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「人生・生き方」「教育・子育て」「健康・スポーツ」などについて考え、雑学的な知識を参考にしながらエッセイ風に綴るblogです。

「伝達>生成」モードの授業を「伝達<生成」モードの授業へと転換していこう!~伊藤亜紗著『手の倫理』から学ぶ~

 当ブログの2021年9月19日付けの記事で、『日本哲学の最前線』(山口尚著)という新書を取り上げた際に、日本の「J哲学」の担い手の一人である美学者・伊藤亜紗氏の『手の倫理』について言及した。記事の中で、私は本書で使用されていた「道徳」と「倫理」という言葉の概念を援用して、今回の学習指導要領において新設された「特別の教科 道徳」の授業は「倫理」を中核にした議論を大切にすべきではないかと提言しておいた。しかし、その時はまだ『手の倫理』を読んでいなかったので、『日本哲学の最前線』で述べられていた内容を拠り所として私なりの思いを綴ったものであった。

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 ところが、先日、その『手の倫理』を市立中央図書館で見つけた。私は小躍りして借り出し、数日間で読み通した。想像していた通り、著者の触覚に関する研究視点の面白さに惹かれるとともに、思考を深めて追究していく研究内容に引き込まれていった。本書のテーマは、「触覚の倫理」、特に人間関係という意味で主要な役割を果たす「手の倫理」であり、それを別の言い方で表せば「さまざまな場面における手の働きに注目しながら、そこにある触覚ならではの関わりのかたちを明らかにすること」になる。このテーマそのものが魅力的ではないか。私はこのテーマに込められた著者の独自の課題意識に強い興味を覚えた。

 

 次に、本書の構成は、第1章「倫理」第2章「触覚」第3章「信頼」第4章「コミュニケーション」第5章「共鳴」第6章「不埒な手」という章立てになっている。どの章も、著者自身の体験に基づいた議論を展開しているが、今回の記事では特に第4章におけるコミュニケーションのモード(態度や調子のこと)に関する内容を取り上げながら、授業における教師と子どもたちとのコミュニケーションの在り方について問い直してみたいと考えている。

 

 著者はコミュニケーションについてモードを軸にして、その特徴から「伝達モード」と「生成モード」とに分類している。「伝達モード」の特徴というのは、伝えるべきメッセージが発信者の中にあり、それが一方向に受信者に伝わってくると想定されていて、「発信者/受信者」という役割が明確であるところ。それに対して「生成モード」の特徴というのは、「発信者/受信者」という役割が不明確で、やりとりの中でメッセージが持つ意味やメッセージそのものが生み出されるという、「その場で作られていく」ライブ感があるところ。そして倫理学者の水谷雅彦氏や社会人類学者の谷泰氏が、この「生成モード」というコミュニケーションの発想を高く評価していることを認めながらも、全てのコミュニケーションを「生成モード」で捉えることには異を唱え、場面によって「伝達/生成」の割合が異なると考えた方が自然だと述べている。私は、コミュニケーションのモードに焦点化した場面の事実認識は、カッコ書きで妥当性があると思った。カッコ書きの意味は、それぞれのモードの背後にある権力関係との関係性は別に問われるべき問題だと考えからである。

 

 ところで、このコミュニケーションの二つのモードは、教師と子どもという教育関係に基づいて行われる授業におけるコミュニケーションの在り方にも適用できるのではないだろうか。というのは、私が特別支援教育・指導員として何らかの「困り感」をもつ子どもの行動観察をするために学校現場へ出向き、主に授業を参観させてもらう時の教師と子どもたちのコミュニケーションはその多くが「伝達モード」中心である。もちろん全ての場面という訳ではなく、時には「生成モード」のコミュニケーションが発生する場面もあるが、比重としては「伝達>生成」モードである。だから、あまり意味創造の場にはならずに結果的に平板な面白味のない授業になっている。しかし、たまに比重が「伝達<生成」モードのコミュニケーションで展開されている授業を参観する時があり、その教室は意味創造が起こり結果的に学ぶ楽しさに満ちたダイナミックな授業になっている。

 

 様々な個性や特性をもった子どもたちが集まった学級集団を対象にして授業を行う大変さは、元教員の私にもよく分かる。特に近年は何らかの「困り感」をもつ子どもの数が増えているようなので、教師には特別支援教育の視点を踏まえた授業を実践することができる力量が求められており、そのための研修にも多くの時間が費やされるのであろう。多忙な日々の中で、「生成モード」のコミュニケーションを中心とした授業を展開する精神的な余裕もないかもしれないが、せめて現状の「伝達>生成」モードの授業を「伝達<生成」モードの授業へと転換してほしいと、私は強く願っている。子どもたちの豊かな学びと育ちを保障するために。

特別支援教育って、「発達障害」のある子どもたちを支援する教育のこと?~岡崎勝編著『発達障害 学校で困った子?』から学ぶ~

 愛知県名古屋市で40年以上、小学校教員を経験して現在は非常勤講師(理科)をしている「岡崎勝」という人がいる。おそらくもう70歳を迎えようとする年齢ではないかと思うが、今から約30年前に私は彼の名前をある本を読んで知った。その本というのは当時、愛知教育大学教授で体育・スポーツ社会学を専攻していた影山建氏らと共に刊行していた『スポーツからトロプスへ―続・敗者のないゲーム入門―』である。私が地元国立大学教育学部附属小学校で体育科の実践研究に取り組んでいる中で、勝利至上主義に陥っていたスポーツ指導の在り方を相対化し、新しい発想で行う運動文化を創造できないかと模索をしていた際に、大いに刺激を受けた本なのである。

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 「トロプス」という名称は、Sport(スポーツ)を逆に綴ったTrops(トロプス)に由来しており、その定義を簡潔に言えば「スポーツのいやらしさに辟易している人々や、スポーツから落ちこぼれた人たちのための楽しい運動ゲーム」というものである。本書はその「トロプス」を生み出した経緯や意味付けた考え方等による理論編と、それを新たな運動文化として具体化したゲーム編の構成で作られている。当時、附属小学校は「個の自律化を図る授業」という研究テーマで各教科等の実践研究を進めており、最終的には新たな教育課程を編成しようとしていたので、体育科でも研究テーマの実現を図る教育課程づくりに専心していた。そこで、私が注目したのが「トロプス」という運動ゲームだったのである。

 

 当時の思い出話はこれぐらいにして、本題に入りたい。前振りが長くなったが、今回取り上げたい本は、この『スポーツからトロプスへ―続・敗者のないゲーム入門―』の編著者の一人である岡崎氏が、「発達障害」と向き合いながら学校の在り方を考え直そうとして刊行した『発達障害 学校で困った子?』である。現在の仕事をするようになった私は本書を市立図書館で見つけた時、「あの岡崎氏が特別支援教育関係の本を出している!どんな見解を披露しているのだろうか?」と興味をもち、読んでみたくなった。かつて近代スポーツ批判をしていた彼は一小学校教員として、一学級担任として、「発達障害」のある子どもたちと今までどのように接してきたのだろうか。本書のメインは、彼が2018年8月31日に神奈川県秦野市で行った講演〈「障害」の支援って何?〉の記録を基に構成した内容であるので、今回はその文章の中から特に印象に残った内容をまとめつつ、私なりの所感を付け加えてみたいと考えている。

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 本文章の中で彼は、「…子どもは一人ひとりちがいますから、実際につきあっていくうえでのボクの意識は『発達障害』か否かではなく、子どもの動きの振れ幅が大きいか小さいかという問題しかないわけですね。」と語り、その後ダウン症の子に対する配慮について述べた後、「…そういった対応をするのは、『障害はない』といわれるほかの子もみんな同じはずなのです。」と言い切っている。つまり、障害があろうがなかろうが、子どもは全て一人一人違った存在なので、各々に応じた個別の対応を心掛けることが教育の基本なのである。その意味では、教育という営み自体が「特別支援教育」なのであるという考え方であり、「発達障害」を始め何らかの障害をもっている子どもたちだけに対して行うのが「特別支援教育なのではないのである。この点について、私は彼と全く同様のとらえ方をしている。

 

 そして、最後の部分で彼はこんなことを語って結んでいる。「教員や保護者は一生懸命になりすぎちゃうと、自分を傷つけ、相手も傷つけるということになるので、適当にいいかげんに、バランスよくやっていくということがすごく大事かなと思います。」この中の「適当に」「いいかげんに」という言葉だけ聞くと、とてもマイナスのイメージを受けると思うが、これらの言葉の意味は「ほどよいこと」であったり「ある条件や目的・要求等にうまく当てはまること」であったりするので、プラス・イメージで言っているのである。また、「バランスよく」という言葉はそのままの語義で受け止めてよい。

 

 つい先日も、ある小学5年生の保護者との教育相談の場で、前年度の担任が学力不振の我が子に対して何とかしてやろうと、昼休みの時間も個別指導を一生懸命してくれたが、本人はそれがとても苦痛で登校を渋るようになったというエピソードを語ってくれた。まさに「一生懸命になりすぎて相手を傷つけてしまった」事例であろう。このような事例はよく耳にすることがあり、ある保育園では水が苦手な園児に対して、一生懸命にプールに連れて行って指導したためにその子は水に恐怖心をもってしまったという話も聞いたことがある。保育や教育という営みは、目標を達成するために、子ども自身の身になって考えるということをつい見失いがちになることがあるので、「発達障害」のある子どもに対しても特性に合った定説の支援内容や方法だからと言って、それを闇雲に取り入れて行うことは慎重でありたいものである。

コロナ禍で「濃厚接触」という言葉の導入がもたらした副作用について~古田徹也著『いつもの言葉を哲学する』から学ぶ~

 新型コロナウイルスのオミクロン株の感染力がすごい。東京都はあっという間に過去最高の1万人超えになり、本県でも過去最高の新規感染者数を連日記録している。今のところ重症化するリスクは低く、無症状や軽症の陽性患者が多いらしい。しかし、だからといって完全に安心することはできない。どのような後遺症が現れるか分かっていないし、その軽重度も見極めることはできていない。できるだけ感染しない方がよいのである。ただ、これだけ感染者数が増えてくると、特にエッセンシャル・ワーカーがオミクロン株に感染して仕事ができなくなると、社会・経済活動の停滞が起きて通常の生活機能の維持が困難な状況になってしまう。しかも、隔離期間が短縮されたとは言え、現在でも「濃厚接触者」に対して10日間の外出自粛、健康観察という隔離措置がなされているので、ますます社会・経済機能の維持が難しくなっているのである。

 

 それにしても、一般社会に流布されて今では日常会話にも出てくる「濃厚接触者」という言葉の意味って、本当に分かっている人はどれぐらいいるのだろうか。何となく分かっているようで本当にはよく分からなっていないのは、私だけなのだろうか。新型コロナウイルスの感染について報道されるようになった約2年前に、この「濃厚接触者」という言葉をテレビ・ニュースのテロップで最初に目にした時の私の印象は、「濃厚接触というのは、欧米人の慣習であるキスやハグのような濃厚なスキンシップをすることだろう。」だった。だから、「濃厚接触者に該当する人は、日本では数少ないだろう。」という楽観的なとらえ方をしていた。ところが、その後の報道番組で解説されていた「濃厚接触者」という言葉の意味は、私の最初の印象とは随分違っていたのである。「こんな誤解されるような用語をなぜ使うんだろう。」と、その時に私は大きな疑問をもってしまった。

 

 このような疑問を抱き続けていた私が、最近、その疑問を少し溶解させてくれるような文章に出合った。それが、『いつもの言葉を哲学する』(古田徹也著)である。著者の古田氏については、以前に読んだ『日本哲学の最前線』(山口尚著)の中で取り上げられていた哲学・倫理学者であるとは認識していた。また、その中で彼の著書『言葉の魂の哲学』について解説されており、私自身の言葉やその表現の在り方についての課題意識に重なることもあって、彼の「言葉の浅い理解へ落ち込まぬよう、むしろ言葉をめぐって悩むことが大事だ」という最終テーゼを印象深く覚えていた。だから、自宅近所の大型書店で新書版の本書を見つけた時、私はそのタイトルに大いに興味を抱いて、目次にざっと目を通した後に本文をぺラペラ捲って斜め読みをしてみた。すると、4章立ての全体構成や各章のテーマなどが内容的に面白そうで、しかも大変に分かりやすい文章表現だったのですぐに購入したという次第である。

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 本書の「第3章 新しい言葉の奔流のなかで」の中の<5「ロックダウン」「クラスター」-新語の導入がもたらす副作用>という文章の中で、「濃厚接触」に関する記述がある。次に、その概要を箇条書き的にまとめてみる。

〇 「濃厚接触」という言葉は、疫学上の専門用語であるclose contactの訳語である。

〇 疫学上の専門用語としての「濃厚接触」は、同じ部屋の中で一定の時間会話を交わすことといった、文字通りの意味では触れてすらいないケースを指す。

〇 「濃厚接触」という言葉の文字通りの意味と、疫学上の意味との乖離が、実際に害悪をもたらしたと思う。

〇 「濃厚接触」という言葉と、食卓を囲んだりおしゃべりをしたりという営みは通常は結び付かない。それゆえ、危険と思わずにそうした営みを続けた人々が当初は少なからずいたであろう。

 

 因みに、厚生労働省がホームページで示している最新の「濃厚接触者」の定義として示しているのは、次の通りである。

〇 濃厚接触者とは、陽性となった人と一定の期間に接触があった人をいいます。ここでいう一定の期間は、症状のある人では症状出現から2日前、症状のない人では検体採取時から2日前の期間です。
 この期間に、以下の条件に当てはまる人を濃厚接触者といいます。

〇 陽性者と同居している人
〇 陽性者と長時間接触した人(車内、航空機内などを含む。機内は国際線では陽性者の前後2列以内の列に搭乗していた人、国内線では周囲2m以内に搭乗していた人が原則)
〇 適切な感染防護なしに患者(確定例)を診察、看護もしくは介護していた人
〇 陽性者の気道分泌液や体液などの汚染物質に直接触れた可能性が高い人
〇 マスクなしで陽性者と1m以内で15分以上接触があった人

 ただし、これらの内容はあくまで原則であり、あらゆる状況を聞き取ったうえで保健所が総合的に判断することになっているが、それにしても何と「濃厚接触」という文字通りの意味とのズレが大きいのだろうか。

 著者は、文章の中で「濃厚接触」以外にも、「都市封鎖」(lockdown)や「社会的距離」(social distance)等という訳語について触れて、「耳慣れない言葉を馴染みの言葉の組み合わせに安易に置き換えることは危険だ」と指摘している。その理由は、馴染みの言葉は私たちに特定のイメージを自ずと喚起するものだから、そのイメージによって私たちを誤った理解や行動へと導きかねないからだと言っている。もちろん、かといってカタカナ語を私たちの間に無闇に生み出して、丁寧な説明もなく濫用するのも問題だと提起している。その理由は、私たちの間に理解の偏りやコミュニケーション不全を生み、適切な行動を取れなくさせかねないからだと言っている。

 

 この後、著者は「カタカナ語であれ何であれ、新語の導入には理解の偏りや誤解といった副作用があるので、それをできるだけ抑えられるように、公共性の高い領域において新語を導入する際には、はじめのうちにその適切さを皆で慎重に検討すべきであり、また導入後も、意味の手厚い説明を心掛けるべきだろう」とまとめている。そして、特定の分野を研究する専門家はもともとの原語が念頭にあるので、カタカナ語の分かりにくさや訳語の誤解のしやすさといったものが見えにくくなっていることがあると警鐘を鳴らしている。この警告の内容は、私にも耳が痛い過去がある。

 

 私が現職中に地元国立大学教育学部附属小学校に勤務していたことがあることは、今までの記事にも何度か記したことがあるが、その当時に教育実践研究に関する論考を書く中で新語をよく使っていた。そして、その論考で使用した特にカタカナ語の新語に対して、先輩や同僚等から「意味がよく分からない。もっと分かりやすい言葉にするとか、具体例を示すとか意味内容を説明してから使うとかできないのか。」という批判を浴びることがよくあった。その時は、批判者に対して「自分がもっと勉強して、末尾に示している参考文献を読んで理解すればいいのではないか。」と内心で反論していた。しかし、今、改めて振り返ってみれば自分の努力不足を痛感する。

 

 私の失敗事例はともかくも、公共性の高い分野で新語を導入する場合には、専門家だけに任せず、多様な分野の有識者や各世代の市民の見解や感覚等も踏まえて、初期段階でよく吟味して、適切な言葉を選び取るという過程を経ることが必要なのである。そういう意味で、このコロナ禍において導入されている多くの新語の副作用について、私たち市民が時間の経緯に流されず、時々は立ち止まって吟味することを怠らないようにしたいものである。

生活保護受給者のケースワーカーの矜持とは?~柚月裕子著『パレートの誤算』を読んで~

 懲りもせず、また読んでしまった。…私はある小説家の作品を最初に読んで気に入ったら、その人の他の作品も読んでみたくなり、機会を見つけては次々と読んでしまう癖がある。年初めの勤務日の昼休みに職場近くの市立図書館で借りて、ここ一週間ほど同時並行で読んでいた3冊の本の中の一冊、柚月裕子の『パレートの誤算』もそのような癖が出てしまった本である。『あしたの君へ』を読んで以来、柚月作品の魅力に取りつかれてしまった私は今までに同書を含めて九作品を読んできた。(『孤狼の血』は未読だが…)だから、本書で十冊目になる。そして、その内の『あしたの君へ』『検事の死命』『慈雨』『朽ちないサクラ』を当ブログの記事に取り上げてきたので、今回の記事で5度目になる。

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 私が市立図書館の書架に並んでいる本書を見つけた時、未読の柚月作品だったのでつい手を伸ばしてしまったのだが、何より題名に惹き付けられた。最初、私は「パレードの誤算」と読み間違えて、「パレードでどんな誤算が起きたのだろう?」などと呑気な連想をしてしまい、パラパラとページを捲っていた。すると、たまたまあるページの中に「パレートの法則」という文字を見つけた。そこで、私は少し立ち止まってそのページの中で「パレートの法則」について説明している箇所を拾い読みした。

 

 …たしかイタリアの経済学者が発見した統計モデル…80対20の法則とも呼ばれていて、ある分野における全体の約8割を、全体の一部である約2割の要素が生み出しているというもの…たとえば、社会経済だったら、全体の2割程度の高額所得者が社会全体の8割の所得を占めるとか、マーケティングだったら、2割の商品が8割の売り上げを作るとか言われている。…

 

 私はこの箇所を読みながら、「パレードではなく、パレートか。では、そのパレートの法則をどの分野に当てはめたのだろうか。そして、そこでどのような誤算があったのだろうか。」などと疑問が生まれ、ますます作品の内容に対する興味が増してきたのである。私は、本書を前回の記事で取り上げた『こころ傷んでたえがたき日に』(上原隆著)と共に借りることにし、この1週間ほどの寝床での読書の友にしたという次第である。

 

    柚月作品は、「ある職業に携わる者の矜持」を描く作品が多い。本書も、主人公は津川市役所福祉保健部社会福祉課の新人女性職員・聡美であり、彼女が生活保護受給者のケースワーカーを担うようになる時期に先輩の職員・山川が訪問していたアパートで火事が起きたことが物語の発端になっている。そして、その「ケースワーカーとしての矜持」が火事に関連した殺人事件を解明する鍵にもなっている。本書は、聡美が同僚の職員・小野寺と共に、殺人事件の謎を探っていくというミステリー仕立ての物語になっており、私は大いにそのストーリーにハマってしまった。…今までならここでつい本作品のあらすじを紹介したくなるが、それではネタバレになり未読の読者が興ざめしてしまうので今回は(今後も)止めておく。

 

    ところで、「生活保護受給者のケースワーカー」とは、どのような業務を行う職のだろうか。私は初めよく知らなかったが、本書を読んで分かった。簡単に言えば、「生活保護費の受給者の住所を定期的に訪問し、就労などの支援を行う行政の担当者のこと」で、自治体によるが福祉事務所と市役所の生活保護担当者がこの業務に当たるらしい。ただし、ケースワーカーの業務を担うことを嫌がる人間は多いという。生活保護受給者の中には、部屋をきれいに掃除しているケースは稀で、大半は万年床の周りに、食べかけのコンビニ弁当やチューハイの空き缶が散乱しているからである。そんな部屋を訪問するのを喜ぶ人間が少ないのは当然であろう。

 

 しかし、主人公の聡美は火事に絡む殺人事件の背景に生活保護の受給に関連する問題があったことを知った上で、次のようなことを思うようになる。…「医者や教師と同じように、ケースワーカーも、規則だけを守っていては優れた職業人になれない。自分が担当する人間の気持ちに寄り添い、ときには規則から半歩踏み出しても、患者の、生徒の、生保受給者の、真の自立と成長を願うことこそが、重要なのだ。規則だからなにもできない、ではなく、たとえ規則を破ってでも、本当に相手のためになることをする。そんな熱い使命感を持つ者が、優れた職業人だ」…私は、元教師なので、この彼女が抱いた矜持に大変共感した。特に、ケア労働を担うエッセンシャル・ワーカーにとっては、不可欠な矜持ではないか!

 

 最後に、『パレートの誤算』という題名の意味について。前述の「パレートの法則」の説明でも少し触れたが、「パレート」というのは「人名でイタリアの経済学者のこと」で、「その法則」というのは「ある分野における全体の8割は、約2割の要素が生み出しているという法則のこと」。ところが、この法則を勝手に解釈して「残りの8割の要素は影響を与えないとか、不必要だ」と考える人もいる。そんな解釈をされることは、パレートにとって誤算だと言える。およそこのような意味なのだが、続きは本書の終章で語られることになるので、ぜひ未読の方は本書を手に取って自分の目で確かめてほしい。それにしても、本書も私の期待を裏切らない社会派ミステリーだった。他の既刊作品やこれから発刊される最新作等も機会があれば読んでいきたいと思っている。…楽しみ、楽しみ…

町内に駄菓子屋さんがあった頃の思い出、あれこれ~上原隆著『こころが傷んでたえがたき日に』に触発されて~

 「成人の日」の祝日を含んだ先週末からの三連休は、フジグランやニトリなどへ妻と一緒に日用雑貨やソファベットを買いに行ったり、久し振りに孫Hが「ランバイク」(商品名「ストライダー」)専用のコースを設置しているオフィシャル・パーク「マテラの森」へ行きたいというので連れて行ったりして、結構忙しく過ごした。それでも、夕方から夜にかけては少し自分の時間を持つことができたので、哲学書や小説・コラム集の3冊の本を同時並行的に読み始めていた。その中で最初に読了した『こころが傷んでたえがたき日に』(上原隆著)を、今回は取り上げてみようと思う。

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 本書は、雑誌『正論』に2009年11月号から2018年3月号に掲載された、著者による100編の「ノンフィクション・コラム」の中から選らばれた22編が所収されている。「ノンフィクション・コラム」とは、市井の人々の生き方を取材して上質な読みものに仕立てた作品のことであり、世代を超えた幅広い人々の心をつかんだ著者独特のコラムのことをいう。その中の『にじんだ星をかぞえて』という作品を、当ブログの以前の記事(2020年2月5日付)で取り上げたことがあるほど、私は著者のファンである。本書は、そんな私が職場近くの市立図書館で見つけた作品であった。そこで、今回は本書の最後に所収されていた「駄菓子屋の子どもたち」という1篇に触発されて、私の子どもの頃の思い出話を綴ってみたい。

 

 「駄菓子屋の子どもたち」という1篇は、荒川・綾瀬川・中川という3つの川に囲まれた東京都葛飾区四つ木という地域で、2017年当時あった駄菓子屋の「ヨッちゃんの店」に集まってきていた6名の小学5年生たちを、著者が観察したりインタビューしたりして取材した内容に基づいて書いた「ノンフィクション・コラム」である。私は、その一人一人の小学生の家庭環境や性格、暮らしぶりなどに強い興味を抱きながら読み進めたが、最後に描かれた「ヨッちゃんの店」の前の路地風景を想像していると、ラムネの淡い味が口の中にシュワシュワ広がっていくような感じがしてきた。そうだ、私の子どもの頃にも似たような原風景があったぞ!

 

 私が小学生の頃というのは1960年代になるが、当時はまだ道路は舗装されておらず、小さい子どもたちは地面が凸凹した路上で「缶蹴り」や「かくれんぼ」、「ビー玉」(当時、「ランコン」と呼んでいた)や「絵カード(札)」(当時、「パッチン」と呼んでいた)などの外遊びをよくやっていた。また、テレビ放送が始まったばかりだったので、当時放映されていた「鞍馬天狗」や「赤胴鈴之助」等の時代劇に影響されて「チャンバラ」ごっこもよくやっていたと思う。さらに、週に何回か自転車に乗ってやってくるおじさんが、巧みな声色で演じる「黄金バット」や「ハリマ王」などの紙芝居に興じていたことも思い出す。その合間に買った半透明の水あめや、普段はあまり飲まない炭酸のラムネの味も記憶に残っている。

 

 そのような思い出が残る当時、私たち子どもにとっての生活圏である町内には、確か二軒の駄菓子屋さんがあった。もう屋号は忘れてしまったが、それぞれの店内の様子の残像は私の脳裏に映し出すことができる。平台には、小さな袋に詰められた様々な駄菓子の袋が並んでいる。また、柱には何種類かの色が散りばめられたざらめ付きの飴玉が数十個吊るされていて、それぞれの紐が束ねられている。小銭を出して、好きな紐を引っ張ると大小の飴玉の中から一つが引っ張られる。その飴玉の大きさによって、人生の運不運が決まったような気分になったのは、私だけだったのだろうか。とにかく、当時の駄菓子屋さんにはクジ引きのような駄菓子がたくさんの種類あった。そのクジ引きをする愉しさが、子どもたちを駄菓子屋さんに足繁く通わせた要因だったのではないかと思う。

 

 そうそう、当時の思い出の一コマをもう一つ思い出した。それは、鉋屑を山盛りに乗せたリヤカーを近所の友達数人と一緒に引いていく場面である。鉋屑を隣町にあった銭湯へ運ぶためである。近所の友達の中に製材店の子どもがいて、その子が担っていた店の手伝いを私たちも一緒にやったのである。その駄賃の替わりは、確か鉋屑を持って行った銭湯に無料で入浴できることだったと思う。手伝いを終えた私たちは、まだ人があまり入っていない男湯の湯船で泳いだり、潜ったりして遊んだものであった。あまりにも騒がしい振る舞いをした時には、番台にいたおじさんから叱られることもあったが、おおむねは見て見ぬふりをしてくれていた。銭湯からの帰りは、じゃんけんで勝った者が空になったリヤカーに乗ることができる遊びをしていた。私も何度かリヤカーに乗り、高揚した気分で帰ったことがあった。…本当にあの頃の時代風景は、無邪気な明るさとのんびりした空気に満ちていたと思う。果たして今の子どもたちにとって、現在の時代風景はどのように映り、どのような雰囲気で受け止められているのだろうか。

「皮膚感覚」の敏感さと「姿勢保持」の弱さとの関連について知る!~長沼睦雄著『子どもの敏感さに困ったら読む本―児童精神科医が教えるHSCとの関わり方―』から学ぶ~

 新年になってあっという間に、新型コロナウイルスの感染が急拡大してきた。“第5波”が収束してしばらく感染者が少なくなっていたので、昨年は大事をとって控えていた年末年始の帰省や旅行をする人が増えて人流が活性化したことや、デルタ株よりも感染力が強くなっているオミクロン株が市中でも感染するようになったことなどが、その主な原因になっていると思われる。いずれはと覚悟はしていたが、とうとう感染爆発の“第6波”が襲来してきた!これは、今まで以上に感染予防対策を徹底しなくてはならない。改めて、私たち老夫婦も気を引き締め直しているところである。

 

 ところで、年始休暇が終えた翌日の1月4日(月)も年休にしていた私は、恒例になったウルトラセール(全品20%割引)最終日ということもあり、以前から気になっていた哲学書や新書等を購入しようと市内数件のブックオフを巡ってみた。残念ながら私が目を付けていた哲学書はなくなっていたが、新書1冊と今の仕事に関連した特別支援教育関係の単行本2冊を購入した。私は、その中でも特に関心を惹かれた『子どもの敏感さに困ったら読む本―児童精神科医が教えるHSCとの関わり方―』(長沼睦雄著)を早速読んでみた。

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 「HSC」とは、「Highly Sensitive Child(ハイリー・センシティブ・チャイルド)」の略名で、「生まれつきとても敏感な感覚、感受性を持った子ども」の意味である。元々は、アメリカの心理学者のエレイン・N・アーロン博士が、1996年に『The Highly Sensitive Person』という本を出版し大ベストセラーになったことで、日本でも2000年に『ささいなことにもすぐに「動揺」してしまうあなたへ』(冨田香里訳)というタイトルで翻訳出版されたことがきっかけ。それから「HSP」という言葉が知られるようになった。続いて、アーロン博士は2002年に『The Highly Sensitive Child』というタイトルで、とても敏感な子どもたちの特徴や育て方等を詳しく書いた本を出し、それが日本で2015年に『ひといちばい敏感な子』(明橋大二訳)というタイトルで出版されて、「HSC」という言葉の認知度が高まったのである。

 

 本書は、精神科医で十勝むつみのクリニック院長の著者が、感受性の強い敏感な子どもを育てているお母さんや先生方にとって、数々の悩みを吹き飛ばすヒントとなり、敏感過ぎる子どもたちの生きづらさを和らげる一助になることを願って上梓した本である。ただし、本書で取り上げる「HSP」や「HSC」は、病名でも診断名でもなく、医学的な概念としては認められていない。あくまで心理学的な、社会的なひとつのものの見方に過ぎないという位置付けである。したがって、精神医学の診断基準であるDSM-5(2013年に改訂された、米国精神医学会の精神疾患の診断・統計マニュアル)で示されている「神経発達症」(改訂前は「発達障害」)と同列に取り扱う概念にはまだなっていない。

 

 しかし、私は本書を読むことで、「HSC」の敏感さと神経発達症の「ASD」(自閉スペクトラム症)の感覚過敏とは、違いだけでなく重なる部分もあることが分かり、「HSC」は病気や障害という概念とは別物だと分かった。また、実際の臨床的な場面で感覚過敏のために「困り感」をもっている子どもに対して、どのように支援すればよいかを考える際には、「HSC」の特性を踏まえた手立てを参考にすることは有効なのではないかと思った。特に、「ASD」の特性の一つである「触覚過敏」は、「HSC」の特性の一つでもある「皮膚感覚」の敏感さと似ており、その原因のメカニズムに関連する「恐怖麻痺反射」という原始反射について知ることは、「ASD」の子どもに対する適切な支援内容を考えることに役立つものである。

 

 もう少し具体的に述べると、「ASD」の特性の一つに「対人関係の苦手さ」があるが、これは「触覚過敏」との関連があると言われている。皮膚は自分と他人とを隔てる境界の部分であり、神経と同じ外肺葉系なので反応が似ているので、「触覚過敏」の子は他人に対して不安や恐怖が強いのである。そして、この感覚や対人過敏性と共に姿勢保持の弱さなど「ASD」の子どもが示す状態像は、胎児が生き残るための大事な機能である「恐怖麻痺反射」という原始反射が出生後も生き残っていることが原因であるらしい。

 

 人間は胎生5週間の早い時期から、母体のストレスを感じて身体を固めて身を守る「恐怖麻痺反射」が起きる。痛みなどの物理的な刺激だけでなく、雰囲気などの精神的な刺激に対しても身体が固まる反応を起こすという。この反射が出生時までに統合されず、出生後も残存すると、触覚の原始系(防衛)から識別系(積極的な関わり)への発達が遅れ、危険を回避し防衛する肌の機能を最大化して対処するのである。このために、外側の肌にエネルギーを集中させるために「触覚過敏」になり、前庭感覚や固有受容感覚などの内部感覚を使うことが難しくなる。さらに、そのことによって深層筋(インナーマッスル)が弱くなり、低筋緊張になることで「姿勢保持」が弱くなるのである。

 

 したがって、身体をコントロールしたりバランスを取ったりすることができるような運動をすることにより、前庭感覚や固有受容感覚などの内部感覚が育ってくると、それに伴って「姿勢保持」が強くなり「触覚過敏」も薄くなってくるのである。私は本書を読んで、このような「皮膚感覚」の敏感さと「姿勢保持」の弱さとの関連について知ることができ、今までの教育相談で表層的にしか説明していなかった「姿勢の崩れ」に対する支援内容に関する身体発達的な根拠を得ることができた。今回の学びを今後の教育相談の場で生かしていこうと考えている。

「吃音」が出る時とその対処法について~伊藤亜紗著『どもる体』から学ぶ~

 新年が明けて2日のお昼には長女夫婦と孫Hが、3日のお昼には二女夫婦と孫Mが、年始の挨拶代わりに我が家を訪れて一緒におせち料理やお雑煮等を味わってくれた。老夫婦だけの食卓とは違い、正月らしい賑やかな食卓になった。また、それぞれの孫と一緒に遊んだり、孫の今後の成長を見守り支援していくための手立てなどについて子どもたちと話し合ったりすることができたことも愉快なことであった。正月早々、本当に幸せな時間をもつことができ、「今年もよい年になりそうだなあ。」と頬を緩ませる自分がいた。

 

    ところで、普段は滅多に行くことはない市の北西部にある市立図書館から借りてきた『どもる体』(伊藤亜紗著)を大晦日から読み始め、元日の昼間にはお屠蘇気分で、2・3日は就寝前と起床後のわずかの時間を活用して読み継ぎ、4日を迎えてやっと読了した。本書は、当ブログの数回前の記事にも記したように、私が特別支援教育・指導員として仕事をするようになってから関心をもつようになった「吃音」という障害の実態やその対処法等について知るために、是非とも読みたかった本なのである。

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 著者は、東京工業大学リベラルアーツ研究教育院准教授であり、研究のかたわらアート作品の制作にも携わるという女性である。当ブログの記事でも今までに単著では『目の見えない人は世界をどう見ているのか』と『記憶する体』、共著・編著では『利他とは何か』と『ポストコロナの生命哲学―「いのち」が発する自然(ピュシス)の歌を聴け―』を取り上げており、最近、私が特に注目している美学者である。本書によると、自身もいわゆる「隠れ吃音」タイプの軽い「吃音」当事者でもあるらしい。だから、いつか「吃音」をテーマにして本を書きたいと思っていたとのこと。ただし、自分の体と向き合うのが困難であり、研究の客観性を確保する必要性から、自分の吃音経験をいったん括弧に入れて研究を進めてきたそうである。

 

 本書は、そんな著者が「体のコントロールを外れたところ」に生起する「どもる」という経験を分析し、「しゃべる」の多様性に光を当てることと、「自分のものでありながら自分のものでない体」を携えて生きるという切実な問いに迫ることの二つを目的にして書いた本である。また、「吃音」という障害を「言葉がどもっているかどうか」ではなく、「体がどもっているか」に焦点を当てた身体論としての「吃音」論であり、それが『どもる体』というタイトルに象徴されている。だから、今のところ原因が分からず、治療法の有無も分からない「吃音」という手ごわい障害ではあるけれど、本書では原因探しや治療法の提案を行うことはしないで、あくまで「どもる」という身体的経験にフォーカスを当てているのである。

 

 では、今回の記事の本題に移っていこう。…「吃音」が出る時はどのような状況なのか、またその「吃音」に当事者はどのように対処しているかという昨年末に抱いた疑問を、解決するような記述を探しながら、私は本書を読み進めた。その結果、いくつかの記述にその回答らしき内容を見出したが、それを紹介する前に「吃音」に関して理解をする上で幾つかのキーコンセプトを解説する必要があると思った。そこで、次に幾つかのキーコンセプトの解説をなるべく簡潔にしておきたい。

 

    そのキーコンセプトとは、「吃音」の症状としての「連発」と「難発」である。私たちが「しゃべる」ことができるのは、身体の複雑なオートマ制御によっている。「連発」というのは、このオートマ制御のエラーのことで、「最初の音を繰り返す」症状のことであり、幼い子どもの多くが経験するという意味で「吃音」の最も原初的な形態である。「連発」が起きると当事者は、「次はどうしたら起こらないかな」と対処法を考えるようになり、そこから「連発→難発」という症状の進化が起こると考えられる。つまり、「難発」は「連発」の対処法でもあり、「吃音」の一つの症状にもなる。「難発」というのは、「連発」を隠そうとして特定の単語で音が出なくなり、しゃべれなくなってしまうこと。例えば、「たまご」と言いたい時に、「連発」が「たたたたたまご」であるのに対して、「っっっっっったまご」と「っ」しかない感じになるのが「難発」。金縛りにあったように、「たまご」と言おうとしても、体が全く受け付けない状態である。

 

 パソコンで例えれば、「連発」がパグ(キーボードを一度叩いただけで、ディスプレイに勝手に文字が並んでしまう状態)だとすれば、「難発」はフリーズ(キーボードをいくら打ってもディスプレイが反応しない状態)。「連発」は「意図しないのになってしまう」という「乖離」だが、「難発」は「意図してもうまくいかない」という「拒絶」のようなもの。どちらも、意識と体が分離している心身二元論であるという意味では同じだが、その分離の仕方が違っていて意図と体の間に緊張関係が生ずるのである。

 

 ところで、この「吃音」の症状としての「連発」と「難発」は、どのような状況の時に起こるのであろうか。私が本書の中でそれに関連している記述を見出した内容を要約すると、おおよそ次のようになる。

〇 「吃音」が出るか出ないかは、シチュエーションに極めて強く影響されるが、必ずしも緊張する場面だけでなく、リラックスしている場面でどもりやすい人は案外多い。

〇 「吃音」は「こういう時にどもる」という法則をきめるのをためらうところがある。

〇 研究者のドミニク・チェンさんは、仲間との議論に刺激されて思考が活性化し、すばらしいアイデアを思いつき、それを伝えたいという衝動に駆られて言葉を発する時、「連発」になる。

〇 「連発」という目前の厄災を暫定的に回避しようと対処する時、「難発」になる。

〇 自分に対して周りの人の期待の度合いが高かったり、逆に低かったり期待が自分に向いていなかったりする時、「吃音」スイッチが入りやすい。

 

 以上のことから、「吃音」が出る時の状況のあらましは分かるが、決定的な状況はないという、あいまいな回答しか得られなかった。それだけ「吃音」というのは何とも手ごわい障害なのである。

 

 さて、そのような手ごわい障害である「吃音」が出ないようにするために、当事者はどのような対処法を取っているのであろうか。この点については、前述したように「難発」という症状は「連発」が起こることを回避するための対処法でもあることをまず押さえておかなければならない。その上で、この「難発」を回避する対処法として紹介しているのが、次のようなものである。

〇 言おうとしていた言葉(例えば、「いのち」)を、直前で同じ意味の別の言葉(例えば、「生命」)に言い換えるという「言い換え」というテクニック。

〇 リズムに合わせたり、役柄を演じたりしながらだと、案外にすらすらしゃべれてしまう「ノる」というテクニック。

 

  「言い換え」はやはり症状としての側面を持っているらしいが、それを症状と感じない人もいるという。また、「言い換え」には、単語から単語への言い換えである「類語辞典系」と、意味を開くような言い換えである「国語辞典系」のパターンがある。さらに、指示語に言い換えるとか、他の人に言ってもらうとかというやり方の「言い換え」のパターンもあるという。とにかく、「言い換え」という対処法は、「難発」がもたらす体との緊張関係を瞬時に更新する力があると考えられるのである。

 

 「ノる」とは単にハイテンションになることではなく、意図と体の間に生まれる独特の関係のことであり、「既成のパターンを使いながら動くこと」である。「吃音」当事者によると、リズムや演技に没頭している間の「ノっている」状態は運動をたやすくするので、「吃音」が出にくいらしいのである。そう言えば、私が担当した「吃音」のある年長の男児も、朝の時間に歌を歌っている時は「吃音」が出なかったように感じた。私もその場面に遭遇した時、不思議な現象だなあと思った。でも、本書を読んで、歌の「変化を含んだ反復としてのリズム」を「刻む」働きが重要だと分かり、多少は「吃音」の不思議の秘密を探り当てたような気になった。

 

 リズムと演技に没頭している時、自分は自分の運動の主人であることから部分的に「降りて」いる。つまり、意識は体が行う運動の主人では決してないのである。そこで問題なのは、この「降りる」の度合いである。確かに「ノる」ことは楽しいことだが、自分の思いとは関係なく勝手に体が動かされたら、とてつもなく苦痛に感じるのではないだろうか。この「ノる」の先にある「乗っ取る」の領域になると、私は「モノ」のような自由を奪われた存在になってしまう。「難発」という「吃音」を回避するために対処したことが、逆に自分を別の苦痛と不安に陥れてしまうことになるのである。「吃音」においては、ここでも一つの現象が「対処法」としての側面と、「症状」としての側面の両方を持つということが起きるのである。「吃音」は、本当に手ごわい障害なのである!

教育相談における「エビデンス」の問題について考える~國分功一郎・千葉雅也著『言語が消滅する前に』から学ぶ~

 12月中旬に、昼休みの時間を利用して散歩がてら職場近くの大型書店へ出掛けた際に、興味深い本を見つけた。それは『言語が消滅する前に』(國分功一郎・千葉雅也著)というちょっとショッキングな書名の新書版だった。私の手は自然と伸びて、本書の目次ページをめくっていた。第一章は國分氏の著書『中動態の世界―意志と責任の考古学―』、次いで第二章は千葉氏の著書『勉強の哲学』の各々の刊行記念対談を活字に起こしていることが分かり、「読んでみたい!」という強い欲求が高まった。さらに、目次ページを捲って「第五章 エビデンス主義を超えて」を見た時に、「現在の私の課題意識と重なっている!」と直感し、本書を購入しようと即決した。それから、暇を見つけては少しずつ読み進め、やっと私にとっての年末休暇に入った昨日、読了した。

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 本書は、2017年以降の両氏の5つの対談が収められているのだが、事前に一貫したテーマが設定されていた訳ではなかったそうである。ところが、5つを合わせて読み返してみると、二人がずっと「言語」を論じていたことが分かり、しかも一貫して「言語の消滅」に対する危機意識が読み取れたので、一冊の本にしようという企画になったらしい。哲学界の若き俊英たる両氏の対談に、私はついつい引き込まれていってしまった。「人間は言語に規定された存在である」という20世紀の哲学の前提が、21世紀に入って危うくなっていることを、様々な事象を多面的な角度から読み解きながら、明らかにしていく対談の展開は、私にとって大変スリリングな小説を読むようだった。

 

 本書をよみながら、私はスマホでLINEを使う時にスタンプや絵文字等を多用し、言葉を使わないコミュニケーション(情動の伝達)を日常化している自分を再発見した。また、メールを書く時も予測変換された言葉をピッピッと選んで文章を綴っていることもある。気が付くと、どんどん言葉を使わなくなっているのである。果たして、そんなに言葉や言語を軽視していていいのだろうか。このままだと、言葉や言語は消滅してしまうのではないか。そんな疑問や危惧を私も強く意識してきた。

 

 私自身、このような事態を今までに無意識的に感じていたので、3年ほど前から当ブログを開設し、自分なりの課題意識に沿って考えたことや、その課題意識に関連した本を読んで思ったことなどを活字にする営みを自分に課した。今、特別支援教育の指導員としての仕事、特に何らかの「困り感」をもつ子どもの適切な学びの場を判定するための書類作成において、このブロクの記事を綴るという経験が生きていると実感している。対象児に関して収集した様々な情報を整理して的確に文章にまとめ、それに基づいて自分なりの考えを活字にしていく業務は、当然のことながら言葉や言語を重視して取り組まなければならないものである。私は今、この仕事にやりがいを実感し、失いつつあった「人間らしさ」を取り戻しているように思う。

 

 ところが、このような今の業務の中で、最近になって疑問を感じることがあった。それは、教育相談の場において何らかの「困り感」をもつ子どもに対する適切な支援内容及び方法等を、その子の保護者や担任の先生にお話するような場面でしばしば感じる疑問である。それは、本書でも使われている端的な言葉で言えば、「エビデンス主義」というものに対する疑問である。

 

 ほとんどの場合、教育相談を受ける対象になる子どもには何らかの「困り感」があり、その背景や原因は通常の基準に比べると知能や発達の遅れが見られたり、何らかの「発達障害」が疑われたりすることが考えられる。中には、既に医療機関で診断名が付いている子どももおり、その保護者は医療機関で出された知能検査や発達検査等の結果報告書を受け取っている。その子の「困り感」によって実施する発達検査や心理検査の種類は違うが、対象児の多くは「WISC-Ⅳ」や「田中ビネー式知能検査Ⅴ」、「新版K式心理検査」「日本版KABC-Ⅱ」等の検査を受けているようである。この検査結果報告書は、対象児の適切な学びの場を判定する際には、その「エビデンス」として重要になるものであり、考えられる支援内容を具体化する上でも有用であることは間違いない。

 

 しかし、何らかの「困り感」をもつ子どもに対する適切な支援内容及び方法等について、その子の保護者や担任の先生にお話しする教育相談の場においては、上記のような検査をしていない場合がほとんどである。したがって、何らかの「困り感」の背景や原因については、指導員の「発達障害」等に関する知見や今まで学校教育、特に特別支援教育に携わってきた経験知に基づいて推察するしかない。そして、対象児の現わす「困り感」の具体的な様態に対して有効だと考えられる支援内容や方法等を対話的に提案するしかないと思う。ところが、現場の先生や指導員の中には「これでは科学的なエビデンスに基づく責任ある提案にはならないのではないか」と考える方もいる。

 

 確かに、検査の専門家が必要とされる科学的な手続きを踏んで実施した知能検査や発達検査等の結果は、数字で明確に示されるものであるから、誰もが認めざるを得ない客観的な根拠になるであろう。医学的な診断においては、これが有力な「エビデンス」足り得るのであろう。しかしながら、教育現場において様々に変化する環境や状況等の中で行う具体的な支援内容や方法等の妥当性の是非は、その「エビデンス」だけでは決定できるものではないと考える。特に学級という集団を単位にして実践される各教科等の授業においては、教材や学習内容や方法等はもちろん、集団のダイナミズムや友達関係の機微等が、対象児の言動に対して大きな影響を及ぼすことは多々ある。また、変化している家庭環境の実態も、直接的・間接的に様々な影響を与えるものである。

 

 だから、私は教育相談の場において上述のようなことも考慮しながら、保護者や担任の先生と必要な情報を交換して、対象児の何らかの「困り感」の背景や原因を共に探っていく。そして、その共通了解に基づいて妥当性があると思われる支援内容や方法等を対話的に提案するという手法を取っている。この手法は、単に発達検査や心理検査の結果という「エビデンス」だけに頼ることなく、関係者の共同主観性を大切にした間主観的判断を示すことになり、それこそが「応答性」に根源をもつ「責任」(responsibility)の引き受け方だと考える。

 

 最後になったが、本書の「第五章 エビデンス主義を超えて」の中で千葉氏が語っている次のような箇所を、私の教育相談の手法やその考え方への応援歌と喜んで受け止めたことを記して、ひとまず今回の記事の締め括りとしたい。

エビデンス主義も結局、一定のエビデンスだとされるものだけを信じていればいいという意味で宗教だし、それを否定すると反科学主義になって、オカルト的なものを信じる宗教になってしまうということですよね。本当はそうじゃなくて、何らかのデータであるにせよ思想にせよ、その有効性の軽重を図って調整することが重要なのに、そういう主張がなかなか理解されづらくなっているんですよ。一つの同じ原理で行動していればいいと思ったら楽だから、どうしてもそうなってしまいやすいわけです。つまり、状況によって判断することの難しさや責任から逃れようとしていると思うんです。その意味でエビデンス主義も法務的発想と同じように責任回避に使われやすい。だけど、状況によってどのエビデンスを採用するかという選択の問題だってあるし、人間は決定的な保証のない判断を引き受けざるを得ないこともある。それをとにかく回避したがる傾向が蔓延しているわけです。…」

 

追伸;年末は二女と孫Mが連泊し、その間に長女と孫Hもやってくる予定なので、当ブログの記事は今回が本年最後になりそうです。公私にわたる私のこだわりだけで綴っている当ブログですが、読者の皆様方には目を通してくださり、ありがとうございました。年始早々に、前回の記事で約束した「吃音」が出る時について『どもる体』(伊藤亜紗著)を読んだり、私なりに調べたりしたことを綴る予定なので、暇な時間ができたら当ブログに立ち寄ってみてくださいネ。では、皆様方、よいお年を…。

どんな時に「吃音」が出るのか?…~重松清著『きよしこ』と重松清・茂木健一郎の対談『涙の理由―人はなぜ涙を流すのか―』を再読して疑問に思ったこと~

 今月18日(土)の夕方、NHK総合1で「吃音」のある少年が様々な経験をしながら成長していく姿を描いた小説を映像化した、土曜ドラマきよしこ』の再放送があった。最近、「吃音」のある年長の男児の保護者から適切な学びの場について教育相談を受けたことがあり、また当ブログで数回前に「吃音」の克服に関する記事を綴ったこともあり、私は興味深く視聴した。原作は、私の好きな作家の一人である重松清氏の同名の小説であり、随分前になるが一度読んだことがあった。ドラマの展開を追いながら、「あー、そんな場面があった、あった!」と呟いた。私は何だか懐かしい思いにとらわれ、もう一度原作を読んでみたくなり、重松清作品が並んでいる書棚から本書を手に取った。

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 主人公は、「白石清」というどこにでもいるような少年だが、幼い頃から「カ」行や「タ」行、濁音と半濁音等でつっかえてしまう「吃音」がある。また、父親の転勤のために何度も学校を変わることになる転校生。だから、転校した日の自己紹介でいつもしくじってしまう。また、自分の言いたいことがなかなか言えないために、いつも悔しい思いをしている。そんな少年が、自分の「吃音」と向き合いながら幼児から小学生、中学生、高校生と成長していく中で、様々な人々と出会い、豊かに交流し、別れていく7つの話が本作品には収められている。

 

 今回、改めて読んでみて、原作の7つの話のうち3つが土曜ドラマには取り上げていなかったことに気付いた。それは、「北風ぴゅう太」「ゲルマ」「交差点」という、小学6年生と中学2・3年生の頃の話。当ドラマを担当した脚本家や演出家の考えによるものなので、私のような素人が批判するようなことではないが、思春期真っ只中の時期の話をなぜ省いてしまったのだろうか。その理由を聞いてみたいと思った。私としては自分の学校生活や教員生活の中でも、心に深く刻まれた記憶である「学芸会の劇」や「野球部活動」、そして「不良生徒との付き合い」と完全にリンクするような3つのお話が、どのように映像化されるのか観てみたかったなあ…。

 

 疑問をもった点と言えば、原作を初読した際には気が付かなかったが、今回再読して新たに疑問をもったことがあった。それは、「一体、どんな時に吃音は出るのか?」ということである。原作の第1話「きよしこ」において、少年が言葉の最初の音がつっかえてしまうのは「緊張や興奮で息を吸い込みそこねた時」、さらに「つっかえたのを無理に吐き出そうとすると、けつまずいて前につんのめってしまうみたいに、最初の音が勝手に繰り返される」と記述された箇所がある。また、第2話「乗り換え案内」においては、市のPTA協議会の副会長が「リラックスしてしゃべればいいんです。気にするから、よけい言葉が出なくなるんです。…」と話す場面がある。私はこれらの内容は本当なんだろうかと思った。

 

 先日、教育相談のために幼稚園を参観した際、「吃音」のある年長の男児は日直の仕事として友達の前に出で発表する時はスムーズにしゃべっていたのに、「じゃんけん列車」という集団遊びに興じた後にうがいをするためにロッカーからコップを取ろうと私の前を通りすがった時、つまりリラックスしていた時に私に向けて「うっ、うっ、運動会のかけっこで、ぼく、一位になったんだ。」とつまって話し掛けたのである。この体験をしたばっかりだったので、私の頭の中は「???」状態になってしまったのである。そう言えば、原作者の重松清氏と脳科学者の茂木健一郎氏との対談本『涙の理由―人はなぜ涙を流すのか―』の中で、重松氏は『きよしこ』における「吃音」が出る時とは、異なることを話していた箇所があったような…。早速、私は本書を書斎の書棚にある重松清コーナーから取り出し、ぱらぱらとめくってみた。「あった、あった!」32ページから33ページにかけた、次の箇所。

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重松:社会的に言葉を発するときは、自分で言葉を選んでいると思うんです。「言葉を選ぶこと」は、僕はそれをずっとやってきてから、けっこうスムーズなのね。でも、「ざっくばらんに」とか、「思ったことをすぐにしゃべるような関係」になったときのほうが、つっかえるの。

茂木:「吃音がなぜ起きるか」というと、「無意識に行っている発語行為を、意識的にコントロールしようとするから」という説が有力です。だから「普通にしゃべっているときのほうが吃音が起こりにくい」というのが一般的な認識です。しかし、重松さんはそうじゃないのが面白い。…

 

 この件を読むと、重松氏の「吃音」が出る時は特別な事例になるが、本当にそうなのだろうか。先の年長の男児も特別なのだろうか。「吃音」は緊張した時に出るのか、それともリラックスしている時に出るのか。一体、どっちなのか?

 

 今日は本県においてこの冬一番の冷え込みがあり、全国各地も厳しい寒波が襲っているようだが、私の頭は今、???の嵐が吹き荒れている。この疑問については、この年末休暇の間に自分なりに調べ何とか解決して、すっきりした気持ちで新年を迎えたいなあと思っている「今日の心」であります。

保護者との教育相談で心掛けていること~宮口幸治著『どうしても頑張れない人たち―ケーキの切れない非行少年たち2―』から学ぶ~

 10月になって学級担任が変わったことがきっかけになり、授業中に多動性や衝動性が強く現れるようになり、自学級では対応できない状況になったので、一時的に隣のクラスに入って学校生活を送っているという児童に関する教育相談を、私が主になって担当することになった。いつものように、学校へ出掛けて対象児の授業中の行動観察をし、それに基づいて学級担任や特別支援教育コーディネーターなどの先生方との教育相談をして、それらを踏まえた上で対象児の保護者と教育相談をするという一連の流れで業務を遂行していった。その際の保護者との教育相談で、私自身がいろいろと心掛けたことを整理しておくことが必要だと思うようになった。その訳はこれからの教育相談にも生かされるし、他の指導員たちにとっても多少は参考になると考えたからである。

 

 何らかの「困り感」をもつ子どもの学級担任や保護者に対して、私は基本的に対象児の行動観察や発達検査等に基づいてその子の性格や認知等の特性を掴み、それに応じた適切な支援内容や方法等を様々に検討し決定してから教育相談に当たっているが、それが単に一方通行による伝達的な面談にしてしまってはいけないと考えている。では、どのようなことに心掛けることが大切なのか。私なりの考えはおぼろげながら持っていたが、それを明確に自覚するきっかけになったのは、前回の記事で取り上げた『ケーキを切れない非行少年たち』(宮口幸治著)の続編になる『どうしても頑張れない人たち―ケーキの切れない非行少年たち2―』を読んだことが大きい。

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 そこで今回は、本書を読んで学んだことをまとめながら、私なりの「保護者との教育相談で心掛けていること」を明確に示したい。読者の皆さんにとっては身近にいるかもしれない「頑張ろうとしても、どうしても頑張れない人たち」を支援する人をさらに支援する際の参考になるのではないかと思う。ぜひそうなってほしいと願いつつ、以下、筆を進めたい。

 

 本書の出版については、著者が前著を書いている最中から構想していたらしく、「境界知能」の範囲にいる人たちは、その後、どう生きて行けばいいのか、社会はどう支援していけばいいのかという観点で、次のような構成で書かれている。まず第1章を全体の概要を掴むための羅針盤のように位置付け、第2~8章では「どうしても頑張れない人たち」に対する支援内容や、その支援者に対する支援内容等について具体的な提案をしている。その中で、私が特に参考にしたのは、「第7章 支援する人を支援せよ」の内容である。次に、第7章から特に参考にしたことと私なりの視点から付け加えたことを箇条書きにし、私が「保護者との教育相談で心掛けていること」を整理して示しておこう。

 

〇 子どもを支援する上で一番の効果的な支援は、その子の保護者に“この子のために頑張ろう”と思ってもらうこと。

〇 保護者のために、場合によっては保護者自身の話を“じっと聞いてあげる”ことや“保護者の苦労を労う”などの保護者の頑張りをサポートすること。

〇 こちらからの一方的な話ではなく、保護者の思いや願いを聞きながら、双方向的な対話を通して今までの支援内容や方法等を改善したり、足らなかった支援内容を付け加えたりする提案になるようにすること。

〇 基本的に保護者のやり方を否定しないようにすること。

〇 無理に保護者を変えようとせず、子どもの成長を目標にして、家庭と学校が連携を図ってよりよい支援をしていくような方向で話し合うこと。

〇 保護者の行き詰まっている場合は、自分が ①戦う(子どもに負けないように強く叱る。誰かのせいにする。) ②逃げる(子どもの問題に気付かないふりをする。仕事などに没頭する。) ③固まる(子どもの言いなりになる。甘やかす。)のいずれかの状態になっていないかと気付いてもらうこと。

〇 保護者には子どもにとって、①自分の“困り感”について理解して支えてくれる「安心の土台」 ②目標にチャレンジしたい時に見守ってくれる「伴走者」になることが大切だと認識してもらうこと。

 

 第7章の中で著者は、保護者が今までの自分のやり方を反省して変わったと思ったきっかけはどんな時だったかについて語ったことを、次のように紹介している。

(1) 保護者自身の体験が認められた時

(2) 信頼できる人が見つかった時

(3) 子どもに変化が見られた時

(4) 子どもにとっての自分の役割が分かった時

最初に触れた事例において、私は保護者との教育相談がせめて上記の(1)(2)(4)になってほしいと臨んだ結果、予想以上に保護者は前向きに受け止めてくれたので、大きな達成感と充実感を味わうことができた。このことによって、今の仕事がもつ“やりがい”を強く意識することができ、モチベーションが大いに上がった。今後も本書から学んだことを生かして、保護者との教育相談に臨んでいこうと改めて心に誓った次第である。