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「人生・生き方」「教育・子育て」「健康・スポーツ」などについて考え、雑学的な知識を参考にしながらエッセイ風に綴るblogです。

弱い心を癒してくれそうな「珈琲屋」の熱いコーヒーを飲んでみたいなあ!~池永陽著『珈琲屋の人々―どん底の女神/心もよう―』を読んで~

    つい2週間ほど前まで夏日が続いていたと思っていたら、最近は最低気温が10℃を下回る日があり、あっという間に晩夏から晩秋、いや冬になってしまった感じがする。もうこの時期なので、当然と言えば当然なのだが・・・。日本の四季は本当になくなってしまうのだろうか。我が国に長く伝えられてきた季節に対応した繊細な感性や情緒性は、衰えていってしまうのだろうか。俳句の季語は、どのように変化していくのだろうか。近年の地球温暖化に伴う異常気象の影響は、日本人の精神性や文化の在り方まで根本的に変化させるのかもしれない…などと、取り留めのない思いを転がしてしまう。

 

 結局“読書の秋”を味わうことがなかった今週初め、私は気軽に読める現代小説の世界に浸ってみたいという気分になった。さて、何を読もうかと迷っていたら、「寒くなってきたら、熱いコーヒーが飲みたくなるなあ。そうだ、熱いコーヒーが象徴的に描かれているあのシリーズの小説を読もう。」と、心の中で自然に呟いていた。勘のいい読者の皆さんなら、もうお分かりですよね。そうです、池永陽の『珈琲屋の人々』シリーズです。私は、シリーズの3冊目まで(サブタイトル2作目「ちっぽけな恋」、3作目「宝物を探しに」)読んでいたので、今回は第4作目「どん底の女神」、第5作目「こころもよう」を読むことにし、いつものように寝床の友にしてここ数日間を過ごして、昨日読了した。

 そこで今回は、その2作品の簡単な内容概要と私なりのワンポイントの読後所感を綴ってみようと思う。

 

 本シリーズの主人公は、総武線沿線の商店街にある喫茶店「珈琲屋」を営む宗田行介。行介は、過去に義憤にかられて人を殺め、8年間の懲役に服した過去を持っている。そんな行介の幼馴染であり、同じ商店街で「アルル」という洋品店を営むプレイボーイの島木、そして行介と過去に付き合っていた「蕎麦屋・辻井」の一人娘で、今でも行介のことを愛し続ける冬子が、「珈琲屋」の常連客であり本シリーズのレギュラーである。本シリーズは、そんな店にやってくる様々な闇や事情を抱えた人々の物語と、行介と冬子の物語を絡ませて描いたものである。

 

 「どん底の女神」では、「イル」という犬と一緒に河川敷の茂みの中のトタン屋根の仮設小屋で暮らしている67歳になる元ホテルマンの米倉、一重瞼の細い目ゆえにあだ名をつけられ突然いじめのターゲットになった女子高生、父親から虐待を受けて育ち今ではほぼ引きこもり状態になっている40代の男、誰をも惹きつける笑顔だけして取り柄のない自分と向き合うことを拒み自ら「ニート」と名乗っている27歳の青年、夫の浮気を疑い自分も年下の男と浮気をして夫に復讐しようと目論む42歳の女、中期の胃癌だと宣告された47歳のサラリーマン、半グレ集団の男から否応なしに犯罪に加担させられている自称医大希望の女子受験生が主人公になっている。そんな現代の社会問題を映し出すようなドラマの主人公たちが、殺人という罪を犯した行介が営む「珈琲屋」へやってきて、熱いコーヒーを飲む。私は、その場面を想像するのが好きである。

 

 また「心もよう」では、馴染みの三人のメンバーに、刑務所で行介と出会い、行介を兄貴と慕う順平と、『伊呂波』という曰くつきのおでん屋の新しい女将になった理央子が加わる。行介は、この新しい二人のメンバーの目に似たような暗い眼差しを感じる。そして、実際に二人には暗い過去の秘密があり、そのドラマの顛末は巻頭の「それから」とそれと呼応する終章の「これから」を中心にして展開されているので、未読の読者はぜひ楽しみに読み進めて行ってほしい。また、それ以外の「年の差婚」や「女同士」「商売敵の恋」等では、やはり現代の社会問題に因んだドラマが描かれている。そして、それぞれに悩みや闇を抱えた主人公たちは「珈琲屋」を訪れる。その訳は、殺人を犯した行介を見に来て、自分の中にある暗い闇を何とかしたいからである。それに対して、行介は悩み苦しむ人々が、自分のように殺人を犯してしまわないようにと願って、店自慢のブレンドコーヒーを「熱いですから」という朴訥な一言を添えて出すのである。

 

 私は、この熱いコーヒーこそ行介の心の中にある“熱い思い”を象徴していると思う。だからこそ、本シリーズ名は「珈琲屋の人々」なのではないか。私もたまに他人を羨んだり憎んだりする弱い心になりそうな時がある。そんな時には、私の弱い心を癒してくれそうな「珈琲屋」の熱いコーヒーを飲んでみたいなあ!寝床の中で本シリーズの第4作目と第5作目を読みながらウトウトしていると、私が「珈琲屋」のカウンター席に座って、行介の出した洒落た柄のあるコーヒーコップを両手で包み込むように持って、熱いコーヒーを少しずつ啜っている場面が頭の中に浮かんでくる。これが正夢になったら、どんなに幸せな気分に浸ることができるだろう・・・。

「探究」に関する講演を拝聴しての所感あれこれ~藤原さと著『協働する探究のデザイン―社会をよりよくする学びをつくる―』を参考にして~

 11月19日(日)の午前中、愛媛大学教育学部2号館の4階多目的講義室を会場にして開催されたSDGs研修会の講演「協働する探究のデザイン―すべての教師が大切にされる探究―」を拝聴することができた。講師は一般社団法人「こたえのない学校」代表理事で、『協働する探究のデザイン―社会をよりよくする学びをつくる―』の著者である藤原さと氏。私は今回の研修会の案内チラシを初めて見た時に、「探究」という学びに関する基礎的な知識や具体的な実践例を知りたくなった。そこで、早速、本書を購入して目を通してみた。すると、さらに「探究」という学びについての興味がますます沸き、初めて愛媛県へ来るという著者の講演を直接聞いてみたいという思いが募って、今回拝聴する機会を得たというわけである。

 そこで今回は、この研修会で拝聴した講演の中で特に私の心に残った内容の概要と、その所感をまとめてみようと思う。自分勝手な解釈が大いに含まれた記事になると思うが、できるだけ私なりに率直な感想や意見を綴ってみたい。

 

 まず講演の最初の5分間ほどを使って、藤原氏は参加者にマインドフルネスを実体験してもらう「静かな時間」を設定した。このわずかな時間に私は心身共にリラックスした状態になった。藤原氏の娘が小学校1~3年生時に学んだアメリカの公立小学校でも、このような「静かな時間」を授業前に取り入れているらしい。先日私が参観した市内のある小学校の3年生の授業が終始騒々しい感じだったので辟易していたところだったからか、「これ、これ!こういう心身共にリラックスできる静かな時間が、小学校の授業にも必要だよなあ。」とつい呟いてしまった。

 

 続いて、藤原氏は本日の講演内容のプロット説明と簡単な自己紹介をされたが、その中で「こたえのない学校」の一番の使命は「良質な探究学習の一般普及」と語ったことが、私の心に強く刻印された。その理由は、今から30年ほど前に私が愛媛大学教育学部附属小学校に勤務していた時に、活動(経験)単元による総合学習=探究学習の実践的研究を積極的に進めながら一般普及に努めていたが、思うように成果を上げることができなかったという反省があったからである。私は、「こたえのない学校」の取組内容に関心をより高めた。

 

 次に、藤原氏は「探究とは何か」というテーマで話されたが、その中で私がハッとしたことがあった。それは、「探究による学び」と「探究的な学び」の違いについてである。内容としては、「探究による学び」とは偶然性に基づく発生的な学びを意味するが、「探究的な学び」とは結果を想定した予定調和的な学びを意味する。「探究的な学び」を否定するのではないが、教師がそれを自覚して取り組むことが必要であるというような主旨であった。私は、現職の時に各教科の学習指導においても、できるだけ「探究」の過程を尊重した展開を心掛けてきたが、それは「探究による学び」ではなく「探究的な学び」になってしまっていたのではないか。私の胸にチクッと針が刺さった感じが残った。この点について、もう一度自分の教育実践に関する深い省察が必要だと思った。

 

 さらに、「協働する探究の基本構造」というテーマに関する内容で、「探究」の定義には様々なかたちがあるが、それらを包括する優れたものとしてジョン・デューイによる定義を意味付けられ点が私にとって大変納得できるものであった。デューイは、『論理学』の中で、「探究」を「不安から安心への移行」と表現した。そして、これを具体的な過程でとらえると、「不確定な状況」からスタートし、「問題的状況」を経て「提案・計画」に取り組み、「確定的状況」へ至るというスパイラルな流れとして表される。このデューイの定義は、学習指導要領の「総合的な学習の時間」の探究の過程として示されている「課題設定」→「情報収集」→「整理・分析」→「まとめ・表現」においても妥当するものであろう。

 最後に、もう一つ私の心にまだモヤモヤした内容として残っていること、矛盾した表現になるが私の心にぼやっとした残像を明確に残している内容にも触れたい。それは、「概念を使った探究のデザイン」というテーマで話された、アメリカの教育者であるリン・エリクソンが提起した「知識の構造」に関する理解である。エリクソンは、知識を深め知力を発達させる鍵は「低次の思考(事実レベル)」と「高次の思考(概念レベル)」の双方の思考の相乗作用にあると言い、それを「知識の構造」と称する図にして示した。藤原氏は、この図を10年前に見て衝撃を受け、「探究」の世界に足を踏み入れるきっかけとなったと語った。そして、「低次の思考」は事実に関する知識のことで、事実の記憶やトピックの調べ学習によるものであり、「高次の思考」は概念型の取組のことで、「低次の思考」を概念化・一般化・原理化することであり、それは学習を転移するものになると説明した。その上で、次のような「概念を使った探究のデザイン」のポイントを示した。

 

 「概念をベースとした探究学習の設計」のポイントは、「低次の思考」と「高次の思考」を確実に切り分けるとともに、概念とトピックをしっかり分けて考えることが非常に大事になる。ここでは、「低次の思考」は浅い学び、「高次の思考」は深い学びと言い換えてよい。また、概念はトピックから引き出された思考の構築物であり、「時間と空間を超えたもの」という性質をもつものである。つまり、トピックはある時期に、ある特定の場所で起きたことであり、概念は時空間を超えた抽象度の高いことである。例えば、恐竜はある時代のある地域に栄えた生き物であるから、トピックである。その恐竜に関わる事実をまとめ上げる作業は「調べ学習」と言われるものであり、低次の思考の分類に入る。しかし、ここに「絶滅」という概念が入ってくると、私たちは絶滅危惧種のことや人間のもたらす影響等、概念レベルに思考を高度化することになる。ここに、概念を「探究」のカリキュラムに活用することのメリットがあるのである。

 

 確かに、概念を活用するとクラスの誰にとっても自分事の問題として、一緒に考えていくことができる架け橋のような役割を果たすであろう。そして、他人事だと思っていた絶滅危惧種のことを自分事として感じ取ることができるようになっていくかもしれない。このことが他者や世界と繋がる学習の転移を起こすことにも発展すると思われる。しかし・・・。私は抽象的な思考が苦手な特性をもつ学習障害のある子どものことを考えてしまう。「探究による学び」の意義とそのデザインの在り方については理解できるが、その具体的な実践化においてはまだまだ様々な工夫が必要なのではないだろうか。

 

追記:12月15日(金)の18:30~20:00に愛媛大学教育学部附属小学校の1年教室を会場にして開催される「愛媛の探究をつくる会」では、「探究による学びを探究する」というテーマで、哲学対話の手法を活用した話合いの場を設定する予定である。その場で、私は今回の藤原さと氏の講演から学んだことや疑問に思ったことなどを提起して、それに対する他の参加者から様々な意見を聞いてみたいと思った。何だがワクワクしてきた。多くの方々が参加してくれることを願いつつ、今回はこの辺で筆を擱きたい。

江戸時代の村医者の矜持に共感!~青山文平著『本売る日々』を読んで~

 11月に入って、喉の痛みや鼻づまり、肩こりなどの花粉症のような症状が起きて、ついには声が出なくなってしまったので、2日(金)の午前中に年次有給休暇を取ってかかりつけの耳鼻咽喉科で診てもらうと、何と「風邪だ。」と言われた。この2~30年ほど風邪を引いた記憶がなかったので、「えっ、本当?」と正直思った。でも、よくよく考えてみると、10月最後の土・日に我が家を訪れていた二女たちは微熱を伴う体調不良の状態だったので、もしかしたらその際に何らかの風邪の原因となる細菌かウイルスが感染したのかもしれない。

 

 ともかくも、私は11月3日(金)~5日(日)の3連休中、医師から処方された薬を正しく服用しながら、不要不急な(懐かしい言葉!)外出は避け二階の和室の布団に横になって自宅療養をしていた。幸いにも、各種の症状は徐々に軽減してきたので、10月末に市立中央図書館から借りて読みかけていた『本売る日々』(青山文平著)を思い出し、寝床での読書を再開することにした。そして今朝方、読了した際、何とも言えぬ清々しい気分に浸ることができた。

 そこで今回は、その理由について本書の内容紹介の概要も加えながら綴ってみようと思う。

 

 著者は、2016年に『つまをめとらば』で第154回直木賞を受賞した青山文平氏。私の好きな時代小説作家の一人である。『白樫の樹の下で』『伊賀の残光』『鬼はもとより』『かけおちる』『約定』『半席』『春山入り』『励み場』『遠縁の女』『底惚れ』『江戸染まぬ』『跳ぶ男』『泳ぐ者』等を読み継いできて、私は青山氏が描く江戸中期の成熟した時代の中で、懸命にもがきながら生きる人々の姿に大いなる共感を覚えるのである。

 

 本書も、江戸期のあらゆる変化の担い手である在の人々の生活や人生を、本を行商する本屋の私(松月平助/松月堂店主)を語り部にすることで、赤裸々に生き生きと伝える青山流時代小説である。本の版元になること=開版が密かな夢である主人公の平助が、小曽根村の名主・惣兵衛を訪ねた時に起こったある事件とその顛末を描いた「本売る日々」と、「鬼に喰われた女(ひと)」「初めての開板」の3編からなっているが、私は最後の「初めての開板」の中に登場する佐野淇一(きいつ)という医療現場に立つ村医師の矜持を示す言葉に強く共感した。

 

 それは、平助が医療現場で得た知見を惜しみなく門人たちに教える淇一に対して、苦心を重ねて辿り着いた成果は当家の秘伝として御子息にしか伝えないものではないのかと問う場面で、淇一が発した次のような言葉である。

「医は一人では前へ進めません。みんなが技を高めて、全体の水準が上がって、初めて、その先に踏み出す者がでるのです。そのためには、みんなが最新の成果を明らかにして、みんなで試して、互いに認め合い、互いに叩き合わなければなりません。それを繰り返していくうちに、気が付くと、みんなで、遥か彼方に見えた高みに居て、ふと、上を見上げると、もう何人かは、それより高いところに居ることになるのです。一人で成果を抱え込むのではなく、俺はここまで来た、いや、俺はそこよりも先に居ると、みんなで自慢し合わなければ駄目なのです。」

 

 現代医学においては当たり前の認識であろうが、でもどの分野でも共通した認識かと言えばそうでもないと私は思う。私たちは、この江戸時代の村医者の矜持をもう一度見直してみることが大切なのではないだろうか。風邪を引いて自宅療養をしていた身の私にとって、この言葉は服用していた薬の効用を裏付ける認識でもあると強く実感した。身体の健康と共に精神の健康をも取り戻したような、清々しい読書体験になったことが嬉しい今日この頃である。

やっと教員対象の哲学対話にチャレンジできるぞ!~河野哲也[編]『ゼロからはじめる 哲学対話』から学ぶ~

 やっと秋の気配を実感するようになったと思っていたら、10月も下旬になっていた。仕事関係では初旬から「就学児を対象とした秋の教育相談」の運営を行う事務局の業務に追われたり、自身が相談担当をして審議資料を作成したり、中旬には「特別支援学級に在籍する子ども対象の体育大会」の準備や当日の運営等の業務もあったりした。また、その間にも各学校への訪問相談をする業務をこなすなど、何かと慌ただしい日々が続いていた。

 

    また、私的にも孫Hの「秋祭りの提灯行列」や「小学校の運動会」等の行事に参加したり、新居浜市の住んでいる孫Mの所へ行って一緒に遊んだり、また、市教育会の地区支部長の立場で来賓として校区中学校の体育大会へ参加した際に出会った県議会議員の方や近隣の県立高校の校長先生との面談も急遽行うこともあって、休日にゆっくりと休養を取ることはできなかった。さらに、運転免許証の更新手続きや自家用車の定期点検等への対応にも追われ、その上に10月19日(木)が私の満69歳の誕生日だったので、毎日が本当に目まぐるしく過ぎていく感じであった。

 

 そのような公私共に多忙な日々の中で、新たな行動目標を見つける出来事があった。それは、10月6日(金)の夜に開催された「愛媛の探究をつくる会」に久し振りに参加して帰る際に、主催者の0先生から「12月の当会で、探究的な学びに関する哲学対話のファシリテーターをしてほしい。」と依頼されたのである。その時、私は「やっと教員対象の哲学対話にチャレンジできるぞ!」と心の中で叫んだ。というのは、私が「哲学対話」について初めて知り、できれば自分がファシリテーターとして実践してみたいと考え出したのが約4年前であったが、今まではコロナ禍で実施することができなかったり、私自身がフルタイムの仕事を続けて来ていたのでその機会を作れなかったりしたために、なかなかそれを実現することができなかったのである。

 

 今回の依頼は、私のその願いを実現するよい機会である。私は、今までに読んできた「哲学対話」に関する書籍を読み直すとともに、しばらく積読状態にしていた『ゼロからはじめる 哲学対話』(河野哲也[編])をわずかな時間を見つけては読み継いできた。そして昨日、本書を読了したので、今回の記事はその所感をまとめてみることで、初めての「哲学対話」のファシリテーターとしての予習代わりにしてみようと思う。

 本書は、哲学カフェや子ども哲学をこれから実施してみたいと考えている人や、すでにそれらを実施しているけれど、いろいろと疑問を抱いていたり上手くいかないで悩んでいたりする人に向けて書かれた「哲学プラクティス・ハンドブック」である。特に哲学対話を誰もが参加しやすく、互いに理解しやすいように、その場を円滑にする司会役である「ファシリテーター」を初めて担う私のような者にとって、目的に応じた哲学対話を開催・運営するためのノウハウが詰まった内容は、大変に参考になる一冊である。そのような本書の中で、私が一番参考になったのは「第3章 対話の実践方法/3 対話の進め方・終わり方」だった。

 

    そこで、特に参考になった内容を以下に要約してまとめておきたい。

【対話の始め方】

〇 「ファシリテーター」は、対話を主導したり指導したりするのではなく、あくまで主役である参加者の対話のサポートをする。

〇 哲学対話に初めて参加する人が多い場合、まずは哲学対話とは何か、哲学対話では何をするのかを簡単に説明するとよい。また、対話のルールや心得えを用意している場合は、ここで説明する。

〇 対話を始めるに当たって、緊張をほぐして和やかな雰囲気をつくるための簡単なウォーミングアップ(席替えや問答・質問ゲーム、コミュニティーボールを使った自己紹介等)を行ってもよい。

〇 ウォーミングアップ後に、テーマは決まっていない場合やテーマは決まっているが問いが決まっていない場合はテーマや問いを挙げ合うようにする。

〇 問いがいくつか出たところで、参加者の了解を得て挙手による多数決か、「ファシリテーター」の判断かで決める。問いは一つに絞る方が賢明である。

〇 時間があれば、その問いをめぐって各自が思い浮かべることや関連する個人的な経験を述べ合うと、地に足の着いた対話を進めることができる。

【対話の進め方】

〇 参加者が主役で、参加者の間で対話が成立することが主目的である。

〇 「ファシリテーター」は参加者の発言を丁寧に受け止めながら、徐々に参加者の間で対話が成り立つようにもっていく。

〇 参加者の発言が活発でない場合、一人一人に「いかがですか。」「ご意見はありますか。」「どう思われますか。」などと発言を促したり、順番に発言してもらったりなどするのもよい。

〇 逆に参加者の発言が活発すぎる場合、「ちょっと待ってください。」「もう少しゆっくり行きましょう。」などと対話の速度を緩めたり、「もう一度言っていただけますか。」と言い直しを求めたり、「それは~ということでしょうか。」と内容を確認したりするのもよい。

〇 「ファシリテーター」は対話に関する責任をすべて負う必要はなく、必要があれば対話の進行に関する対話(メタ・ダイアローグ)をしてもよい。

【対話の終わり方】

〇 哲学対話は結論の出ないまま終わる(オープンエンド)のが普通である。そのため「終了時刻が来たから終わります。」と宣言して、唐突におわることがほとんどである。

〇 時間的、心理的に余裕があれば、「今のもやもや感を大切に持ち帰って、考え続けてください。」という言葉を添えるなど、終了後も考え続けるような終わり方を工夫するとよい。

〇 十分に時間があれば、対話に関する対話(メタ・ダイアローグ)のためにまとまった時間をとるのもよい。対話の内容や展開の確認だけでなく、「ファシリテーター」の進め方に対する疑問や、対話が面白かった/面白くなかったのはなぜかなど、対話の在り方に関する振り返りをすることもできる。

 

 12月に開催予定の「愛媛の探究をつくる会」における哲学対話のテーマは、「探究的な学びについて探究する」である。問いについては、私なりの腹案はあるが当日参加された方々から出してもらった問いから選ぼうと考えている。何分、「ファシリテーター」をするのは初めてなので、どのような哲学対話になるか不安であるが、上述した内容を踏まえて参加者の方々と哲学対話を楽しむようにしていきたいと考えている。実際の哲学対話の概要については、改めて当ブログの記事で紹介したい。乞うご期待!

「サバァン症候群」と「ギフテッド」について考える~柚月裕子著『月下のサクラ』を読んで~

 9月下旬になったのに、まだ真夏日が続いている。朝晩は少しの冷気を含んだ空気になり、微かな秋の気配を感じるようにはなっているが、それでも日中は残暑が厳しい。日本の四季は、本当に夏と冬の二季になってしまうのか。季節の移ろいを楽しむ気分に浸ることができない。また、この老齢の身には連日の残暑は身体にも響いてくる。ましてや先週、先々週の勤務は、週5日間のフルタイムだけではなく、時間外勤務時間も多く激務だった。午前中は何らかの「困り感」をもつ子どもたちの行動観察をするために授業参観に出掛け、午後は夕方から担任や保護者との教育相談のために学校訪問をするという毎日だった。本当に心身共に疲労困憊!

 

    また、16日(土)は孫Hの授業を参観。毎年この時期に実施される人権教育をテーマにしたものであり、参観した授業は道徳科の「はしの上のおおかみ」という「親切」という徳目を主題とした人権教育定番のものだった。Hが3度も自分なりの思いや考えを発表する姿を目の当たりにして、嬉しいやら安心するやらついつい表情が崩れてしまった。続いて、17日(日)~18日(月)は、孫Mが二女とともに我が家へ遊びに来た。日曜日は郊外にある「こどもの城」へ連れて行き、園内を走るバスやトレイン、てんとう虫のモノレール、月曜日は近くの高島屋の屋上へ行き、観覧車「くるりん」や機関車トーマスの遊具などに一緒に乗って楽しんだ。孫と一緒に遊べる楽しさに勝る時間はないが、身体は悲鳴を上げる寸前だった。

 

 そんな中、心身のリフレッシュを図ろうと、この一週間ほどで久し振りに柚月裕子氏のミステリー小説『月下のサクラ』を堪能した。本作品は、以前の当ブログの記事でも取り上げた『朽ちないサクラ』の続編にあたるものである。前作品でストーカー殺人に絡んだある理不尽な事件を、警察学校の同期である3歳年下の磯川刑事と連携して独自の調査を進めて真相を明らかにしていく、米崎県警広報広聴課の事務職員だった森口泉が、本作品では自分が警察官になるという決断を実行して巡査になり、さらに自分の特技を生かすために米崎県警捜査支援分析センターの機動分析係配属を希望し、それを実現していく場面から物語は始まる。

 今までなら、ここで物語のあらすじを紹介するところであるが、今回はそれを省略する。なぜなら、記事の内容がどうしても私の筆が滑ってネタバレすれすれになることがあったので、未読の読者を興醒めにさせてしまうことになってはならないと自戒したからである。ぜひ森口泉の成長した姿を自分の目で確かめてほしいし、警察内部に巣食う不条理な倫理を炙り出すスリリングなミステリー展開の醍醐味も味わってほしい。

 

 では、今回の記事のテーマは何か。それは、泉の特技に関連することである。本作品の中で、このような描写がある。・・・泉は画面を凝視する。人物の動きが、脳に刻まれていく。動きを目で追っているわけではない。目に映るものがそのまま記憶される。脳内に焼き付いた映像を、意識があとから理解していく。そんな感じだ。・・・この類まれな映像記憶力という泉の特技は、発達障害をもつ人の中に時々見られるある特性を思い出させる。そう、「サバァン症候群」という特性である。

 

 「サバァン症候群」というのは、自閉スペクトラム症 や知的障害をもつ人々の中に、ある特定の分野において驚異的な能力を発揮する人のことである。例えば、音楽や絵画、数学、記憶力等の分野で、通常の人よりも優れた能力を発揮することがある。私が仕事上で最近出会った自閉スペクトラム症をもつ6年生Aは、この「サバァン症候群」だった。その子の優れた能力は、一度YouTubeで見たデザインのような模様を写真のように記憶していて、それを自分でそのまま再現するように描くことができるものだった。私が休み時間の様子を行動観察していた時、Aはそれを趣味の一つのように喜々とした表情で行っていた。私はつい「すごいね。まるで何かのデザイン画のようだ!」と素っ頓狂な声を発してしまったぐらいである。

 

 ところが、Aの保護者と面談した時、シングルマザーの母親はAのこの優れた能力よりも、健常児と同じような学力の方を重視して、進学する中学校で通常の学級に在籍させて受験勉強に力点を置くことを強く主張した。私は、Aのこの優れた能力を生かすことができる職業を見つけて将来就労することが本人の充実した人生につながると話した。しかし、母親は私の話には全く耳を貸さず、自分の考えを主張し続けることに終始した。私は残念な思いを残して、帰路につかざるを得なかった。「サバァン症候群」の人が生き生きとした人生を歩んでいくことができる社会的な環境は、まだ十分だと言えないかもしれない。しかし、徐々に整ってきているのは事実である。もっと「サバァン症候群」の人のことを第一にした子育てを!

 

 次に、この「サバァン症候群」と似て非なるである「ギフテッド」という特性について触れたい。「ギフテッド」とは、英語のgiftedの単語に由来しており、「天賦の才を持つ人々」という意味で、同世代の子どもよりも先天的に高い能力を持っている人のこと。「ギフテッド」の人は、特定の学問や芸術性、創造性、言語能力などにおいて高い能力を持っているのである。私の同僚が最近出会った小学校1年生Bは、「ギフテッド」だったらしい。「ギフテッド」の人が持つ能力を最大限発揮させるためには、その子の特性に配慮した特別支援教育が必要になるのだが、残念ながら現在の我が国の学校教育の現場では十分に保障されてはいない。Bは1年生の各教科の学習内容が簡単すぎて退屈で仕方がないので、登校を渋っているらしい。父親は、Bが自分の能力に合った課題に取り組むことができるような環境調整ができないかと相談してきたそうである。残念ながら、現在の我が国の教育現場で「ギフテッド」の子に対して適切な教育環境を整えることができる学校はまだ少ないと思う。

 

 「サバァン症候群」と「ギフテッド」の子どもたちに適切な教育環境を整えることも、我が国の特別支援教育を充実していくためは必要だと強く感じる事例が最近重なったので、過労気味にもかかわらず今日はパソコンに向かったという次第である。

夫が妻を介護する老老介護について考える~上野千鶴子著『男おひとりさま道』から学ぶ~

 前回の記事では、『妻の終活』(坂井希久子著)という小説に触発されて、「男おひとりさまの老後を見据えて」の対応について自分事としてとらえ考えたことを綴ってみた。その中で、今後自分がおひとりさまになった時を想定してみると、今から精神的かつ生活的自立を図っておくことの大切さをしみじみ痛感した。また、まだまだ様々な対応についても考える必要があると思い、そのために参考になりそうな本を探し始めた。すると、上野千鶴子氏のベストセラー『おひとりさまの老後』の続編ともいうべき、その名も『男おひとりさま道』という本を見つけた。前作と比べて、内容的にはほとんど重複するところはない。両者の出版のあいだにある2年間に、著者はさらに取材したり研究したりして新しい情報を得ており、自分の考えをより進化させていたのである。

 本書は、男おひとりさまの老後について様々な視点から取り上げた内容が満載で、私の関心事に応えてくれる内容であった。全体の構成は、「第1章 男がひとりになるとき」「第2章 下り坂を降りるスキル」「第3章 よい介護はカネで買えるか」「第4章 ひとりで暮らせるか」「第5章 ひとりで死ねるか」となっており、私はなるほどなあと唸りながら読み通すことができた。そして、その中で改めてハッとして読み返した箇所があった。それは、男おひとりさまになる前の、私があまり措定していない状況に対する対応である。具体的に示すと、妻が何らかの事故や病気によって寝たきりになり、私がその介護をしなければならなくなった状況である。

 

 というのも、たまたま今夜観ていたNHKEテレのハーネットTV『特集「意識不明」を生きのびて(1)/回復を信じて』の中で、病気が原因で意識不明になった妻の介護を続けている50代の男性を密着取材したドキュメントがあり、死別の番狂わせだけでなく、介護の番狂わせだってあるとリアリティをもって私は自覚したからである。でも、私に妻の介護を責任もってすることはできるのだろうか?妻に言わせると、「夜も熟睡できない介護生活はあなたには無理!」と言われた。そこで、私は本書の第1章の中にある「男が介護を引き受けるとき」の文章を再読して、改めて自分の在り方について考えてみることにした。

 

 著者は、2012年版(今からもう10年以上前だが・・・)の高齢社会書の中で同居の家族介護者の30.6%が男性であると知って、驚いたと言っている。つまり、在宅で家族を介護している人の3人に1人近くが男性なのである。続柄でみると、一番多いのが「夫」、次が息子、婿は皆無に等しいらしい。また、夫婦世帯の妻の側からも、希望する介護者の続柄として、娘や嫁よりも「配偶者」の優先順位が高くなったという。だだし、この選択は夫婦関係がよい場合に限るらしい。この点、私たち夫婦は仲が良い方だと思う(私だけがそう思っているのかもしれないが・・・)ので、私が介護することを妻は拒否しないのではないかと思う。でも、問題は実際に老老介護を私が担うことができるのかである。

 

 本書の文章に戻ろう。高齢の夫婦の場合、定年後の夫は妻が要介護になると、使命感を感じて、「おれの出番!」とばかりに頑張ることがあるらしい。長年の仕事で培ったノウハウや経験を生かし、妻の服薬管理や生活管理、ヘルパーさんやケアマネージャーとの交渉等、てきぱきとこなす。また、妻の体調管理が生きがいとなり、毎朝体温と血圧を測って、パソコンに記録を入力したり、インターネットで情報収集して、いろいろな介護法や看護法を試してみたりする。このようなタイプの夫の介護のことを「介護者主導型介護」というらしいが、この介護の問題点は介護される妻が夫のそれに文句も言わず従わなければならない傾向が起こって、夫の妻に対する支配力が高まり、「愛情」という名のもとにますます美化されるということ。

 

 つまり、する側とされる側とで、強者と弱者の力関係ができてしまう介護になるのである。「よい介護」とは、何といっても介護される側にとって受けたい介護のことで、介護される側がどうしてもらいたいかが基本なので、介護する側が主導になってはいけない。私がもし妻を介護する状況になったら、この「介護者主導型介護」という落とし穴に陥ってしまいそうである。さらに、このような老老介護を続けていると、特に夫はいずれ息切れし疲労困憊な状態になってしまうと、「いっそ、ひと思いに・・・」などと刹那的な感情に流されて実行してしまうこともある。私はこのことを他人事ではなく自分事としてとらえた。くれぐれも自戒しておかねばならない。

 

 このようにとらえたのは、私だけではない。本書の解説を引き受けたジャーナリストの田原総一郎氏も、その文章に中でこの箇所を取り上げて、入浴の介護の場面を想起しながら自身が妻の介護に使命感を覚えていたこと、そしてそれが老後の愛だと充実した気持ちだったと正直に述べている。・・・私は、“愛”だなどと勝手に思って、女房を“介護されるボランティア”にしてしまったのではないか。女房に対して“愛”という名の所有意識をもっていたのではないか。・・・田原氏は上野氏の文章が突き刺さって容易には抜けないでいると述懐している。

 

    私たち老夫婦は今のところ心身共に健康であるが、これからどうなるかは神のみぞ知るである。田原氏のような思いに至らないように、いざという時に決して「介護者主導型介護」にならないような心構えをもち、これから「要介護者主体型」の具体的な介護法についてしっかりと学んでいこうと思う。

男のおひとりさまの老後を見据えて・・・~坂井希久子著『妻の終活』を読んで~

「女性の方が平均寿命は長いから、普通は旦那の方が先に逝くんじゃないか。」

「でも、先々のことは神様だけしか分からないから、逆の場合もあるよ。その時は男のおひとりさまの老後になるけど、大丈夫なの?」

 

 亡き義母の遺産相続の手続きをどうするか、義姉夫婦と私たち夫婦の4人で話し合った時の中で交わした会話の一部である。妻と義姉は、今までに何度か無料法律相談の会場へ足を運んでいる。相談の中で担当者から、遺産相続の手続きを司法書士や弁護士に依頼すると、結構な額の手続き費用が掛かると言われたそうである。しかし、自分たちで役所に出掛けて手続きをするのも大変なようなので、これからどのように対応しようかと話し合ったのだが、すぐに結論は出なかった。その代わり、その場で自分たちの墓地や墓石のことや先々のことなどについて雑談の花が咲いたという訳である。

 

 義姉夫婦は同級生結婚で、二人とも今年で満70歳になる。今月25日(土)の昼には、道後の老舗ホテル「ふなや」を会場にして、近い身内だけの「古希祝の食事会」を催したばかりである。私も来年には古希を迎える。妻は私の3歳下なので、老夫婦のどちらかが先に逝っても不思議ではない年齢になった。そのような中、私は『妻の終活』(坂井希久子著)という小説を読んだ。主人公が古希を迎えようとする妻帯者であったことから、自分事のようにリアリティー感をもって読み通すことができた。そこで、今回は本作品を読む過程で思い浮かんだ「男のおひとりさまの老後を見据えて」の正直な思いや考えを少し綴ってみたい。

 まずは、簡単なあらすじの紹介から。団塊の世代に当たる主人公の一之瀬廉太郎は、上京して大学進学した後に製菓会社に就職して商品開発部門でヒット製品を生み、定年退職後も嘱託として働いている。40年ほど前に、当時の女性としては珍しく4年制大学を卒業して地方銀行で働いていた杏子と見合い結婚をし、長女の美智子と次女の恵子に恵まれて埼玉県春日部市に一軒家を建てた。結婚以来、専業主婦の杏子に家事・育児を任せて、家庭を顧みず仕事に邁進してきて現在に至っている廉太郎は、ある日、杏子から病院に付き添ってほしいと頼まれるが、仕事を言い訳にして断った。仕方なく美智子に付き添ってもらって病院へ行った杏子は、そのまま長女の家に泊まって帰ってこない。これまで家事を一切してこなかった廉太郎は、途方に暮れてしまう。

 

 しばらくして杏子は美智子を連れて帰宅し、自分の病気は虫垂炎ではなく「虫垂がん」であり、すでにがん細胞が飛び散った播種の状態になっており、余命は「もって1年」と宣告されたと告げる。その後、大阪から戻った恵子を加えて家族4人で、これからのことが話し合われる。保険適用外の高額な治療を望む廉太郎に対して、杏子はQOLの観点から日常生活が送れなくなるような治療を拒み、最後は苦痛を取り除く緩和ケアだけにしてほしいと言う。娘二人も母親の意思を尊重したいと話し、最終的には廉太郎も杏子の願いを叶えてやろうと決意する。

 

 ここからは話の展開は杏子の終活の内容になるかと思いきや、杏子は娘二人と協力しながら、家事が全くできない廉太郎に料理や洗濯の仕方を教えたり、町内会の活動に参加させたりするなど、杏子亡き後に廉太郎が男一人で自立した生活ができるスキルを叩きこんでいく様子を描いていく。さて、さて、「男のおひとりまさの老後を見据えて」自立を目指している廉太郎の家事へのチャレンジは、いかなる結果になっていくのか・・・。

 

 それにしても物語の特に前半で描かれている廉太郎の妻子や孫に対する言動は、男女役割分担意識に基づいた男尊女卑の考えを見苦しく現していて、あまりにも理不尽で傲慢な態度に見える。しかし、改めて振り返ってみれば、私も結婚当初までは廉太郎と似たようなものだったと思う。時代の風潮を無自覚に受け入れて、男女役割分担意識に基づいた結婚生活を選んでいった。当時の私の人権意識はあまりにも乏しいものであったと、今は恥じ入るしかない。その後、社会全般で「男女共同参画」の意識が醸成されるようになり、私は妻と女性の地位向上に関する話題について何度となく話し合ったり、自身の人権意識を見つめ直すために関連本を読み漁ったりしていく中で、徐々に意識変容をしていったと主観的には思う。ただし、妻から見ると「まだまだ分かってない!」と叱られるかもしれないが・・・。

 

 ところで、私は本書を読みながら、自分が廉太郎と同じような情況に陥ったらどのように対応するだろうかと自問自答を繰り返していた。私も廉太郎とほぼ同年齢であり、現在も教職生活の財産を生かした特別支援教育指導員の仕事を続けている。そのために、今でも妻が家事全般を担っているので、私自身は洗濯のスキルを細かく身に付けていないし、料理も現職中に5年間ほど単身赴任をして自炊をした経験はあるもののそのスキルは錆び付いている。しかし、私は子どもの頃から母子家庭で育ったので、掃除や洗濯等の家事を何の抵抗もなくこなしていた。また、小動きするのも嫌いな方ではない。もし万が一にも妻が私よりも先に逝くようなことが起きても、今までの経験を生かして何とか自立して生きていくことができると思っている。否、しっかりと自立して生きていかなければいけないと自覚している。

 

 でも、もし今すぐにそれが実現化したら、どうであろうか。具体的に、妻と同じように家計のやりくりや家事全般をこなすことができるであろうか。心許ない。実際に我が家の財布を握っているのは妻であり、正直に言って私は我が家の財政状況を正確に把握しているわけではない。出納簿に記載されている毎月の収支金額の詳細を知らないのである。電気代やガス代、各種の税金額等に対して無自覚である。本当に妻任せなのである。もしその妻が逝ってしまったら・・・と、想像するだけで目の前が真っ暗になってしまう。これではいけない!私は今のところ後1年程度は今の仕事を続けようと思っているが、「男のおひとりさまの老後を見据えて」の対応については完全にリタイアしたらなどと言わず、まずは上述したような事柄について妻としっかりと情報共有することから始めようと思う。そして、今から自分が分担する家事を少しずつ増やしていくようにしようと考えている。

腎臓の機能低下を防ぐにはどうしたらいいの?~高取優二著『人は腎臓から老いていく』から学ぶ~

 7月20日(木)に当市の医師会健診センターで受けた「日帰り人間ドック」の結果報告書が、8月3日(木)に自宅へ送付されてきた。早速、総合判定を見てみると、何と「5 精密検査を必要とします。」に星印が付いているではないか!一体、何の検査項目が引っ掛かったのだろうか?!私は慌てて検査項目を上から順に目で追った。すると、今までの健診で一度も引っ掛かったことがなかった「尿・腎」の項目に、「5 精密検査を必要とします。」と書かれていた。

 

 私は次にドキドキしながら「指示内容」と「検査項目の数値」等を見てみた。引っ掛かっていたのは、まず「尿蛋白」と「尿潜血」で陽性の判定。また、「尿素窒素(BUN)」で「22.1㎎/dl」(基準値は8.0~20.0㎎/dl)の数値判定。この項目については、報告書の中で「腎臓の機能が低下すると高くなります。」と解説されていた。では、「尿蛋白」と「尿潜血」で陽性は、どのような異常を意味するのだろうか?私は急に不安になってきたので、ネットで検索してみた。「尿蛋白」が陽性と判定されると、「腎疾患(ネフローゼ症候群、糸球体腎炎等)の疑いがある。ただし、健康人でも運動後等に示すことがある。」とのこと。また、「尿潜血」が陽性と判定されると、「腎・尿路系から出血している疑いがある。」とのこと。私の不安はますます膨らんできた。

 

 そこで、私は翌日の4日(金)には市民病院の腎臓内科へ連絡を取って精密検査を受ける日を予約した。そして、5日(土)には三越ジュンク堂書店で『人は腎臓から老いていく』(高取優二著)という本を購入して読み始めた。素人の私にも「腎臓」に関する基本的な医学知識を得られる本だと思ったが、その内容を理解するのに意外と骨の折れる本だった。でも、私としては精密検査を受診するまでには、何としても読了しておきたかったので、読み進めていった。

 本書は、「腎臓の機能や構造」そして「腎臓が衰える原因とその予防」等について、腎臓専門医の著者ができるだけ具体的に解説している本である。本書の後半部では、腎臓の衰えを防ぐための生活習慣を「食」「運動」「呼吸」の3つの観点から紹介していて、透析のための病院通いや寝たきりにならないメソッドが示されているので、私のように「腎臓」に不安を抱える者にとって大いに参考になる。今回の記事では、その中で「腎臓の機能」や「食」に関する内容を含めた「腎臓が衰える原因とその予防」について特に取り上げて、まとめてみたいと思う。

 

 まずは、「腎臓の機能」について手短にまとめておこう。「腎臓の機能」の一つは、人口に膾炙しているように「血液中の老廃物や毒素をろ過し、尿を通じて体外へ排出すること」である。もう一つは、「人体の6~7割を占める水をコントロールしていること」。尿を作る際に、体内の水の量と、そのミネラルバランスを適正な状態にしているのである。もし生命を維持するために重要なこの「血液」と「水」がダメになれば、体中のあらゆる臓器が機能不全に陥り、様々な病気や体調不全に見舞われるようになる。これこそが、「老化」(体内の臓器がアイデンティティを失うこと)の正体なのである。さらに、「腎臓」は「血圧を一定に保つ」「血液(赤血球)を作るように指示を出す」「ビタミンDを活性化する」などといった健康寿命にとって大切な役割も果たしているらしい。

 

 次に、「腎臓が衰える原因とその予防」について。一番の原因は、何といっても「加齢に伴う①粥状動脈硬化(アテローム動脈硬化) ②メルクベルク型動脈硬化(中膜硬化) ③細動脈硬化という3つのタイプの動脈硬化の影響」である。そのために、糸球体をはじめとする腎臓の組織が機能を失って内部がスカスカになり、腎臓自体が縮小するとともに、腎臓の内部の組織が壊れたり硬くなったりして、役割を果たせない状態になってしまうのである。したがって、「腎臓」の衰えを防ぐには、まずこの動脈硬化への対策が必要になるのである。

 

 以前は「血管に過剰な脂質がたまって、動脈硬化が起こる」と考えられていたが、今では「脂質よりもブドウ糖グルコース)などの糖質の方が問題視」されている。食べ物に含まれる糖質が小腸から吸収されると血液中にブドウ糖が増えるが、その量が多いと「高血糖」になる。すると、ブドウ糖が血管の壁にある内皮細胞から入り込んで傷つけ活性酸素を発生させるが、それが増え過ぎると正常な細胞を攻撃したり物質を劣化させたりする「酸化」という現象を起こす。さらに、内皮細胞に入り込んだブドウ糖は細胞内の蛋白質と結合し、体温で熱せられると「糖化」という現象が起きてAGE(終末糖化産物)を作る。これが体内の正常な組織にくっついて炎症を起こし、たくさんの活性酸素を発生させて、さらに「酸化」されてダメージを負う。こうしてダメージを受けた血管には、動脈硬化が起こるのである。

 

 「血糖値」が高い状態が続くと、やがて糖尿病を発症する恐れがある。その一般的な原因は、膵臓で作られるインシュリンというホルモンの分泌量が減ったり、その効きが悪くなったりすることである。糖尿病の3大合併症の一つ「糖尿病性腎症」は、慢性腎臓病の一つで、老廃物を取り除いて血液を浄化する透析の原因となる病気の第一位になっている。したがって、このような事態に陥らないように、腎臓の血管を守るために「血糖値」の上昇を抑えることが重要になるのである。

 

 また、動脈硬化を防ぐために、体内で合成されない「必須アミノ酸」の取り過ぎによる「老化」にも気を付けることが大切である。特に「必須アミノ酸」の一つであるメチオニンを過剰に摂取すると、血管の中に蓄積して悪玉コレステロール(LDLコレスチロール)と結合することで、動脈硬化を引き起こす。メチオニンは、鶏肉や牛肉等の肉類や鶏卵、マグロやカツオなどの魚介類、牛乳やチーズなどの乳製品、豆類や納豆といった大豆が原料の健康食品に多く含まれている。これらは高齢者でも必要とされる栄養素を含む食品だが、食べ過ぎると体内で上手く利用されず蓄積していくことで血管等にダメージを与える場合がある。くれぐれも留意しなくてはならない。

 

 さらに、私たちが生きていく上で必須のミネラルで、体を動かすためのエネルギーになったり、代謝等で重要な役割を担ったり、骨格を形成したりする働きがある「リン」も過剰摂取してしまうと、動脈硬化を引き起こす原因になる。現在、私たちがよく利用する加工食品に含まれる「無機リン」の摂取が多くなっているので、この点にも気を付ける必要がある。次に気を付ける必要があるのは、腸から吸収されやすい有機リンが豊富な動物性蛋白質で、その中でも特に乳製品である。したがって、先に述べたメチオニンの観点からも、蛋白質はできるだけ植物性の食品から摂取するようにした方がよいようである。

 

 以上、本書の中でも特に「腎臓が衰える原因とその予防」に関連した内容の一部をまとめてみたが、もちろんこれらの内容以外にも参考になることがたくさんあった。できれば、「第5章 元気な腎臓を取り戻す3つの方法」の内容についても紹介したかったが、キーボードを打つ手が疲れで痺れてきたので今回はこの辺で終わりにしたいと思う。

 

    ただし、最後の最後になって大事なことを書き忘れていたことを今、気付いた。それは、最初に少し触れた精密検査に関することである。私は今月14日(月)に地元の市民病院の腎臓内科で、尿及び血液検査やCT撮影等の精密検査を受けて、担当の腎臓専門医からその結果について次のような内容を聞かされた。「尿及び血液検査の数値は基準値の誤差の範囲であり、CT撮影の画像分析でも異常を認めなかった。」・・・私の腎臓の機能には特に問題がなかったのである!何だか拍子抜けの気分だったが、安堵の気持ちが湧き上がってきたのも事実である。これからも本書で学んだことを実践しながら、腎臓がなるべく衰えないようにしていきたいと考えている。

後悔しない、真っ当な人生の送り方とは?~勢古浩爾著『人生の正解』から学ぶ~

 前回の記事でとり上げた『ある男』(平野啓一郎著)の内容は、凄惨で不幸な自分の過去を捨てて、全く別人の人生を生き直そうとした「ある男」の身元調査の過程が謎解きになるという、ミステリー仕立てのストーリーだった。フィクションとは言え、「ある男」が置かれた情況が我が身に起こったとしたら耐えられないものだったので、「ある男」が止むを得ず選んだ行動には共感するところがあった。しかし、私たちは自分の人生がどんなに耐え難く悲惨なものであったとしても、その中で生きていくほかないのが現実であろう。だとしたら、自分なりに後悔しない、真っ当な人生を送るためには、どのような在り方をしていけばいいのだろうか。

 

 そのような問題意識をもちながら、私が最近読んだのが『人生の正解』(勢古浩爾著)という新書である。勢古氏の著書を当ブログで何度か取り上げるほど、私は彼の考え方には共感するところが多いのだが、それにしても今回の著書に何と大それたタイトルを付けたものである。そもそも人生に正解というものがあるのだろうか。何を基準にして正解を導き出すのだろうか。私は「誰もが納得するような、人生の正解なんてない!」と思いながらも、もしかしたら何らかの手掛かりが書かれているかもしれないと僅かな期待をもちつつ読み進めた。

 本書の「第3章 人生に無数の正解はある」の中で、著者は自分の好きな長谷川卓の時代小説『戻り川 夕凪』における高齢の主人公・三ツ森伝次郎が岡っ引き修業中の変わり種の若い娘に語る、次の言葉を引用している。

「人は上の者にばかり目を向けたがる。だが、俺は逆だと思っている。上には逆らってもいいが、下の者は大切にする。そういった生き方を通してきたつもりだ」

「損ではありませんか」

「損かも知れねえが、得をすることばかりを考える生き方よりはいい。得をしようとすると、心が汚れる」

 

 著者が言いたいのはこうだ。正しい人生とそうでない人生とを分けるのは、自分で決めた掟があるかどうかであり、その掟は自分が損することを課す。つまり、心が汚れることを防ぐために、損することを決して避けないのが正しい人生であるということ。しかし、このことが分からない人はざらにいるし、他人を止めることもできない。人は自分で自分を律するほかはないのである。反省することも、成長することも、何かを始めるのも、何かを止めるのも、自分で決めなければならないのである。私は、このような生き方を「正しい人生」というよりも、「美しい人生」と言いたい。人生には「正しさ」という基準よりも、「美しさ」という基準の方が合っていると思うからである。

 

 また、著者は同章の別の箇所で、「人生の正解」の条件は生きるスタイルでは決まらず、自分の意志で決める生きる上での規範(信条)に求めるしかないと言っている。そして、著者自身が考える「人生の正解」の条件として、次のような3つを挙げている。

① 対人関係において誠実であること。・・・人を大事にする、嘘をつかない、公正である、威張らない、損得で生きない、恥を知るなど、自我を制限すること。

② 仕事において力を尽くすこと。・・・手を抜かないというような究極の自己満足であること。

③ 自分に対して負けないこと。・・・運命に負けない、人に負けない、自分に負けない、お金に負けない、境遇に負けない、事件・事故・災害に負けないなど、耐えること。

私はこれらの3つの条件について、青年期まではなかなか実行できないこともあったが、壮年期から現在に掛けては自分なりに実行してきたという自負がある。もちろんこれは主観的なとらえ方であるが、私にとっての「美しい生き方」の条件だったから、著者の考えに強く共感する。

 

 さらに、本書の「第7章 生まれ変わっても、また自分になりたいか?」というタイトルを見た時に、「何度同じ人生を歩もうが、その人生をもう一度歩んでもよいと思えるよう生きることが重要である」と考えた、ニーチェの「永劫回帰」の思想を想起して嬉しく思った。私は30代の頃、ニーチェの哲学や思想に大きな影響を受けたので、この問いに対しては「生まれ変わっても、また自分になり、自分の歩んできた人生を繰り返したい。そのように思える生き方をこれからもしていきたい。」と答えたい。確かに今までの人生において失敗したり、間違ったりしたことは何度もあったが、その都度深く反省し、それ以後はその失敗や間違いを繰り返さないように自分なりによりよく生きてきたつもりである。だから、自分の人生を肯定したい。誰かが批判したとしても、自分だけは「そのような境遇や出来事の中で、よりよく生きてきたなあ。」と認めてあげたいと思う。

 

 最後に、著者は同章の終わりの方で、歌手に中島みゆきの曲「命の別名」の次のような1節を紹介している。「・・・何かの足しにもなれずに生きて、何にもなれずに消えてゆく 僕がいることを喜ぶ人が どこかにいてほしい・・・」特に有益なことができる訳でもなく、人に評価される者にもなれないが、それでも私の存在を喜んでくれる人がいてほしいというような意味だと思うが、これは普通の人がもつささやかな願いではないだろうか。私は先ほど自分だけでも自分の人生を認めたいと少し強がりを言ってしまったが、やはり本音はこの1節の内容なのかもしれない。だから、高齢期になってから、せめて妻や子どもたち、孫たちには私という存在を喜んでくれるような振る舞いをしたいと思うようになった。少しセコイような気もするが、それが私なりの「悔いのない、真っ当な人生の送り方」だと考えている。

愛に過去は必要なのだろうか?~平野啓一郎著『ある男』を読んで~

 暑い!本当に暑い!!四国地方の梅雨明けは例年より少し遅かったが、その前から酷暑の日々が続いていた。そのため、私は早くも夏バテ気味になり、当ブログの更新もままならない情況だった。書斎のクーラーが故障していて、パソコンでキーボードを打つなんてことは地獄の所業なのである。もちろん冷房の効いたリビングにパソコンを持ち込めば、涼しい環境で記事を綴ることはできる。しかし、仕事場から帰宅したらもう汗びっしょり。夕食を取りながらビールを一缶飲み干すと、なかなかパソコンに向かう気にはならないという情況に陥っていた。だから、今日は約半月ぶりの記事である。月が変わり8月になったので、気分を一新し衰えた気力をなんとか振り絞って、最近考えていたことを綴ってみようと思う。

 

 さて、今回記事として取り上げるのは、前回の記事で取り上げた『コンビニ人間』(村田沙耶香著)と一緒に市立中央図書館で借りた本である。約1年前に、私が新型コロナウイルスに感染して自宅待機をしていた時に読んだ『マチネの終わりに』の著者・平野啓一郎氏の作品『ある男』である。本作品は、主人公の弁護士・城戸彰良を妻夫木聡、彼に調査を依頼する女性・谷口里枝を安藤サクラ、彼女の亡き夫・谷口大祐を窪田正孝が演じて映画化され昨年11月には公開されていたので、その映画を観たいという気持ちがあるのはもちろんだが、その前に原作を読んでみたいと思っていた。今回(読了したのは、もう2週間も前だが…)、それを実現させたという訳である。

 谷口里枝は、2歳の次男を脳腫瘍で失い、その後、離婚をするという苦労を背負っていたが、今は地元で再婚した谷口大祐との間に生まれた女の子を含めて4人で暮らす、平和で幸せな家庭を築いていた。ところが、ある日突然、林業に従事していた夫・大祐を事故で亡くしてしまう。悲しみに暮れる里枝に、大祐の兄・谷口恭一から「この遺影の男は大祐じゃない。」と、夫が大祐と全く別人であるという衝撃の事実を告げられて呆然と立ち尽くしてしまう。そこで、里枝はかつて離婚訴訟の裁判で担当してもらった弁護士・城戸彰良に、夫の身辺調査を依頼する。依頼された城戸は、「大祐」と名乗っていた「ある男」の、過去を変えて生きていた人生の秘密を調査していくのだが・・・。

 

 いけない!いけない!!また私の悪い癖が出そうになった。ついついミステリー仕立ての謎解きの面白さを伝えたくて、本作品の詳細なあらすじやネタバレをしてしまいそうになった。これから原作を読んだり映画を観たりしようとしている人にとって、興醒めになる仕儀に及んでしまいそうになった。そこで今回は、謎解きのストーリーの面白さではなく、私なりの本作品を読んで考えた「愛に過去は必要なんだろうか?」という少々哲学的な側面に関する所感を少し綴ってみようと思う。

 

 本作品のラストの部分で、「大祐」と名乗っていた「ある男」の凄惨で不幸な過去について里枝が城戸から知らされた後、「一体、愛に過去は必要なのだろうか?」と自問する場面があるのだが、私はこの場面で里枝が出した結論内容に共感した。その内容とは、「大祐」と名乗っていた男は確かに本物ではなかったけれど、夫として自分が愛したことは事実だったと昇華していくものであった。どのような過去を背負った人であっても、自分と深く関わった「今、ここ」という時空間の中で、自分が「愛した」という事実は消そうとしても消せないものである。その事実を否定してしまったら、自分自身をも否定してしまうことになる。

 

 ただし、人は過去に自分が「愛した」人に対して、「今、ここ」という時空間の中で「嫌い」という感情を抱いてしまうこともある。とすれば、「嫌悪に過去は必要ないのだろうか?」という問いも可能になるが、この場合は自分と深く関わったという今までの関係性を示す過去なので、本作品の中で問われている「一体、愛に過去は必要ないのだろうか?」という問いと同定することはできないだろう。

 

 本作品の中で、「大祐」と名乗っていた「ある男」の元恋人だった美涼という女性が、城戸の「過去を含めて愛したはずなのに、それが嘘だと知ったら一体何を」という問いに対して、次のように応える場面がある。・・・「わかったってところから愛し直すんじゃないですか?一回、愛したら、終わりじゃなくて、長い時間の間に、何度も愛し直すでしょう?色んなことが起きるから」・・・その通りだなあと思うが、愛は断絶してしまうこともある。「そんな愛は“本物の愛”ではない」という声が聞こえてきそうであるが、一般的にはよくある愛の顛末である。だとすれば、「“本物の愛”に過去は必要ない!」と断言することができるのだろうか?もう少し深く考えてみたい哲学的テーマである。