなるので、私は久し振りに帰宅途中にある大型書店に立ち寄ることにした。2階の文庫や新書等を揃えているコーナーをうろうろと回っている時に、ふとある本に目が留まった。2か月ほど前、地元新聞紙に書評が載っていた『日本哲学の最前線』(山口尚著)という新書である。2010年代に哲学界のポピュラーな領域で頭角を現してきた國分功一郎・青山拓央・千葉雅也・伊藤亜紗・古田徹也・苫野一徳という若き哲学者たちを取り上げており、私は今までにその中の数人の著書を読んで共感することがあったので、著者の山口氏がどのような視座でこれらの哲学者の思想を意味付けているのか興味があったのである。

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 本書を入手してからすでに2週間以上過ぎてしまった。週5日のフルタイム勤務だと体力面・気力面に余裕がもてなくて、私はなかなか読み通すことができなかったのであるが、やっとこのシルバー・ウィークに入って読み終えた。著者は、日本哲学の最前線である「J哲学」(土着と輸入の二分法的な対立を離れ、普遍的な哲学に取り組むこと)の6名の思想を、<自由のための不自由論>という基本視座の文脈で取り上げて意味付けており、一般市民にも分かりやすい表現に心掛けて紹介してくれている。

 

 その中でも特に「第四章 身体のローカル・ルールとコミュニケーションの生成-伊藤亜紗『手の倫理』」の内容は、今、特別支援教育という分野で仕事をしており、今までに体育・スポーツ教育という分野にも関わってきた私にとって多くの知的刺激を受けたものであった。というのは、伊藤が『記憶する体』において、全盲や「中途障害」等の人々がその障害のある身体と向き合う中で、自分の思い通りにならない身体とどうにか付き合っていく個人的なルールについて論じている箇所は、私にとって新たな視座を得るものだったのである。また、著者は伊藤の哲学をできる限り個々の人間を抽象化せず、個別を個別として語った上で、多くの人にとって役立つ何かが結晶化させることを目指す「個別性の哲学」であると呼び、それが進んでいく領域を「他者性の倫理」という独自の<不自由論>として意味付けている点も納得できるものであった。

 

 近著の『手の倫理』の題名にも使用されているが、伊藤の使う「倫理」という語は<決まりきった「正しさ」のない領域において「よい生」を模索すること>を意味していると言う。これは、<小学校の道徳の授業で習うような「〇〇しなさい」という絶対的で普遍的な規則>の領域と特徴づけられた「道徳」と対比される。伊藤は、このような「道徳」ではなく、全体を見通せない限られた視界の中で、迷いつつ自分の考えるベストなものを選ぶという現実的な状況である「倫理」に関心があるのである。この点、私も伊藤と同様なのである。だから、私も個別的な顔をもった個人が自分固有の生き方を作り上げるという、人生の具体相を尊重したいのである。

 

 私は現職時に、徳目を教え込むような「道徳」の授業の在り方について常に疑問をもっていた。だから、日常よく出会う道徳的な価値葛藤の場面を想定して、その状況で子どもたちがどのような行為を選択しようとするのか、その行為を選択するのはどのような理由なのかについて議論するような授業を実践することがあった。そのきっかけになった道徳授業で今でも思い出すのは、地元の国立大学教育学部附属小学校で初めて3年生を受け持った時のある授業場面である。

 

 それは、「親切」という道徳的価値を主題にした授業である。その授業では、バスの座席に座っていた主人公が、重そうな荷物を持つおばあさんがそのバスに乗り込んできた時に、席を譲るかどうかを迷うという内容の資料を活用した。その資料ではバスの中は混雑していて、そのおばあさんが座る席はない状況であることが描写されているだけだった。そこで、私は、子どもたちの実態を踏まえ、主人公は通っているスイミングスクールの帰りだという条件を口頭でその資料に付け加えた。すると、子どもたちから「スイミングでは何m泳いだのか?」「その後、後何駅目で降りるのか?」などの質問が次々と出た。私は「どうしてそんなことが気になるの?」と聞き返すと、「だって、1,000mも泳いだ後なら、席を譲ってあげたくても自分の方が疲れているのでできないけど、それほど泳いでいないのなら、まだ元気なので席を譲ってあげられるから。」とか「自分がすぐに降りるのなら、降りる際に何気なく席を譲れるけど、まだ先の方なら席を譲るのに悩んでしまうから。」とかの反応が返ってきた。

 

 その時、私は3年生の子どもたちにとって困っている人に「親切」にするという「道徳」は身に付いているのだと思った。子どもたちにとって大切なのは、その場の状況に応じてどのような行為を選択することがベストなのかと考えることなのだ。つまり、伊藤の言う「道徳」ではなく、「倫理」の方が子どもたちにとっては切実な問題なのである。私は、そのような授業経験をした頃から、「道徳」の授業の在り方の一つとして、伊藤の言う「倫理」を中核にした授業構想を試みるようになった。そして、その授業実践を振り返ってみると、子どもたちにとっても私にとってもありきたりで退屈な「道徳」の時間ではなく、子どもたちがどのような道徳的行為を選択するかを活発に議論する「倫理」の時間になったように思う。

 

 今回の学習指導要領において設定された「特別の教科 道徳」の授業の在り方を示すキーワードとして、最近「考え、議論する道徳」という言葉を聞くことがある。私は、自分のこのような経験から、これからの道徳授業は伊藤の言う「道徳」ではなく、「倫理」を中核にしていくことが求められているのではないかと考えている。

改めて「ボッチャ」の魅力について語る!~東京パラリンピック2020「ボッチャ」個人の脳性麻痺BC2の決勝戦を振り返りながら~

 先週末、教育相談業務として市内の小規模校を訪問した際に、小学3・4年生の合同体育でパラスポーツの「ボッチャ」に似たゲーム大会をしていた。ジャックボール(目標にする球)や個々のマイボール(投げる球)は、新聞紙を丸めてプラスチックの買い物袋に詰めて外側を色テープで巻きつけた手作りボール。授業の前半、手作りボールを使った多様な動きや、相手の足元を狙って転がす動きに子どもたちは意欲的に挑戦していた。後半になると、体育館を二分して2チーム対抗のゲームを行った。1チーム6人で4チームを編成し、対戦チームを替えて2試合を実施していた。1エンドだけ戦うどの試合も、ゲーム展開は「ボッチャ」らしい状況変化が起きて、参観していた私にとっても結構面白かった。

 

 授業者が体育科の授業に「ボッチャ」というパラスポーツを教材化して取り入れたのは、きっと先日閉幕した東京パラリンピック2020において、日本人選手が活躍した様子をテレビで観てヒントを得たからであろう。私はとてもよい試みだと思った。その理由の一つは、子どもたちの中には知的かつ身体的な面で特別な配慮が必要な子がおり、その子が必要以上にハンディを意識せずに取り組むことができる教材になっているからである。また、「パラスポーツを通じて障害のある人々にとってインクルーシブな社会を創出すること」というパラリンピックの究極の目標を実現する一助になるからであり、それは特別支援教育の目的とも合致するものだからである。実は、私も東京パラリンピックにおける様々な種目の中で一番夢中になって応援したのが、杉村英孝選手が金メダルを獲得した「ボッチャ」個人の脳性麻痺BC2の決勝戦であった。

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 そこで今回は、まず当時(令和3年9月2日付け)の地元新聞社の関連記事を頼りにして、静岡県出身の杉村選手の経歴について簡単に触れ、次に決勝戦の様子を振り返りながら、改めて「ボッチャ」の魅力について綴ってみたいと思う。

 

 「ボッチャ」種目で日本人初の金メダルを獲得した杉村選手が初めてこの種目を知ったのは、試合映像を観た特別支援学校高等部3年の時だったそうである。脳性麻痺は障害の程度に幅があるが、彼は立てず、寝返りも満足に打てないほど重い症状がある。それでもスポーツが好きで「激しい動きが必要ないので気軽に取り組める」と始めたらしい。そして、狙い通りに球を投げられた時の喜びに魅了され、正確無比な投球を追い求めたと言う。その後、精進し続けて2012年のロンドン・パラリンピックに初出場したが、満足できる成績を残すことができなかった。しかし、その反省に基づいて手足に麻痺がある選手として革新的な筋トレに挑戦した。難しい寝返り動作や両腕の上下運動を繰り返して体幹を鍛え、投球時にぶれない体を作った。さらに、握力が弱く指先で球をつまむような握り方で投げる彼は、投球練習の反復で体に動きを覚えさせ、繊細な投球術を磨いたのである。

 

 決勝戦でも、彼のこの投球術が見事に生かされていた。それが象徴的に表れていたのは、4対0で迎えた第4エンドの1投目だった。先攻の彼は4分の持ち時間のうち約1分をかけて最初のボールを投げ、ジャックボールにぴたりと付けたのである。相手のワッチャラポンは序盤からミスが目立ち、この場面では大量得点で逆転するしか勝利する道はなったので、杉村選手の1投目に大いに焦られたと思う。彼の序盤の投球においても、繊細で正確無比な投球術は冴えていた。相手の投げたいコースを邪魔するような位置に正確に投球していた。全てのエンドにおいて、スパーショットを連発した圧勝だった。狙い通りに投球できた後に彼が「雄たけび」を上げた表情をテレビ画面で観て、私は彼の今までの研鑽の日々を想像した。胸の中が熱くなってきて、勝手に涙が頬を流れていた。

 

 私は以前、(公財)県スポーツ振興事業団に勤務していた時に、「ボッチャ」についての研修の中で実際にやったことがあり、なかなか思い通りに投球することができないことを体験していたので、杉村選手がほとんどミスなく投球している様子を観て、本当に感動した。また、「ボッチャ」というゲームは、各エンドで最後の6球目を投げて、相手の球よりジャックボールにいかに多くの球を近づけるかで得点を競うので、その過程で工夫した戦術を立てる思考力も必要である。そして、それを正確な投球術で実行に移せることができた時、大きな喜びを味わうことができる。さらに、このゲームは健常者と障害者が共に参加することもでき、「インクルーシブ」な社会を目指すパラスポーツを象徴する種目でもある。このような「ボッチャ」の魅力を多く人に知ってもらい、生涯スポーツとして取り組む種目の一つにしてほしいと、私は切に願っている。

「居る」を支えるケアラーとしての教師の在り方について考える~村上靖彦著『ケアとは何か―看護・福祉で大事なこと―』から学ぶ~

 9月に入り学校は2学期を迎えたが、本県はまだ「まん延防止等重点措置」の実施が継続している。当面、学校は午前中だけ授業を実施し、給食を食べてから下校という緊急的な対応策を講じている。全国的に従来株より感染力が強力なデルタ株が市中で蔓延し、子どもの感染者も急増している中、学校でのクラスターの発生が心配な状況なのである。ただでさえ2学期当初は残暑が厳しく、熱中症に対しても警戒が必要な時節なので、教師は子どもたちの体調管理に大変気を遣う。その上に新型コロナウイルスの感染拡大を防止するため、学校生活全般、特に各教科等の授業や給食時間において格別の対応が求められているのである。先生方のご苦労が並大抵ではないことは、想像に難くない。

 

 そのような状況下、私たち2名の指導員は、教育相談業務として市内のある小学校の特別支援学級を訪れた。Aは通常学級に在籍していたが1年生の2学期になって集団不適応のために不登校になり、3年生の2学期まで続いた。ところが、3学期から特別支援学級で学習するようになって4年生の現在まで登校できるようになった。本人も保護者も「このまま特別支援学級に在籍したい」という願いがあるらしく、学校からAの学びの場を変更することが適切かどうかを見極めるために教育相談の申請が出されたのである。

 

 Aのいる特別支援学級には、他に5名の子どもたちがいた。2学期が始まってすぐだったので、皆は2学期の「めあて」や「係活動」のカード、9月のカレンダーなどを制作していた。Aは落ち着いた様子で、それらの制作活動に取り組んでいた。途中で情緒不安定な子どもがうろうろと動き回って騒々しくなる場面もあったが、それにはあまり気を囚われることなく、マイペースで活動していた。また、その後に実施された避難訓練の際にも、その目的をしっかり理解して節度ある避難行動が取れていた。私の眼には、Aはこの学級に「居る」ことが居心地よく感じられているように映った。

 

 なぜ、Aはこの学級なら登校できるのだろうか。翌日の母親との教育相談の場で、その理由らしきことが分かった。Aは保育園の頃から、大きな声や怒鳴り声が嫌いであったり、先生から指示された活動にはなかなか取り組めず、マイペースで活動することが多かったりしたそうである。だから、小学校における学級集団の大きさや学校生活のリズムに馴染めず、精神的に不安定な状態に陥り、登校するのが辛くなったのであろう。でも、今の特別支援学級はAを入れて6名の少人数であり、また学校生活のリズムも一人一人のペースをできるだけ保障するようなゆとりがある。このような環境は、あるがままのAの存在を肯定するものだったのである。つまり、この学級はAにとって「居場所」になったのである。

 

 私はこのAの事例を知った時、最近読んだ『ケアとは何か―看護・福祉で大事なこと―』(村上靖彦著)の「第3章 存在を肯定する―「居る」を支えるケア」の内容を思い出した。そこで、今回はその内容の中で私が強く共感した部分を紹介しつつ、「居る」を支えるケアラーとしての教師の在り方についても考えてみようと思う。

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 本書は、「ケアとは何か」という問いについて、著者が対人援助職の語りを聴き、実践の現場を観察する中で学んだことのエッセンスを記したものであり、身体的なケアと心理的なケアの間に境目を設けていないだけでなく、医療と福祉を横断するような目線でケアを考えているところが特徴の一つになっている。また、「コミュニケーション」「願い」「存在の実感」「苦境への応答」「ピアサポート」という章立ては、著者が医療・福祉の現場で学んできたことを整理する中で必然として決まったものであり、本書のもう一つの特徴となっている。さらに、現象学という哲学の方法論に由来する、「患者・当事者・対人援助職の経験における内側の視点からケアを描く」という挑戦的な方針で書かれたものであり、私が今まで取り組んできた教育実践研究のスタイルと共通するものであるので、とても共感的に読み通すことができた本なのである。

 

 特に本書の第3章の内容は、ケアラーとしての教師の在り方について考える視座を与えてくれている。例えば、著者は「居場所」を「周りに気を遣うこともなく、自由にふるまえるような場所であり、何もしないでぼうっとしていてもよいし、喧嘩しても元に戻ることができる環境」だととらえ、そこには「見守りの連続性とあるがままの存在の肯定」があると記している。そして、「居場所は社会のなかでの困難を吸収してくれる安全基地として働く。」とも述べている。さらに、「自分が環境のなかに溶け込み、その人にとっては環境が自分の一部であるかのように感じる場所」のことを「あいまいな居場所」と名付け、ここでは「誰かと共に『ここに居ていいんだ』という感覚を得られることが大切になる。」と意味付けている。

 

 Aにとっての特別支援学級はこの「あいまいな居場所」になっており、それは担任の教師が個々の子どもたちの特性を理解し、その特性に応じた個別の支援を心掛けている成果なのであろう。もちろん学校という集団生活を営む場所は、6名という少人数でも学級というまとまりが求められ、緩やかとは言え一定の決まりやルールに従わなければならない。しかし、その拘束性の強さは通常の学級に比べて弱く作用し、個々の子どもたちの自由性はある程度保障される。そのことがAのような特性をもつ子どもにとって必要なのである。私たちは、Aの適切な学びの場として、通常の学級から特別支援学級へと変更することは妥当だと判断した。

 

 最後に、ケアラーとしての教師の在り方について考える視座として、特に強調しておきたいことがある。それは、著者が述べている次のような箇所の内容に関連する。…気遣いが他の人に向かうとき、自分の存在はより深く支えられる。「私はここに居る」という感覚が、自分自身と向き合う内省によってではなく、他の人への気遣いよって裏付けられる。「誰かから見守られ、誰かを気遣うことで私は存在する。」…このことは、特別支援学級のような少人数の学級であっても互恵的な人間関係を築いていくことが、「居る」を支えるケアとして必要であることを示している。ケアラーとしての教師は、一人一人の子どもにとって自分たちの学級が「居場所」になるように、お互いのためになる役割を皆が担うように配慮することが求められるのである。本当はこのような配慮は、特別支援学級だけでなく通常の学級にも求められるのだが…。

じいじが0番目に好き!~孫Hの近況報告を兼ねて~

 毎週土曜日の半日、孫のHは我が家に遊びに来るのが習慣のようになっている。11時前に訪れた先週の土曜日は、日中の温度が35℃近くに上がったので、駐車場の空きスペースを利用してこの夏最後のプール遊びをした。カーポートの上に日差し除け用のシートを乗せて、その下に直径1.2mほどの家庭用のプールを設置したものである。私もHと一緒に入り、水鉄砲遊びに興じたり、水風船を膨らませたりして遊んだ。途中、ガーデンパラソルセットの椅子で休憩し、ソフトクリームを食べたり冷たい麦茶を飲んだりした。1時間ほどの水遊びだったが、Hは大満足していた。その後、「じいじと一緒にお風呂に入りたい。」というので、今度は風呂場で、水温の変化で体の色が変化するカブトムシやクワガタのおもちゃで遊んだり、水鉄砲でお湯を掛け合ったりして遊んだ。

 

 昼食は、ばあばが冷やしそうめんを用意した。Hだけは、特別に用意した簡易の流しそうめんセットを利用して食べた。以前にも一回使ったものだったので、Hは流しそうめんセットを見ると、「楽しそ~う!」と大きな期待を込めた声を発した。そうめんの小さな塊を自分の箸で取り上げ、水が流れる溝の中に入れる度に、そうめんは細長くなって流れていく。それをHは器用に箸ですくい上げ、おいしそうに食べた。お皿に盛り付けていた卵焼きやちくわ、キュウリ、鶏肉等もほとんど完食した。私たち大人も、Hの豪快な食べっぷりに影響されてか、あっと言う間に丼一杯のそうめんを完食してしまった。それにしても、Hは好き嫌いなく何でもよく食べる。離乳食を食べ始めた頃から食欲は旺盛なので、身体の発育はよい。今、4歳6か月で、体重は約20㎏、身長は約120cmあるらしい。すくすく健やかに育つ孫の姿を見るのは、じいじとしてはこの上なく嬉しい。

 

 嬉しいと言えば、私はHと一緒に運動遊びをしながら、Hが今までできなかった動きができるようになったり、より上手に動くことができるようになったりする姿を見るのも大変嬉しい。歩き始めた頃は、我が家の和室に設置している遊具玩具(Hはそれを「アンパンマン公園」と呼んでいる。)の滑り台を怖がって滑ることができなかった。また、ブランコも揺れる感覚が不安だったのか、最初は乗ることも嫌がった。高い所に登るジャングルジムには、見向きもしなかった。しかし、その後、私たちじじばばは近くの児童センターや子どもの家、公園等の施設に機会あるごとに連れて行っては、少しずつ慣れさせていった。もちろんHが通っている保育園でもいろいろと配慮して指導してもらったが、それらの成果も現れて、今では大人がハラハラするぐらいジャングルジムに素早く登り、一番上の所に立ち上がることもできるようになった。

 

    この「アンパンマン公園」以外にも、私たちじじばばは2歳の時のクリスマスプレゼントとして贈った「トランポリン」も設置した。最初は手を持ってやって、「跳ぶ」という基礎的な動きに慣れさせつつ、自分で自主的に取り組むのを根気強く待った。また、「柔らかいボール」をたくさん用意し、いろいろなゲーム方式の運動遊びを体験させながら「投げる」という動きにも慣れさせた。「膨らませたゴム風船」を使った遊びも取り入れて「物を操作する」という動きにも慣れさせていった。さらに、「目と足との協応動作」を素早くするために、3歳の誕生日には「スポーツ育脳マット」という優れものをプレゼントした。

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 この玩具は、幼児が体力や集中力を培うのにも最適のものである。テレビに接続したスポーツマットの上を足で踏むことで、画面に映し出された様々な対戦型や協力型のスポーツゲームを行うのだが、これが運動量も結構あり運動不足の私にとって運動をするよい機会になっている。最初の頃はわざと負けてやってHを喜ばせていたが、今では本気モードで対戦しても負けることがある。もちろん本気でやって私が勝つこともあり、その時はHが不貞腐れたり怒ったりする。私としては、Hに負けることも体験させ、自分の思い通りにいかなかった時の気持ちとの折り合いの付け方を経験させている。でも、それでもHは私と対戦するのを楽しみにしており、我が家に遊びに来たら必ず「じいじ、対戦しよう。」と声を掛けてくれる。私もHと一緒に遊ぶことがこの上なく楽しい。

 

 先日の土曜日も、やはり「スポーツ育脳マット」で共に楽しく遊んだ。その後で、ソフトクリームを頬張っていたHがそっと口にした言葉を、私は忘れることができない。その言葉とは、「Hは、じいじが0番目に好き!」…初め私は??だったが、Hがその説明をしてくれた。「0番目に好きというのは、1番目より好きということよ。」私は嬉しい気持ちと同時に、Hの順序数の概念理解に感動した。集合数なら0は何もないことになるが、順序数なら1より小さい数になるのだ。だから「0番目に好きというのは、0以下の数字を知らないHにとって最も好きということを表わしている。」Hにとってじいじは、自分と最も楽しく遊んでくれる友達なのであろう。私は、嬉しさと喜びが汗と共にじわーっと溢れ出てきた。