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「人生・生き方」「教育・子育て」「健康・スポーツ」などについて考え、雑学的な知識を参考にしながらエッセイ風に綴るblogです。

「吃音」が出る時とその対処法について~伊藤亜紗著『どもる体』から学ぶ~

 新年が明けて2日のお昼には長女夫婦と孫Hが、3日のお昼には二女夫婦と孫Mが、年始の挨拶代わりに我が家を訪れて一緒におせち料理やお雑煮等を味わってくれた。老夫婦だけの食卓とは違い、正月らしい賑やかな食卓になった。また、それぞれの孫と一緒に遊んだり、孫の今後の成長を見守り支援していくための手立てなどについて子どもたちと話し合ったりすることができたことも愉快なことであった。正月早々、本当に幸せな時間をもつことができ、「今年もよい年になりそうだなあ。」と頬を緩ませる自分がいた。

 

    ところで、普段は滅多に行くことはない市の北西部にある市立図書館から借りてきた『どもる体』(伊藤亜紗著)を大晦日から読み始め、元日の昼間にはお屠蘇気分で、2・3日は就寝前と起床後のわずかの時間を活用して読み継ぎ、4日を迎えてやっと読了した。本書は、当ブログの数回前の記事にも記したように、私が特別支援教育・指導員として仕事をするようになってから関心をもつようになった「吃音」という障害の実態やその対処法等について知るために、是非とも読みたかった本なのである。

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 著者は、東京工業大学リベラルアーツ研究教育院准教授であり、研究のかたわらアート作品の制作にも携わるという女性である。当ブログの記事でも今までに単著では『目の見えない人は世界をどう見ているのか』と『記憶する体』、共著・編著では『利他とは何か』と『ポストコロナの生命哲学―「いのち」が発する自然(ピュシス)の歌を聴け―』を取り上げており、最近、私が特に注目している美学者である。本書によると、自身もいわゆる「隠れ吃音」タイプの軽い「吃音」当事者でもあるらしい。だから、いつか「吃音」をテーマにして本を書きたいと思っていたとのこと。ただし、自分の体と向き合うのが困難であり、研究の客観性を確保する必要性から、自分の吃音経験をいったん括弧に入れて研究を進めてきたそうである。

 

 本書は、そんな著者が「体のコントロールを外れたところ」に生起する「どもる」という経験を分析し、「しゃべる」の多様性に光を当てることと、「自分のものでありながら自分のものでない体」を携えて生きるという切実な問いに迫ることの二つを目的にして書いた本である。また、「吃音」という障害を「言葉がどもっているかどうか」ではなく、「体がどもっているか」に焦点を当てた身体論としての「吃音」論であり、それが『どもる体』というタイトルに象徴されている。だから、今のところ原因が分からず、治療法の有無も分からない「吃音」という手ごわい障害ではあるけれど、本書では原因探しや治療法の提案を行うことはしないで、あくまで「どもる」という身体的経験にフォーカスを当てているのである。

 

 では、今回の記事の本題に移っていこう。…「吃音」が出る時はどのような状況なのか、またその「吃音」に当事者はどのように対処しているかという昨年末に抱いた疑問を、解決するような記述を探しながら、私は本書を読み進めた。その結果、いくつかの記述にその回答らしき内容を見出したが、それを紹介する前に「吃音」に関して理解をする上で幾つかのキーコンセプトを解説する必要があると思った。そこで、次に幾つかのキーコンセプトの解説をなるべく簡潔にしておきたい。

 

    そのキーコンセプトとは、「吃音」の症状としての「連発」と「難発」である。私たちが「しゃべる」ことができるのは、身体の複雑なオートマ制御によっている。「連発」というのは、このオートマ制御のエラーのことで、「最初の音を繰り返す」症状のことであり、幼い子どもの多くが経験するという意味で「吃音」の最も原初的な形態である。「連発」が起きると当事者は、「次はどうしたら起こらないかな」と対処法を考えるようになり、そこから「連発→難発」という症状の進化が起こると考えられる。つまり、「難発」は「連発」の対処法でもあり、「吃音」の一つの症状にもなる。「難発」というのは、「連発」を隠そうとして特定の単語で音が出なくなり、しゃべれなくなってしまうこと。例えば、「たまご」と言いたい時に、「連発」が「たたたたたまご」であるのに対して、「っっっっっったまご」と「っ」しかない感じになるのが「難発」。金縛りにあったように、「たまご」と言おうとしても、体が全く受け付けない状態である。

 

 パソコンで例えれば、「連発」がパグ(キーボードを一度叩いただけで、ディスプレイに勝手に文字が並んでしまう状態)だとすれば、「難発」はフリーズ(キーボードをいくら打ってもディスプレイが反応しない状態)。「連発」は「意図しないのになってしまう」という「乖離」だが、「難発」は「意図してもうまくいかない」という「拒絶」のようなもの。どちらも、意識と体が分離している心身二元論であるという意味では同じだが、その分離の仕方が違っていて意図と体の間に緊張関係が生ずるのである。

 

 ところで、この「吃音」の症状としての「連発」と「難発」は、どのような状況の時に起こるのであろうか。私が本書の中でそれに関連している記述を見出した内容を要約すると、おおよそ次のようになる。

〇 「吃音」が出るか出ないかは、シチュエーションに極めて強く影響されるが、必ずしも緊張する場面だけでなく、リラックスしている場面でどもりやすい人は案外多い。

〇 「吃音」は「こういう時にどもる」という法則をきめるのをためらうところがある。

〇 研究者のドミニク・チェンさんは、仲間との議論に刺激されて思考が活性化し、すばらしいアイデアを思いつき、それを伝えたいという衝動に駆られて言葉を発する時、「連発」になる。

〇 「連発」という目前の厄災を暫定的に回避しようと対処する時、「難発」になる。

〇 自分に対して周りの人の期待の度合いが高かったり、逆に低かったり期待が自分に向いていなかったりする時、「吃音」スイッチが入りやすい。

 

 以上のことから、「吃音」が出る時の状況のあらましは分かるが、決定的な状況はないという、あいまいな回答しか得られなかった。それだけ「吃音」というのは何とも手ごわい障害なのである。

 

 さて、そのような手ごわい障害である「吃音」が出ないようにするために、当事者はどのような対処法を取っているのであろうか。この点については、前述したように「難発」という症状は「連発」が起こることを回避するための対処法でもあることをまず押さえておかなければならない。その上で、この「難発」を回避する対処法として紹介しているのが、次のようなものである。

〇 言おうとしていた言葉(例えば、「いのち」)を、直前で同じ意味の別の言葉(例えば、「生命」)に言い換えるという「言い換え」というテクニック。

〇 リズムに合わせたり、役柄を演じたりしながらだと、案外にすらすらしゃべれてしまう「ノる」というテクニック。

 

  「言い換え」はやはり症状としての側面を持っているらしいが、それを症状と感じない人もいるという。また、「言い換え」には、単語から単語への言い換えである「類語辞典系」と、意味を開くような言い換えである「国語辞典系」のパターンがある。さらに、指示語に言い換えるとか、他の人に言ってもらうとかというやり方の「言い換え」のパターンもあるという。とにかく、「言い換え」という対処法は、「難発」がもたらす体との緊張関係を瞬時に更新する力があると考えられるのである。

 

 「ノる」とは単にハイテンションになることではなく、意図と体の間に生まれる独特の関係のことであり、「既成のパターンを使いながら動くこと」である。「吃音」当事者によると、リズムや演技に没頭している間の「ノっている」状態は運動をたやすくするので、「吃音」が出にくいらしいのである。そう言えば、私が担当した「吃音」のある年長の男児も、朝の時間に歌を歌っている時は「吃音」が出なかったように感じた。私もその場面に遭遇した時、不思議な現象だなあと思った。でも、本書を読んで、歌の「変化を含んだ反復としてのリズム」を「刻む」働きが重要だと分かり、多少は「吃音」の不思議の秘密を探り当てたような気になった。

 

 リズムと演技に没頭している時、自分は自分の運動の主人であることから部分的に「降りて」いる。つまり、意識は体が行う運動の主人では決してないのである。そこで問題なのは、この「降りる」の度合いである。確かに「ノる」ことは楽しいことだが、自分の思いとは関係なく勝手に体が動かされたら、とてつもなく苦痛に感じるのではないだろうか。この「ノる」の先にある「乗っ取る」の領域になると、私は「モノ」のような自由を奪われた存在になってしまう。「難発」という「吃音」を回避するために対処したことが、逆に自分を別の苦痛と不安に陥れてしまうことになるのである。「吃音」においては、ここでも一つの現象が「対処法」としての側面と、「症状」としての側面の両方を持つということが起きるのである。「吃音」は、本当に手ごわい障害なのである!

教育相談における「エビデンス」の問題について考える~國分功一郎・千葉雅也著『言語が消滅する前に』から学ぶ~

 12月中旬に、昼休みの時間を利用して散歩がてら職場近くの大型書店へ出掛けた際に、興味深い本を見つけた。それは『言語が消滅する前に』(國分功一郎・千葉雅也著)というちょっとショッキングな書名の新書版だった。私の手は自然と伸びて、本書の目次ページをめくっていた。第一章は國分氏の著書『中動態の世界―意志と責任の考古学―』、次いで第二章は千葉氏の著書『勉強の哲学』の各々の刊行記念対談を活字に起こしていることが分かり、「読んでみたい!」という強い欲求が高まった。さらに、目次ページを捲って「第五章 エビデンス主義を超えて」を見た時に、「現在の私の課題意識と重なっている!」と直感し、本書を購入しようと即決した。それから、暇を見つけては少しずつ読み進め、やっと私にとっての年末休暇に入った昨日、読了した。

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 本書は、2017年以降の両氏の5つの対談が収められているのだが、事前に一貫したテーマが設定されていた訳ではなかったそうである。ところが、5つを合わせて読み返してみると、二人がずっと「言語」を論じていたことが分かり、しかも一貫して「言語の消滅」に対する危機意識が読み取れたので、一冊の本にしようという企画になったらしい。哲学界の若き俊英たる両氏の対談に、私はついつい引き込まれていってしまった。「人間は言語に規定された存在である」という20世紀の哲学の前提が、21世紀に入って危うくなっていることを、様々な事象を多面的な角度から読み解きながら、明らかにしていく対談の展開は、私にとって大変スリリングな小説を読むようだった。

 

 本書をよみながら、私はスマホでLINEを使う時にスタンプや絵文字等を多用し、言葉を使わないコミュニケーション(情動の伝達)を日常化している自分を再発見した。また、メールを書く時も予測変換された言葉をピッピッと選んで文章を綴っていることもある。気が付くと、どんどん言葉を使わなくなっているのである。果たして、そんなに言葉や言語を軽視していていいのだろうか。このままだと、言葉や言語は消滅してしまうのではないか。そんな疑問や危惧を私も強く意識してきた。

 

 私自身、このような事態を今までに無意識的に感じていたので、3年ほど前から当ブログを開設し、自分なりの課題意識に沿って考えたことや、その課題意識に関連した本を読んで思ったことなどを活字にする営みを自分に課した。今、特別支援教育の指導員としての仕事、特に何らかの「困り感」をもつ子どもの適切な学びの場を判定するための書類作成において、このブロクの記事を綴るという経験が生きていると実感している。対象児に関して収集した様々な情報を整理して的確に文章にまとめ、それに基づいて自分なりの考えを活字にしていく業務は、当然のことながら言葉や言語を重視して取り組まなければならないものである。私は今、この仕事にやりがいを実感し、失いつつあった「人間らしさ」を取り戻しているように思う。

 

 ところが、このような今の業務の中で、最近になって疑問を感じることがあった。それは、教育相談の場において何らかの「困り感」をもつ子どもに対する適切な支援内容及び方法等を、その子の保護者や担任の先生にお話するような場面でしばしば感じる疑問である。それは、本書でも使われている端的な言葉で言えば、「エビデンス主義」というものに対する疑問である。

 

 ほとんどの場合、教育相談を受ける対象になる子どもには何らかの「困り感」があり、その背景や原因は通常の基準に比べると知能や発達の遅れが見られたり、何らかの「発達障害」が疑われたりすることが考えられる。中には、既に医療機関で診断名が付いている子どももおり、その保護者は医療機関で出された知能検査や発達検査等の結果報告書を受け取っている。その子の「困り感」によって実施する発達検査や心理検査の種類は違うが、対象児の多くは「WISC-Ⅳ」や「田中ビネー式知能検査Ⅴ」、「新版K式心理検査」「日本版KABC-Ⅱ」等の検査を受けているようである。この検査結果報告書は、対象児の適切な学びの場を判定する際には、その「エビデンス」として重要になるものであり、考えられる支援内容を具体化する上でも有用であることは間違いない。

 

 しかし、何らかの「困り感」をもつ子どもに対する適切な支援内容及び方法等について、その子の保護者や担任の先生にお話しする教育相談の場においては、上記のような検査をしていない場合がほとんどである。したがって、何らかの「困り感」の背景や原因については、指導員の「発達障害」等に関する知見や今まで学校教育、特に特別支援教育に携わってきた経験知に基づいて推察するしかない。そして、対象児の現わす「困り感」の具体的な様態に対して有効だと考えられる支援内容や方法等を対話的に提案するしかないと思う。ところが、現場の先生や指導員の中には「これでは科学的なエビデンスに基づく責任ある提案にはならないのではないか」と考える方もいる。

 

 確かに、検査の専門家が必要とされる科学的な手続きを踏んで実施した知能検査や発達検査等の結果は、数字で明確に示されるものであるから、誰もが認めざるを得ない客観的な根拠になるであろう。医学的な診断においては、これが有力な「エビデンス」足り得るのであろう。しかしながら、教育現場において様々に変化する環境や状況等の中で行う具体的な支援内容や方法等の妥当性の是非は、その「エビデンス」だけでは決定できるものではないと考える。特に学級という集団を単位にして実践される各教科等の授業においては、教材や学習内容や方法等はもちろん、集団のダイナミズムや友達関係の機微等が、対象児の言動に対して大きな影響を及ぼすことは多々ある。また、変化している家庭環境の実態も、直接的・間接的に様々な影響を与えるものである。

 

 だから、私は教育相談の場において上述のようなことも考慮しながら、保護者や担任の先生と必要な情報を交換して、対象児の何らかの「困り感」の背景や原因を共に探っていく。そして、その共通了解に基づいて妥当性があると思われる支援内容や方法等を対話的に提案するという手法を取っている。この手法は、単に発達検査や心理検査の結果という「エビデンス」だけに頼ることなく、関係者の共同主観性を大切にした間主観的判断を示すことになり、それこそが「応答性」に根源をもつ「責任」(responsibility)の引き受け方だと考える。

 

 最後になったが、本書の「第五章 エビデンス主義を超えて」の中で千葉氏が語っている次のような箇所を、私の教育相談の手法やその考え方への応援歌と喜んで受け止めたことを記して、ひとまず今回の記事の締め括りとしたい。

エビデンス主義も結局、一定のエビデンスだとされるものだけを信じていればいいという意味で宗教だし、それを否定すると反科学主義になって、オカルト的なものを信じる宗教になってしまうということですよね。本当はそうじゃなくて、何らかのデータであるにせよ思想にせよ、その有効性の軽重を図って調整することが重要なのに、そういう主張がなかなか理解されづらくなっているんですよ。一つの同じ原理で行動していればいいと思ったら楽だから、どうしてもそうなってしまいやすいわけです。つまり、状況によって判断することの難しさや責任から逃れようとしていると思うんです。その意味でエビデンス主義も法務的発想と同じように責任回避に使われやすい。だけど、状況によってどのエビデンスを採用するかという選択の問題だってあるし、人間は決定的な保証のない判断を引き受けざるを得ないこともある。それをとにかく回避したがる傾向が蔓延しているわけです。…」

 

追伸;年末は二女と孫Mが連泊し、その間に長女と孫Hもやってくる予定なので、当ブログの記事は今回が本年最後になりそうです。公私にわたる私のこだわりだけで綴っている当ブログですが、読者の皆様方には目を通してくださり、ありがとうございました。年始早々に、前回の記事で約束した「吃音」が出る時について『どもる体』(伊藤亜紗著)を読んだり、私なりに調べたりしたことを綴る予定なので、暇な時間ができたら当ブログに立ち寄ってみてくださいネ。では、皆様方、よいお年を…。

どんな時に「吃音」が出るのか?…~重松清著『きよしこ』と重松清・茂木健一郎の対談『涙の理由―人はなぜ涙を流すのか―』を再読して疑問に思ったこと~

 今月18日(土)の夕方、NHK総合1で「吃音」のある少年が様々な経験をしながら成長していく姿を描いた小説を映像化した、土曜ドラマきよしこ』の再放送があった。最近、「吃音」のある年長の男児の保護者から適切な学びの場について教育相談を受けたことがあり、また当ブログで数回前に「吃音」の克服に関する記事を綴ったこともあり、私は興味深く視聴した。原作は、私の好きな作家の一人である重松清氏の同名の小説であり、随分前になるが一度読んだことがあった。ドラマの展開を追いながら、「あー、そんな場面があった、あった!」と呟いた。私は何だか懐かしい思いにとらわれ、もう一度原作を読んでみたくなり、重松清作品が並んでいる書棚から本書を手に取った。

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 主人公は、「白石清」というどこにでもいるような少年だが、幼い頃から「カ」行や「タ」行、濁音と半濁音等でつっかえてしまう「吃音」がある。また、父親の転勤のために何度も学校を変わることになる転校生。だから、転校した日の自己紹介でいつもしくじってしまう。また、自分の言いたいことがなかなか言えないために、いつも悔しい思いをしている。そんな少年が、自分の「吃音」と向き合いながら幼児から小学生、中学生、高校生と成長していく中で、様々な人々と出会い、豊かに交流し、別れていく7つの話が本作品には収められている。

 

 今回、改めて読んでみて、原作の7つの話のうち3つが土曜ドラマには取り上げていなかったことに気付いた。それは、「北風ぴゅう太」「ゲルマ」「交差点」という、小学6年生と中学2・3年生の頃の話。当ドラマを担当した脚本家や演出家の考えによるものなので、私のような素人が批判するようなことではないが、思春期真っ只中の時期の話をなぜ省いてしまったのだろうか。その理由を聞いてみたいと思った。私としては自分の学校生活や教員生活の中でも、心に深く刻まれた記憶である「学芸会の劇」や「野球部活動」、そして「不良生徒との付き合い」と完全にリンクするような3つのお話が、どのように映像化されるのか観てみたかったなあ…。

 

 疑問をもった点と言えば、原作を初読した際には気が付かなかったが、今回再読して新たに疑問をもったことがあった。それは、「一体、どんな時に吃音は出るのか?」ということである。原作の第1話「きよしこ」において、少年が言葉の最初の音がつっかえてしまうのは「緊張や興奮で息を吸い込みそこねた時」、さらに「つっかえたのを無理に吐き出そうとすると、けつまずいて前につんのめってしまうみたいに、最初の音が勝手に繰り返される」と記述された箇所がある。また、第2話「乗り換え案内」においては、市のPTA協議会の副会長が「リラックスしてしゃべればいいんです。気にするから、よけい言葉が出なくなるんです。…」と話す場面がある。私はこれらの内容は本当なんだろうかと思った。

 

 先日、教育相談のために幼稚園を参観した際、「吃音」のある年長の男児は日直の仕事として友達の前に出で発表する時はスムーズにしゃべっていたのに、「じゃんけん列車」という集団遊びに興じた後にうがいをするためにロッカーからコップを取ろうと私の前を通りすがった時、つまりリラックスしていた時に私に向けて「うっ、うっ、運動会のかけっこで、ぼく、一位になったんだ。」とつまって話し掛けたのである。この体験をしたばっかりだったので、私の頭の中は「???」状態になってしまったのである。そう言えば、原作者の重松清氏と脳科学者の茂木健一郎氏との対談本『涙の理由―人はなぜ涙を流すのか―』の中で、重松氏は『きよしこ』における「吃音」が出る時とは、異なることを話していた箇所があったような…。早速、私は本書を書斎の書棚にある重松清コーナーから取り出し、ぱらぱらとめくってみた。「あった、あった!」32ページから33ページにかけた、次の箇所。

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重松:社会的に言葉を発するときは、自分で言葉を選んでいると思うんです。「言葉を選ぶこと」は、僕はそれをずっとやってきてから、けっこうスムーズなのね。でも、「ざっくばらんに」とか、「思ったことをすぐにしゃべるような関係」になったときのほうが、つっかえるの。

茂木:「吃音がなぜ起きるか」というと、「無意識に行っている発語行為を、意識的にコントロールしようとするから」という説が有力です。だから「普通にしゃべっているときのほうが吃音が起こりにくい」というのが一般的な認識です。しかし、重松さんはそうじゃないのが面白い。…

 

 この件を読むと、重松氏の「吃音」が出る時は特別な事例になるが、本当にそうなのだろうか。先の年長の男児も特別なのだろうか。「吃音」は緊張した時に出るのか、それともリラックスしている時に出るのか。一体、どっちなのか?

 

 今日は本県においてこの冬一番の冷え込みがあり、全国各地も厳しい寒波が襲っているようだが、私の頭は今、???の嵐が吹き荒れている。この疑問については、この年末休暇の間に自分なりに調べ何とか解決して、すっきりした気持ちで新年を迎えたいなあと思っている「今日の心」であります。

保護者との教育相談で心掛けていること~宮口幸治著『どうしても頑張れない人たち―ケーキの切れない非行少年たち2―』から学ぶ~

 10月になって学級担任が変わったことがきっかけになり、授業中に多動性や衝動性が強く現れるようになり、自学級では対応できない状況になったので、一時的に隣のクラスに入って学校生活を送っているという児童に関する教育相談を、私が主になって担当することになった。いつものように、学校へ出掛けて対象児の授業中の行動観察をし、それに基づいて学級担任や特別支援教育コーディネーターなどの先生方との教育相談をして、それらを踏まえた上で対象児の保護者と教育相談をするという一連の流れで業務を遂行していった。その際の保護者との教育相談で、私自身がいろいろと心掛けたことを整理しておくことが必要だと思うようになった。その訳はこれからの教育相談にも生かされるし、他の指導員たちにとっても多少は参考になると考えたからである。

 

 何らかの「困り感」をもつ子どもの学級担任や保護者に対して、私は基本的に対象児の行動観察や発達検査等に基づいてその子の性格や認知等の特性を掴み、それに応じた適切な支援内容や方法等を様々に検討し決定してから教育相談に当たっているが、それが単に一方通行による伝達的な面談にしてしまってはいけないと考えている。では、どのようなことに心掛けることが大切なのか。私なりの考えはおぼろげながら持っていたが、それを明確に自覚するきっかけになったのは、前回の記事で取り上げた『ケーキを切れない非行少年たち』(宮口幸治著)の続編になる『どうしても頑張れない人たち―ケーキの切れない非行少年たち2―』を読んだことが大きい。

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 そこで今回は、本書を読んで学んだことをまとめながら、私なりの「保護者との教育相談で心掛けていること」を明確に示したい。読者の皆さんにとっては身近にいるかもしれない「頑張ろうとしても、どうしても頑張れない人たち」を支援する人をさらに支援する際の参考になるのではないかと思う。ぜひそうなってほしいと願いつつ、以下、筆を進めたい。

 

 本書の出版については、著者が前著を書いている最中から構想していたらしく、「境界知能」の範囲にいる人たちは、その後、どう生きて行けばいいのか、社会はどう支援していけばいいのかという観点で、次のような構成で書かれている。まず第1章を全体の概要を掴むための羅針盤のように位置付け、第2~8章では「どうしても頑張れない人たち」に対する支援内容や、その支援者に対する支援内容等について具体的な提案をしている。その中で、私が特に参考にしたのは、「第7章 支援する人を支援せよ」の内容である。次に、第7章から特に参考にしたことと私なりの視点から付け加えたことを箇条書きにし、私が「保護者との教育相談で心掛けていること」を整理して示しておこう。

 

〇 子どもを支援する上で一番の効果的な支援は、その子の保護者に“この子のために頑張ろう”と思ってもらうこと。

〇 保護者のために、場合によっては保護者自身の話を“じっと聞いてあげる”ことや“保護者の苦労を労う”などの保護者の頑張りをサポートすること。

〇 こちらからの一方的な話ではなく、保護者の思いや願いを聞きながら、双方向的な対話を通して今までの支援内容や方法等を改善したり、足らなかった支援内容を付け加えたりする提案になるようにすること。

〇 基本的に保護者のやり方を否定しないようにすること。

〇 無理に保護者を変えようとせず、子どもの成長を目標にして、家庭と学校が連携を図ってよりよい支援をしていくような方向で話し合うこと。

〇 保護者の行き詰まっている場合は、自分が ①戦う(子どもに負けないように強く叱る。誰かのせいにする。) ②逃げる(子どもの問題に気付かないふりをする。仕事などに没頭する。) ③固まる(子どもの言いなりになる。甘やかす。)のいずれかの状態になっていないかと気付いてもらうこと。

〇 保護者には子どもにとって、①自分の“困り感”について理解して支えてくれる「安心の土台」 ②目標にチャレンジしたい時に見守ってくれる「伴走者」になることが大切だと認識してもらうこと。

 

 第7章の中で著者は、保護者が今までの自分のやり方を反省して変わったと思ったきっかけはどんな時だったかについて語ったことを、次のように紹介している。

(1) 保護者自身の体験が認められた時

(2) 信頼できる人が見つかった時

(3) 子どもに変化が見られた時

(4) 子どもにとっての自分の役割が分かった時

最初に触れた事例において、私は保護者との教育相談がせめて上記の(1)(2)(4)になってほしいと臨んだ結果、予想以上に保護者は前向きに受け止めてくれたので、大きな達成感と充実感を味わうことができた。このことによって、今の仕事がもつ“やりがい”を強く意識することができ、モチベーションが大いに上がった。今後も本書から学んだことを生かして、保護者との教育相談に臨んでいこうと改めて心に誓った次第である。

「境界知能」の範囲にいる子どもたちに特別な支援の手立てを!~宮口幸治著『ケーキの切れない非行少年たち』から学ぶ~

 特別支援教育・指導員の仕事を始めて、もう半年ほどが経つ。主たる仕事は、幼稚園や保育園、小・中学校等から市の教育委員会へ申請された、何らかの「困り感」をもつ子どもに対する効果的な支援内容及び方法、また適切な学びの場についての教育相談を行うことである。教育相談によって、対象児の担任の先生や保護者等が子どもの「困り感」を解消していく支援の手掛かりを得て、それを実践することで子ども自身が「困り感」を気にしなくなっていくかどうかによって真価が問われる仕事である。

 

    では、簡単にその一連の仕事の流れを見てみよう。まず、私たち指導員はペアになって、対象児が在籍する園や学校へ出掛けて活動や学習等の様子を参観させてもらい、対象児の具体的な行動観察をしたり、必要に応じてその子と直接面談をしたり、さらに担任の先生から必要な情報を得たりして、それらについての記録メモを取って帰る。次に、そのメモを整理しながら「受理簿」という報告書にまとめ、対象児の「困り感」や特性等を改めて明確にして、その原因や背景等を考察する。そして、対象児の「困り感」や特性等に合った支援内容及び方法、適切な学びの場について検討した上で、教育相談の基本方針を決める。最後に、対象児の担任の先生や保護者等と教育相談を行い、今後の望ましい支援の在り方や適切な学びの場について共通理解を図ることで締めくくる。これが一連の仕事の流れである。

 

 ところで、私がこの約半年間に出会った子どもたちがもつ何らかの「困り感」や特性等の多くは、おおよそ次のような特徴があった。

〇 感情のコントロールがうまくできず、すぐにカッとなって友達に手を出す。

〇 人とのコミュニケーションがうまくできず、トラブルを起こすことが多い。

〇 授業中に集中して学習することが苦手で、じっと座っておれない。

〇 指示や説明したことを理解するのが遅く、集団行動ができにくい。

〇 計算が苦手だったり、漢字がなかなか覚えられなかったりする。

〇 身体の使い方が不器用であったり、姿勢がすぐに崩れてしまったりする。

 

 他にも、吃音だったり病弱・虚弱体質だったりすることで特別に配慮を要する子どもたちもいた。しかし、対象児の多くは、通常の学級に在籍していて、担任の先生が特に配慮することもなく関わってきている中で、上記の特徴のような「困り感」が顕在化してきたのである。しかし、保護者は園や学校等から指摘されるまでは、我が子の「困り感」や特性等について特に心配していなかったので、医療機関や療育機関等を訪れてはいないのが現状である。これらの子どもの中には、もし医療機関や療育機関等で診てもらい発達検査や心理検査を受けていたら、いわゆる「境界知能」(明らかな知的障害ではないが、正常域を下回る境界域、およそIQ70~84)の範囲にいることが分かるのではないかと思われる。さらに、その中には「自閉スペクトラム症(ASD)」や「注意欠陥・多動性症候群(ADHD)」、「限局性学習障害(LD)」等の発達障害と診断される子もいるかもしれないが、そのほとんどは「知的には問題ありません。様子を見ましょう。」と言われて、何らかの特別支援を受ける機会を逃しているのである。

 

 診断名を確定することはともかく、対象児が「境界知能」の範囲にいるのかどうかを確かめることは大切なことである。というのは、このことで対象児の「困り感」の根本的な原因になると考えられる「認知機能(聞く、理解する、見る、想像する、判断するなどの力)の弱さ」に目を向けることができ、その効果的な支援内容として「認知機能強化」を取り上げることができるからである。私がこのように考えるようになったのは、最近ある本に出合ったからである。それは、今から2年ほど前に発刊され話題になった『ケーキの切れない非行少年たち』(宮口幸治著)である。

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 本書は、児童精神科医である著者が医療少年院での勤務で得た知見を踏まえて、非行少年たちの特徴やその更生方法、さらに非行少年を作らないための方策等に関する提案が示されている。その中で、非行少年に共通する次のような特徴が述べられているのだが、それらは前述したような私が出会うことが多い子どもたちの「困り感」や特性等とかなり重なっていることに驚く。

〇 「認知機能の弱さ」(見たり聞いたり想像するチカラが弱い。)

〇 「感情統制の弱さ」(感情をコントロールするのが苦手。すぐにキレる。)

〇 「融通の利かなさ」(何でも思いつきでやってしまう。予想外のことに弱い。)

〇 「不適切な自己評価」(自分の問題点が分からない。自信があり過ぎる、なさ過ぎる。)

〇 「対人スキルの乏しさ」(人とのコミュニケーションが苦手。)

〇 「身体的不器用さ」(力加減ができない。身体の使い方が不器用で姿勢が悪い。)

つまり、園や学校で何らかの「困り感」や特性等をもつ子どもたちに対して適切な支援を行うことができずそのまま見逃していたら、その子たちは非行化していく可能性が高いということである。

 

 著者は、本書の中でこのような「境界知能」の範囲にある子どもたちは小学校2年生頃からS0Sのサインを出していると思われるので、早期に発見して適切な支援を行うことが必要だと指摘している。そして、その支援内容の中でも全ての学習の基礎となる認知機能への支援、つまり「コグトレ」という認知機能強化トレーニングを系統的に行う支援が有効であると提案している。具体的には、認知機能を構成する5つの要素(記憶、言語理解、注意、知覚、推論・判断)に対応する、「覚える」「数える」「写す」「見つける」「想像する」の5つのトレーニングからなっている。また、教材はワークシートを利用し、紙と鉛筆を使って取り組むトレーニングである。私は、「コグトレ」に対して仕事柄とても興味・関心をもち、早速、4歳の初孫Hにも使用できる『もっとやさしい コグトレ―思考力や社会性の基礎を養う認知機能強化トレーニング―』(宮口幸治編、青山芳文・佐藤友紀著)を入手した。

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 まだ、内容を詳しく吟味していないが、冬休み中にHにゲーム感覚でやらせてみて、その有効性を確かめてみようと思う。もし私なりにその有効性を実感したら、今の仕事にも生かして、特に「境界知能」の範囲にいる子どもたちに対する特別な支援の手立てとして活用しようと構想している。また、有効性の検証結果と考察等については、後日のブログで報告したいと考えている。乞うご期待!

紅葉の美しさで有名なお寺で再開した二人の孫たち~久し振りに家族が揃った日の充実感~

 12月最初の土曜日、私たち夫婦と長女、その長男(私たちにとっての初孫H)の4人、そして義母と義姉夫婦の3人は、二女夫婦とその長男(私たちにとっての二人目の孫M)の住む市をそれぞれの自家用車で訪れ、リーガロイヤルホテルの中の食事処で昼食を取った。残念ながら、Mに離乳食を食べさせたり昼寝をさせたりするために、二女たちは昼食会場へ来ることができなかった。しかし、その後、庭園に咲く紅葉の美しさで有名なお寺で合流することにした。

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 午後1時過ぎに私たちの2台の車が先に到着した。しばらく車中で過ごしていると、間もなく駐車場に二女とMの二人を乗せた車がやってきた。パパは用事ができたので、一緒に来ることができなくなったって…。ママ方の親戚たちが集合していたので、気を遣ったのかな。二女が運転する車が止まると、Hは待ちきれないという様子で私の車から飛び出しそうになった。私たちじじばばは、他の車が来るかもしれないので「Hくん、周りをよく見て車が来てないことを確かめて!」と気が気でないが、長女は「Hくん、待って。」とのんびりした雰囲気で声掛けしただけ。私はすぐにドアを開けて運転席から飛び出し、Hの手を掴んで一緒に走って二女の車まで駆けて行った。

 

 後部座席に設置されたチャイルドシートに乗っていたMと私に抱っこされたHは、窓越しに対面した。Hは久し振りに再開したMを喜ばそうと、早速にぎこちない動きをしながら「Mくん、いない、ない、ばあ。」と言った。だけど、Mの方はキョトンとした表情で見るだけ…。それでも、Hはそれにもめげず「いない、いない、ばあ。」を連発していた。私は、Hの必死な様子に何だか胸が熱くなるのを覚えた。こんな幼い子でも、自分より年下の子を喜ばそうとするのだ。いつもは私たちじじばばに甘えてばかりいるHが、急にお兄ちゃんになったように感じた。人間というのは、実体的な存在ではなく、やはり関係的な存在なのだなあと改めて感じ入った瞬間だった。

 

 Hに負けず、私もついついMに対して変顔をしながら「いない、いない、ばあ。」をしていると、最近何度か二女たちのマンションを訪れて、よくあやしていた私を覚えてくれていたのか、Mが微笑んでくれた。「ほら、Hくん、二人でやったら、Mくんも喜んでくれたね。」と私がHに話し掛けると、Hもとても嬉しそうな顔になり、私もホッと一安心した。そうこうしていると、妻もやって来て、二女を手伝ってMをチャイルドシートから降ろした。今度は、妻がMを抱っこしてやり、一生懸命にあやしてやった。すると、Mはすぐに反応し、満面の笑みを見せてくれた。やっぱりちゃんと私たちの顔を覚えてくれていたのだ。

 

 それからしばらくすると、Hにお菓子をせがまれて近くのドラッグストアへ買い出しに行ってくれていた義姉夫婦と義母を乗せた車が帰ってきた。義姉も早速にMを抱っこして、しきりにMをあやしたり、義母や義兄にMの顔を見せてあげたりした。93歳の義母は少し認知症の症状が出る時があるし、何といっても高齢のために筋力等も弱っているので、駐車場では抱っこするのは無理なのである。「さあ、お寺の中の大広間に入り、ぜんざいを食べながら庭園の美しい紅葉を見ましょう。」という義姉の声で、みんなは一斉にお寺の山門を潜った。

 

 赤い絨毯を敷き詰めた大広間には、ちょうどよい大きさと高さの木机がほどよい間隔に並らべて置いていた。また、大広間前の赤い絨毯の廊下にも、趣のある庭園を望むために配置された布張りの椅子が適度に設置されていた。私たちは思い思いにそれらに座ったり、絨毯に腰を下ろしたりして、記念撮影を始めた。もちろん二女と孫Mに会うために来たのだから、遠方からきた私たちはこの二人と一緒にスマホのカメラに収まろうと何度も様々なポーズを取った。その中で、私のスマホで撮った中の1枚が次の写真である。

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 写真に写られるのを照れている4歳9か月になるHの表情と、カメラ目線で笑顔のまだ9か月のMの表情の対比が面白く、共に愛らしい。また、妻と二人の娘たちの心穏やかな表情も愛おしい。子どもの頃は家庭的に決して幸せでなかった私だが、今、このように親子三代で家族揃ってカメラに収まっていることは何にも代えがたい幸せである。大広間で食べたぜんざいの甘い味はすこし忘れかけてきたが、この写真を撮った時の心の充実感を私は決して忘れることはないであろう。

<身分け構造>と<言分け構造>をもつ人間の在り方について考える~丸山圭三郎著『フェティシズムと快楽』を再読して~

 当ブログの前々回の記事において、『ポストコロナの生命哲学―「いのち」が発する自然(ピュシス)の歌を聴け―』(福岡伸一伊藤亜紗・藤原辰史著)を取り上げ、<第2部 鼎談・ポストコロナの生命哲学 第6章 身体観を捉えなおす>における鼎談内容の概要と主に生物学者の福岡氏の総括的な話の概要を紹介した。その中で、人間というのは、外部にロゴス的価値を信奉しつつ、内部ではピュシス的身体とも折り合いをつけていかなくてはならない、とても危うい両義的なバランスの上(これを福岡氏は「動的平衡」と呼ぶ。)にある存在だと、彼はとらえていることが分かった。私は彼のこのような人間観に対して共感的な理解を示したが、その根底には今から30年以上も前に読み、その著者の理論に強く影響を受けた『フェティシズムと快楽』(丸山圭三郎著)という本の存在があった。

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 著者の丸山氏は元フランス語教師であったが、その後ソシュール言語学に関心をもち始め、ソシュール解釈に新地平を拓いた研究により、世界的にも評価された丸山言語哲学とも呼ばれる独自の思想を打ち出した言語哲学者である。私は本書以外では、『言葉のエロティシズム』と『生の円環運動』という本しか持っていないので、著者の学問的成果について詳しく評論する知見をもってはいない。ただし、本書で語られている<身分け構造>と<言分け構造>については、当時とても興味をもったので自分なりに理解する努力をしたことがある。

 

 そこで今回は、本書の内容概要を簡単に紹介し、その上で著者の語る<身分け構造>と<言分け構造>をもつ人間の在り方について要約するとともに、それに対する私なりの考えを付け加えてみたい。

 

 本書は、題名にもなっている「フェティシズムと快楽」と「<近代>批判のメリットと限界」、「言葉と文化」、「今、ここでの実践」という4回の講演のテープをもとに書き下ろされたものである。これらの講演内容は、基本的に身近な日常生活の周りに潜む惰性化し硬直化した様々な<実体論の罠>を抉り出し、流動化した生命の動きを回復するための<関係論>、さらには<生成論>という視座を示しており、教育における<二項対立的な議論>に囚われていた当時の私にとって「目から鱗」の本だったのである。特に第2章の「<近代>批判のメリットと限界」は、易しい言葉で語り掛けてくれてはいるがその内容はインパクトの強いものであったので、私の心には印象深く残っている。今回、再読してみて当時の知的興奮が鮮やかに蘇ってきた。

 

 では、本書に所収されている講演で語られている<身分け構造>と<言分け構造>の概念について話を進めていこう。まず、<身分け構造>という概念は、哲学者で身体論者の市川浩氏が、長い間西欧形而上学の根となっていた心身二元論を超えるべく、精神の対立項としての客体的身体という概念を斥け、大和言葉の<身>というキー・タームに代えて理論化した研究を踏まえている。市川氏は<身分け>を「身によって世界が分節化されると同時に、世界によって身自身が分節化される」という両義的・共起的な事態を意味する用語として使用したのであるが、著者はこの概念を借りて自らの理論を展開した。著者によると、<身分け>は生の機能に基づく種独自のカテゴリー化であり、身の出現とともに外界が「地と図」の意味分化を呈するゲシュタルト、つまり<身分け構造>を構成すると考えた。人間も動物も、この本能的目的関連が作り上げる<環境世界>に適応し、内応しているのである。

 

 ところが、人間だけは、このような本能の行動様式に加えて、もう一つの文化のゲシュタルト、つまり<言分け構造>を過剰物としてもってしまったと、著者は仮説を立てたのである。言葉を代表とするシンボル化能力が文化を生み出し、記号・用具・制度等を組み込む身の延長を可能にしたのである。しかし、その一方で身の方もこれに組み込まれて支配された状況をもたらした。この<言分け構造>というのは、<身分け構造>の上に実体的に重なるのではなく、すでに存在するものは常に<言分け>られた身である。言い換えれば、人間存在にとっての<身分け構造>はもはや変形され破綻しているのである。ただし、この破綻が生み出すものは、本能的図式には存在しなかったカオスとしての<欲動>であり、<無意識>であり、<エス>であって、この力が文化の快楽の源になると同時に、物象化して文化の悲惨をも生み出している。

 

 以上が、著者が理論化した<身分け構造>と<言分け構造>の概念なのであるが、これは当時私が信奉していたフロイド派心理学者の岸田秀氏の、人間は本能が崩れたために幻想としての言葉や文化等を作ったという「唯幻論」の考え方によく似ていると思った。私が違うなと思ったことは、岸田氏の「本能が崩れた結果、幻想を作った」という理路とは反対に丸山氏は「幻想を作った結果、本能が崩れた」という理路で説明していた点であった。しかし、当時の私にとってその原因-結果の議論はどうでもよく、「人間は<身分け構造>と<言分け構造>の重層的存在であり、それらが実体化・固定化しないように柔軟に流動的にバランスを取って生きることが<生の素晴らしさ>を味わうことにつながる」という人間観や人生観を得たことに大きな意義を感じたのである。そして、このことは私を「ポストモダン思想」へと接近させる契機にもなったのであるが…。

 

 ともかくも、このような読書経験をしていたことが、生物学者の福岡氏が唱える「人間というのは、外部にロゴス的価値を信奉しつつ、内部ではピュシス的身体とも折り合いをつけていかなくてはならない、とても危うい両義的なバランスの上にある存在だ」という「動的平衡」に基づく人間観にシンクロしたのではないかと考えた。「ピュシス」と「ロゴス」の動的平衡という考え方と、<身分け構造>と<言分け構造>の重層的・流動的バランスという考え方は、人間存在をとらえる視座として共通するものがあり、いかに当時に比べて大きく変化したように見える現代社会においても、決して手放してはいけない考え方や視座なのではないだろうか。

「吃音」って、どのように克服するのだろうか?~伊藤亜紗著『記憶する体』(エピソード10「吃音のフラッシュバック」)を読んで~

 学校で様々な「困り感」をもつ子どもの適切な学びの場や、その子の特性に応じた学校や家庭での支援の工夫等に関する教育相談を行う仕事をするようになって、約4か月半。改めて、様々な「困り感」をもつ子どもたちは、自閉スペクトラム症(ASD)や注意欠陥・多動症ADHD)、学習障害(LD)等の発達障害の診断を受けていたり、診断は受けてないがそれらの障害特性に類似した様態を見せたりする子が多いと感じる。しかし、中には構音障害や「吃音」等の言語障害を有する子もわずかながらいる。最近も、「吃音」のある子どもの保護者が「本人はあまり気にしていないが、就学後に吃音のことで友達からからかわれたり虐められたりしたらいけないので早く治してやりたいから、通級による指導を受けたい。」と申し出ていると、ある幼稚園から教育相談の申請書が届いた。

 

 私が勤務する市教委・学校教育課の特別支援教育指導員室には、言語聴覚士(ST)の資格を有する者がおり、上述の相談内容への対応について会話をすることがあった。そのSTの話によると、「吃音」は発達性と獲得性に分類され、そのうち約9割が発達性であり、幼児期に発生する場合がほとんどであること。また、発生率は幼児期で8%前後、体質的要因(遺伝的要因)の占める割合が8割程度という報告もあること。さらに、発達性「吃音」の7~8割ぐらいが自然に治ると言われていること。そして、「吃音」の治療方法は現時点ではまだ確立しておらず、最近は家庭で「吃音」の子どもの発言に対して声を掛けていく「リッカムプログラム」という海外で開発された手法を使う医療機関が増えてきていることなどの情報を得ることができた。

 

 以上のことを踏まえると、「吃音」を治すことを目標にして「通級による指導」を受けるという保護者の願いは望みが薄いことになる。その上、現在の本市の「通級による指導」体制は、障害種別ではなく保護者が送迎しやすい距離を考慮した地区別なので、言語障害に特化した専門的な指導を受けることができない場合が多い。もちろん「吃音」による精神的な不安を少しでも取り除くための個別支援を望んでいるのであれば、それはそれで有効な場にはなる。しかし、この保護者は我が子の「吃音」を早く治したいために、「通級による指導」を希望しているのだから、私たちはまず上述のような情報を幼稚園側から保護者へ提供してもらった上で、相談内容を再考してもらう方がよいという結論に至った。

 

 私は、このような会話をしながら、確か「吃音」当事者である美学者・伊藤亜紗氏が「吃音」を通して人間の身体の在り方を論じた『どもる体』という本を著していたことを思い出し、それを借りるために昼休みの時間を利用して職場近くの市立中央図書館へ自転車を走らせた。だが、残念ながら所蔵していなかったので、その代わり「吃音のフラッシュバック」というエピソードが所収されている『記憶する身体』という本を借りることにした。

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 そこで今回は、本書の内容概要に触れつつ、特にエピソード10「吃音のフラッシュバック」の事例を紹介しながら、「吃音」当事者がそれを克服していくローカル・ルールについてまとめてみたい。そして、私なりの簡単な所感を付け加えてみようと思う。

 

 本書は、障害のある12名の体の「記憶が日付を失う過程」を取り上げている。つまり、何らかの障害をもつ方にとって特定の日付をもった出来事の記憶が、いかにして経験の蓄積の中で熟し、日付のないローカル・ルールに変化していくかというプロセスに注目しているのである。著者はエピローグ「身体の考古学」の中で、何らかの障害をもった人間は、その障害を抱えた体とともに生き、無数の工夫を積み重ね、その体を少しでも自分にとって居心地のよいものにしようと格闘してきた、その長い時間の蓄積こそ、その人の体を唯一無二の代えのきかない体にしているのではないかと語っている。そして、その事例として、「吃音」のある人の多くは、どもりそうな言葉を直前で感じ取る鋭敏な感覚を持っていることや、どもりそうな言葉を似た意味の別の言葉に即座に言い換えるとスムーズに話せると知っていることなどを取り上げている。

 

 それだけではなく、エピソード10の「吃音」当事者である柳川太希さんは、大学時代に「一人称を“私”に揃える」、言い換えれば“私”を安定させるという工夫を行って、中学・高校の頃に比べて「吃音」の状態が軽くなったそうである。また、彼は「吃音」とつきあうには身体が起点であると考え、「運動をする」ことで“身体”を安定した状態に保つ工夫もしている。これらの工夫は、「どもってしまうことに対して過剰に敏感になるという極」と反対の「安定した鈍感な極」を作ることを意味する。つまり、安定した極を作れれば、まさに振り子のように、いったんは不安定な極に触れたとしても、いずれはそれ自体の力によって安定した鈍感な極に戻ってくるのを待つのである。彼はこの「二つの極を作る」ということで「吃音」へアプローチした結果、今では日常会話にほとんど困らないほどスムーズにしゃべれるようになったそうである。

 

 「二つの極を作る」という彼の「吃音」へのアプローチは、まさに彼自身のローカル・ルールであり、「吃音」を克服するために当事者の誰でもができる一般的な手法ではない。しかし、だからといって全く参考にならないかと言えば、「そんなことはない。」と私は反論したくなる。その訳は、たとえ人によって結論としての答えが違っていても、その人が独自の結論を導き出すプロセスには共通するものがあるはずだからである。著者も言うように、おそらく「吃音」のある人の多くは、言葉をあやつることの一部に「吃音」というファフクターが組み込まれており、その人のしゃべるシステムは長い時間をかけて「吃音」とともに形成されていくものなのである。

 

 本書のエピローグには、「吃音」当事者数名のおしゃべりの中で「もし目の前に、これを飲んだら吃音が治るという薬があったら飲む?」という「究極の問い」の話になったことが記されている。この答えは、意外にもそこにいた全員が「N0」だったそうである。著者は、その訳を〇〇という障害であるという「属性」ではなく、その体とともに過ごした「時間」こそが、その人の身体的アイデンティティを作るのではないかと考えている。だからこそ、「吃音」当事者は、これを克服するために彼独自のローカル・ルールを作ることが求められるのである。そして、このような考え方は、「吃音」当事者だけでなく、実は何らかの特性をもっているであろう全ての人間にとって必要な考え方ではないのだろうか。私はエピソード10からこのことを学んだ。

新型コロナの“第5波”が収束している束の間に考えたこと~福岡伸一・伊藤亜紗・藤原辰史著『ポストコロナの生命哲学―「いのち」が発する自然(ピュシス)の歌を聴け―』を読んで~

 11月に入ってから、急速に新型コロナウイルスの感染者数が減ってきた。本県でもここ数日、感染者0名が続いていて、知事も恒例の記者会見で「“第5波”は収束した。」という主旨の発言をしていた。それに伴って、社会経済活動もコロナ前の日常性を取り戻そうとする動きが活発になっている。コロナ禍で客足が途絶えていた本県の観光地にも、祝祭日には多くの人々が訪れているニュース映像がテレビ画面に流れていた。また、私の自宅近くにある本市の中心商店街でも、「まん延防止等特別措置」の発令中に比べると明らかに買い物客の往来が多くなった。

 

 そんな中、国や各地方自治体の行政機関は、次に来るであろう“第6派”に備えるために病床の確保や飲む治療薬の承認等の医療体制の整備に注力している。また、多くの国民も今まで行ってきたマスクの着用や手指消毒、屋内の換気等の感染防止対策を、油断することなく継続している。もちろん私たち夫婦も、気を緩めることなく続けてきている。このように、人間はいつ新型コロナウイルスという外敵に襲われても対応できるように、出来得る限りの防護策を構築しようとしている訳である。しかし、そもそも新型コロナウイルスは、我々人間にとって害を及ぼすだけの敵なのであろうか。私は“第5波”が収束したこの束の間に、新型コロナウイルスと人間との関係について少し考えてみたいと思い、それに関連しそうな本を読んでみることにした。

 

 私が選んだのは、『ポストコロナの生命哲学―「いのち」が発する自然(ピュシス)の歌を聴け―』(福岡伸一伊藤亜紗・藤原辰史著)という本。最近、私が注目している美学者の伊藤亜紗氏が著者の一人として名を連ねていることも選んだ理由の一つだが、生命における「動的平衡」という概念を提唱している生物学者福岡伸一氏もその著者の一人であったことが大きい。本書は、NHKのBS1スペシャル「コロナ新時代への提言2 福岡伸一×藤原辰史×伊藤亜紗」(2020年8月1日放送)の番組内容や未放送シーンに加え、新たに鼎談を行い、大幅に加筆修正の上、構成したものである。

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 そこで今回は、本書の中の<第2部 鼎談・ポストコロナの生命哲学 第6章 身体観を捉えなおす>における鼎談内容の概要、特に福岡伸一氏の発言内容を中心にまとめながら、新型コロナウイルスと人間との関係や「新しい生命哲学」における身体観等について私なりに考えてみたことを綴ってみたい。

 

 まず、鼎談内容の概要から。コロナ禍で外出して人と接触し、自分が変わるという経験をしなくなったことについて議論している中、藤原氏が今後オンラインで身体が映像化され、音声だけでコミュニケーションを取るというやり方は広まっていくと発言し、このようなデジタルな社会に適応した様々な文化的な営みが発見されていくだろうと、コロナ禍における「新しい生活様式」のポジティブな面を指摘している。それに対して、伊藤氏はオンラインのコミュニケーションが広がると、私たちはますます視覚に依存してしまったり、孤立感を強めてしまったりすることについて指摘している。そして、そこにその人が存在するという「いる感」のようなものが失われている点も付け加えて、沈黙が許されるOrihimeという分身ロボットの事例から「分身」という1.5人称の存在をうまく使っていくという考え方がポイントになると語っている。

 

 次に、上述のような議論の流れから、新型コロナウイルスも私たち高等生物の遺伝子の一部が外部に千切れて出た「分身」であるととらえる話題が展開していき、福岡氏がウイルスについて次のようなことを語っている。…ウイルスという分身は、いろいろな宿主を渡り歩きながら、変異したり、その宿主の情報の一部を取り込んだりして、また元の宿主のところに戻ってくる。その際、宿主の免疫系を揺るがしたり、疾患をもたらしたりするのが病原ウイルスだが、全く何の症状も現わさない通過者(パッセンジャー)のような存在もある。しかし、パッセンジャーは知らないうちに、新しい遺伝情報を宿主にもたらしているかもしれない。進化のプロセスでウイルスが温存されてきた理由は、一つにはこの遺伝子の水平移動に関わっているからだと考えられる。だから、分身もまた生命の環の一部である。分身には功罪両面があるが、その罪としての存在感が、今回のコロナ禍でにわかに顕在化している訳である。分身としてのウイルスは、ずっと昔から、そしてこれからもその気配を消したり、現わしたりしながら、絶えず相互作用を繰り返すパートナーでもある。…

 

 彼が語っている言葉によれば、新型コロナウイルスは我々人間にとって倒すべき“敵”ではなく、相互作用を繰り返す“パートナー”なのである。つまり、ウイルスも人間も全ての生命は、共存を目指ざす協働的な存在であり、大きな生命の環の動的平衡の中にいるのである。ただし、彼はこのピュシス的な自然のビッグピクチャーを俯瞰できるのは、おそらく人間の持つ想像力だけが成し得ることなので、常にそのことに思いを馳せるということは、利他性や共生といった理念を考える上でも大切なことだと指摘している。また、彼は新型コロナ対策としてのワクチンによる免疫系の賦活化を有効だと認めながらも、ピュシスとしての人間の身体性を信じることが基本だと主張した後に、鼎談の総括的な話をして締めくくっている。

 

 最後に、福岡氏の総括的な話の概要を紹介し、それに対する私なりの所感を付け加えてみたい。彼は言う。歴史的に人間はロゴス(言葉)の力でピュシス(自然)の掟や呪縛(遺伝子の命令や種の存続のためのツールとしての個体というあり方)の外側に立つことで、個の価値や基本的人権の尊重というロゴス的約束を果たした。だからピュシスの原則に基づいて、ロゴス的約束を反故にしてはいけない。しかし一方で、生命は本来的にはどこまで行ってもピュシス的存在である。揺らぎ、ノイズ、汚濁、脆さ、不確かさを常に含んだものである。同時にそこには強靭さ、許容性、レジリエンス(回復性)といった特性も含まれている。だから、人間というのは、外部にロゴス的価値を信奉しつつ、内部ではピュシス的身体とも折り合いをつけていかなくてはならない、とても危うい両義的なバランスの上(これを福岡氏は「動的平衡」と呼ぶ。)にある存在だと言える。したがって、人間存在は常にままならないもので、制御不能ながら自律性を持つので、何とか折り合いをつけつつも、最終的には信頼をおくしかない、あるいは受け入れるしかないのである。「新しい生命哲学」は、このような身体観から始まるのではないか。

 

 このような福岡氏の生命における「動的平衡」という概念は、理性による人間中心主義や物理学を中核とした自然科学主義によって対象としての自然を一方的に開発・利用してきたことが、現在の環境破壊や気候変動等という危機を起こした要因になっているという歴史的な事実を問い直す際のキーワードになると考える。このことは近代教育において、人間である子どもという自然を一方的に操作・指導してきたことが、現在の子どもたちの身体的・精神的疾患等という危機を起こした要因になっている事態と同定することができるのではないかと思う。よって、近代教育のあり方を問い直す視座としては、自他(自己と環境や他者と)の「相互作用」の連続的過程における自己組織化、端的に言えば自他の「自律性」の保障になるのではないだろうか。

教育における“利他”をどうとらえるか?~伊藤亜紗編・中島岳志・若松英輔・國分功一郎・磯崎憲一郎著『「利他」とは何か』から学ぶ~

 美学者の伊藤亜紗氏が著した『目の見えない人は世界をどう見ているのか』を読んで以来、彼女の発言内容に関心を持つようになった私は、最近『「利他」とは何か』(伊藤亜紗編・中島岳志若松英輔國分功一郎磯崎憲一郎著)を読んだ。その中で彼女が執筆している<第1章「うつわ」的利他-ケアの現場から>を読んでいる時に、自分の教職時代のある場面を思い出した。

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 それは次のような場面である。…私が市立のある中学校の校長をしていた時、始・終業式の式辞を述べたり全校朝会等の校長講話をしたりする前に、その話題についてしっかり下調べをして臨んでいた。そのような中、赴任2年目の2学期の終業式の式辞で取り上げた話題が、「“自利利他”の精神を生かした生活」であった。内容は、生徒たちが目前にした冬休みを有意義に過ごすための心構えとして、“自利利他”の精神を大切にしてほしいということだった。私は仏教の教えの一つである「自分を生かし、相手も生かす」という“自利利他”の精神を敷衍して、「他人のためになすことが、自分のためになる。自分のためになすことが、他人のためにもなる」という意味を強調した。具体例としては、「ボランティア活動」や「受験勉強」をどのようにとらえて取り組めばよいかについて語ったという場面である。

 

 なぜ、この場面を思い出したかというと、私が語った“自利利他”の精神の意味は本当に妥当性があるものだったのかという疑問を抱いたからである。これについて、伊藤氏は本書の中で、私が語った“自利利他”の精神のことを自分にとっての利益を行為の動機にする「合理的利他主義」と位置付け、現在の“利他”をめぐる主要な考え方の一つになっていると説明している。したがって、私が語った“自利利他”の精神の意味は一般的な妥当性はあったと考えられる。しかし、“利他”についての考え方はこれだけなのであろうか。また、教育における“利他”をどうとらえればいいのだろうか。これらの疑問について答えるために、伊藤氏の説明の続きをもう少し追ってみたい。

 

 彼女は、利益を動機とする点で「合理的利他主義」をさらに推し進めた「効果的利他主義」についても触れている。それによると、「効果的利他主義」とは共感よりも理性に基づいて幸福を数値化し、「一番たくさんの」幸福を効率的に実現するという考え方である。この考え方の背景にあるのは、現在の世界が地球規模の危機にあるという認識である。この地球規模の危機は、想像もできないような膨大で複雑な連関によって起こっている危機であるから、「近いところ」に関わろうとする共感ではとらえることができず、どうしても理性によってとらえる必要があるのである。

 

 では、彼女は「合理的利他主義」や「効果的利他主義」の考えについてどう思っているのだろうか。まず「共感」の問題について、彼女はこれらの考えにおいて指摘されていることに理解を示すとともに、自らの経験を踏まえて「共感」のネガティブな効果について説明している。「共感から利他が生まれる」という発想は、「共感を得られないと助けてもらえない」というプレッシャーにつながり、社会を窮屈で、不自由なものにしてしまうというのである。次に「数字へのこだわり」に対しても、次のような違和感をもっている。一つ目は、数字にこだわる限り、金銭や物資の寄付という数値化しやすいものが効果的であるかのような印象を抱いてしまうこと。二つ目は、数値化は長い目で見て、社会を利他的なものにしないということ。つまり、彼女はこれらの考えに対して全面的に賛成をしていないのである。

 

 また、彼女はこれまでの研究の中で、他者のために何かよいことをしようとする思いが、しばしば、その他者をコントロールし、支配することにつながること、言い換えれば善意がむしろ壁になることを感じていたと述べている。具体的に言うと、「これをしてあげたら相手にとって利になるだろう」が「これをしてあげるんだから相手は喜ぶはずだ」に変わり、さらには「相手は喜ぶべきだ」になる時、利他の心は容易に相手を支配することにつながるのである。つまり、利他の大原則は、「自分の行為の結果はコントロールできない」ということであり、別の言い方をすれば「見返りは期待できない」ということだと、彼女は厳しく指摘しているのである。

 

 この彼女の指摘から言えることは、私が校長講話で生徒たちに語った「“自利利他”の精神」や「合理的利他主義」の発想こそ他人に利することが巡り巡って自分に返ってくるという考え方であり、それは他者の支配につながる危険を孕んでいることになるのである。この点、私が教職に就いていた時にはっきりと認識していたことと同様であり、ともすると子どものためを目的にした教育という“利他”も、教師による子どもへのコントロールと支配につながる危険を秘めているのである。私自身もその誘惑に常に晒されていたが、少なからずの教師の言動にその気配を感じていたのが現実であった。

 

 では、“利他”の思いが「コントロール」や「支配」にならないようにするために、教師はどうすればいいのだろうか。本書の中で彼女は、相手の言葉や反応に対して、真摯に耳を傾け、「聞く」こと以外にないと述べている。つまり、教師は子どものことを知ったつもりにならないこと。子どもに対して教師である自分との違いを意識すること。子どもの潜在的な可能性に耳を傾けるというケアこそが、“利他”の本質なのである。そして、よき“利他”には必ず「他者の発見」があり、そこから「自分が変わること」に発展するものなのである。私は、このような“利他”こそが教育において求められるのであり、教師が善意を押し付けるのではなく、うつわのように余白を持つことが必要なのだと強く感じた。彼女の発言内容の多くは、教育論として大きな意義を有するものであると改めて認識した次第である。