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「人生・生き方」「教育・子育て」「健康・スポーツ」などについて考え、雑学的な知識を参考にしながらエッセイ風に綴るblogです。

「ミドルリーダーとしての役割と心構え」というテーマで講話しました!

   今月17日(金)の午前中の約1時間、40歳に達した中堅教員を対象にして「ミドルリーダーとしての役割と心構え」というテーマで講話をした。私なりに長い教職経験の中で培ってきた教育観や学習観、そして今まで折に触れて展開してきた教師論や学校論等を踏まえて自由に話をさせていただいたが、終わってみると言い足りないという思いが湧きあがってきた。しかし、久し振りに教育に関する話をさせていただき、私自身は充実した時間を過ごすことができた。そこで、今回はその講話内容の概要と簡単な所感をまとめてみたい。

 

 まず講話の糸口として、私が現在の仕事をする上で抱えている「発達課題」について触れながら、個々の先生方の抱えている「発達課題」を意識化してもらった。一般に「発達課題」とは、人が年齢に応じて達成すべき課題のことを言うが、ここで私が使った意味は「人が個々のライフステージにおいて現在抱えている課題」である。人はそれぞれ人生を歩む道筋は同じではない。それは教師という職業を選んだ人間も同様である。今、教師として抱えている「発達課題」はそれぞれ違うが、それを達成しなければ次のライフステージに上がれないということを意識してほしかったのである。私はこれを「実存(未来を自らが選択していく主体性)的存在としての教師」の視座ととらえている。

 

 次に、自分を取り巻く教職員構成を踏まえた「役割」について意識してもらった。学校という職場を構成している教職員は、その職務内容によって管理職や教諭、養護教諭栄養教諭がおり、また常勤及び非常勤講師という立場の方もいる。さらに、事務職員や校務員、生活支援員等という立場の方もいるのである。これらの多くの教職員によって学校という組織は機能しているのであり、そのことをしっかりと踏まえて自分の職責を果たすことが基本である。また、年齢別の教職員構成も踏まえておく必要がある。特に現在は大量退職時代を迎えており、それに比例して新規採用者数も以前に比べると非常に多くなっている。今までは年齢構成的には若年層に位置していた中堅教員は、今やあっという間にミドルリーダーにならなければならない時代情況を迎えたのである。当然、その職責は今まで以上に重くなり、多くの若年教員の見本になりミドルリーダーとしての「役割」が期待されるのである。私はこれを「関係(社会)的存在としての教師」の視座ととらえている。

 

 このような長い前置きの後、いよいよ本日の講話の中心内容に入っていった。

 

 一つ目は、「人間力」の視点から。古来より人生における発達段階や学びの理想な姿について示されてきた。当日は、中国の思想家・孔子の言行録『論語』の中でも有名な「子日く、十有五にして学を志す。三十にして立つ。四十にして惑わず。五十にして天命を知る。六十にして耳順う。七十にして心の欲する所に従って、矩を踰えず。」や、幕末の儒学者佐藤一斎著『言志晩録60条』の「少にして学べば、則ち壮にして為すこと有り。壮にして学べば、則ち老いて衰えず。老いて学べば、則ち死して朽ちず。」を紹介しつつ、課題意識に即した対話や読書を日常化し、自身をアップデートし続けることの大切さを述べた。その際、ドイツの近代哲学者・ニーチェ著『曙光』より「脱皮できない蛇は滅ぶ」という箴言も紹介した。

 

 二つ目は、「実践的指導力」の視点から。私が初めて小学1年生を担任した時のエピソードを基に、子どもを知ることは自分を知ることにつながることについて「子ども体験」という概念を中核にして説明した。また、私が地元の国立大学教育学部附属小学校に勤務していた時に研究していた体育学習の進め方を例に、学習は発達心理学者のピアジェの基本理論である「今の力でできる活動を行う段階」(同化)から「活動の飽和状態→転換」を経て「新しい力を使って活動を行う段階」(調節)へという発達の大原則を踏まえることが大切であることを強調した。この大原則は、一つ目で触れた内容とも重複するものであり、子どもだけでなく私たち大人になっても同様であることも付け加えた。

 

 三つ目は、「組織力」の視点から。学校という組織は、従来から職階制という構造から捉えると「なべぶた型」「文鎮型」と言われてきたが、教職員間の関係から捉えると「ウェブ(クモの巣)型」であり、ミドルリーダーの在り方を工夫すれば学校の組織をより活性化することができると強調した。実態を分析的・構造的に把握し、エビデンスをもって今学校が抱える課題を明らかにし、その解決に向けた具体的なビジョンを示すような具体性のある提案をすれば、管理職も納得させることができる。また、当然同僚の教職員の協力も得られることを示唆的に話した。

 

 四つ目は、「信頼構築力」の視点から。現在の学校を取り巻く環境について鑑みれば、学校内、学校間、学校と家庭、地域社会等との連携を深め、相互の信頼感を高める必要があることを話した。「チームとしての学校」が叫ばれる中、お互いが同僚性で結ばれた教師集団づくりは喫緊の課題である。また、義務教育学校の設置も認められる現状を踏まえた「小中連携を図る学校」、子育ての困難な情況を踏まえた「子育て共同体としての学校」、地域社会と相互作用し、共存する学校というイメージが求められる「コミュニティ・スクール」などの在り方についても、講話時間が残り少なくなったので少しではあったが触れておいた。

 

 終わりに、新学習指導要領の全面実施への対応や教員の働き方改革への対応などについて、上述した内容を踏まえて構造的な理解を図れば、一元的な課題解決の道筋が見えてくるのではないかという提案的な結びをして講話を閉じた。講話の途中で、孫育ての実例の中で一時期流行した「孫」という演歌の一節を歌ったり、現職校長の在り方についての辛口コメントをつぶやいたりしたためか、参加されていた中堅教員の先生方やお世話をされていた指導主事の先生方はあっけにとられていたようだったが、全般的には皆さん表情豊かに聴いてくださっていた。私としては、形式ばった中身の乏しい講話にだけはならないように心掛けたつもりだったが、少し羽目を外してしまったかもしれない。反省しきりのここ数日だが、まあ、この歳になっても私の性格は変わらないので仕方ないかなあ…。

可塑性のある素材との遊びで育まれる豊かな情操!~孫Hの近況報告~

 お待たせしました。誰も待ってないか!(独り言の突っ込みです)2週間ほど休んでいた当ブログを再開!!

 

    当ブログを休んでいる間、世間的には10連休のゴールデンウィークも終わり、その成否や功罪などについての世論調査の結果を報じるニュースをマスメディアで観ることがよくあった。「よかった・概ねよかった」という感想が多かったのは男性や高齢者世代。一方、「よくなかった・概ねよくなかった」という感想が多かったのは女性や子育て世代のようである。理由としては、外で働く男性や子育ての終わった高齢者の場合、10連休を活用して旅行やレジャーを楽しみ心身ともにリフレッシュできたからというもの。また、家事を中心に担う子育て世代の女性の場合、10連休の間、家族の3度の食事作りに追われたからというもの。義務教育段階の子どもを持つお母さんにとっては、学校給食の有難味を再認識したというところか。しかし、共稼ぎ家庭が急増している現在、いまだに女性に家事労働を押し付けている家庭が何と多いのだろう。特に共稼ぎ家庭における家事労働を「男女平等」にすることがなかなか進まないのは、我が国における男性優位社会の歴史の名残なのではないのだろうか…と、つい私は勘ぐってしまう。

 

   ところで、この10連休中、私は4月27日(土)、28日(日)、5月2日(木)、3日(金)が勤務日であった。私の勤務している公益財団法人は、年末年始の休業日以外は年中無休のスポーツ施設を指定管理しているから、このような勤務態勢になるのである。もちろんこの4日分の休みは別日に割り振られているので休みの日数は同じなのだが、私は10連休という恩恵には与れなかった。しかし、その中の2度の3連休中には孫Hをじじばばが預かる日が数日あり、私たちは久し振りにHと一緒にゆっくりと遊ぶ時間がもてた。そこで、2歳3か月になった孫Hの近況報告を兼ねて、その成長ぶりについてまたまた「じじバカ」ぶりを発揮して綴ってみようと思う。

 

    この4月に長女(Hの母親)の勤務場所が変わり、定刻までに保育園へ迎えに行けるようになって、私たちじじばばがHとかかわる時間が今までより少なくなった。Hにとっては母親と接する時間が増えたのだからよかったには違いないが、じじババにとっては何とも寂しくなったというのが正直な気持ちである。そんな中、久し振りでHと出会ったとき、Hは私を指さして「じい。」、妻を指さして「ばあ。」とはっきりとした声で呼んだ。つい3月頃まではあまり口にしなかったので、私たちは驚くとともに大いに喜んだ。また、Hの大好きなアニメ「アンパンマン」の中で、「フランケンロボくん」が「釜めしどん」を追いかけてタッチし感電する場面を観てから何となく言えるようになった「タッチ」という言葉も、私と追いかけっこ遊びをする際に頻繁に発する。発語数が増えるのは、嬉しい!私は何回もHと追いかけっこ遊びをしてしまった。

 

    Hの遊びのバリエーションを増やす目的で、「こどもの日」のお祝いの一つとして私の自宅玄関前のスペースに「カメさん砂場」を用意した。この砂場は、娘たちが幼い頃に買い与えたもので、Hが使うと親子2代で使うことになる。初めて「カメさん砂場」を見たHの目は輝いていた。中の砂は滅菌してあるもので、手触りがさらさらとして心地よく可塑性もある。Hは早速、これも事前に買っていた「機関車トーマス」のマークが付いた砂遊び用玩具、バケツや熊手・スコップなどを使って夢中で遊び始めた。スコップを使って砂をバケツに入れては出すという他愛もない砂遊びを、目をランランとさせて何回も飽きずにやっていた。途中で気が付いたように何度もカメの目玉を指さして喜ぶ表情が、何とも愛らしかった。(またまた、じじバカぶりを発揮!)私たちじじばばは、Hの目の中に砂埃が入らないか、腰かけている縁の部分から滑り落ちないか、そんなことばかり気を掛けて見守りつつ、「すごーい。」「上手。」などとHが何かの仕草をする度に称賛の声を掛け合っていた。この日はHが「カメさん砂場」を喜んでくれたのが、じじばばにとって何より嬉しい日になった。

 

    次に用意をしたのは、「5色の粘土セット」。屋外での砂場遊びをいつもさせることはできないことを想定しての妻のファインプレーであった。私が私用で外出した時に、妻はこれも娘たちが幼い頃に使っていた小さいテーブルを出し、その上にまず青と赤の2色の粘土を乗せた粘土板を置いてみたそうである。すると、Hは最初少し怖々と眺めていたらしいが、すぐに触り始めて、その可塑性に魅入られたようである。切る用具で何度も粘土を切って遊び始め、その後ところてん突きで突き出した筋状の粘土を見た時は怖がって逃げ出したそうだが、今では楽しそうに粘土遊びをしている。昨日も2色に加えて黄・黒・白の粘土を出してやると、色の違いが分かったようで順番にテーブルの上に並べていた。さらに、私が粘土を丸めて団子状にすると、大喜びで転がして遊んでいた。

 

    幼児にとって可塑性のある素材と遊ぶことは、楽しいことなのである。特に何かを作るという生産性のある活動をするわけではないが、砂や粘土と一体になって戯れながら遊ぶということ自体に快さを感じるのであろう。その結果として豊かな情操を育むことに繋がる。「幼児にとって可塑性のある素材と遊ぶこと」は、人間にとっての発達的・実存的な意味がきっとあるのだと私は思う。そのようなHの一心に遊ぶ姿を見守ることができる幸せが、私たちじじばばに与えられていることに本当に心から感謝をしたいと思う、今日この頃である。

しばらく当ブログを休みます!

    「平成」と「令和」をまたぎ、世間的には10連休のゴールデンウィークの真っ只中なのに、私は慌ただしい日々を送っている。というのは、「平成」の終わりが目前になってきた先月中旬以降、「教育」に関する講義依頼が複数あり、今、その用意や準備等に追われているのである。

 

    一つ目は、ここ2年間、7月の第2土曜日に開催されていた現職の先生方を対象とした「教育論文の書き方」をテーマとした講義で、今年も依頼があった。今年も引き受けると3年連続になり、テーマの性質上、講義内容は例年とほぼ同様の内容になるので、最初はお断りをした。しかし、担当の指導主事は「参加希望者が多いので、ぜひ今年もお願いしたい。」と、何度も懇願される。私は、それでも「もう賞味期限切れの内容だし、マンネリ化に陥ることになるので、私より若く有能な講師を探してほしい。」と丁重なお断りを入れたが、最後は担当者の粘りに押し切られてしまった。人前でしゃべるのが商売だったせいか、心のどこかで「少しでもお役に立つのなら、引き受けるのはやむを得ないかな」という気持ちがあり、それを見透かされてしまった結果である。依頼を引き受けた以上は、昨年度の内容を多少でも改善して講義に臨まなくてはなるまいと覚悟を決めた。

 

 二つ目は、同じく現職の先生方を対象とした「中堅教員としての心構え」をテーマとした講義で、これは5月中旬の金曜日に開催する予定だと言う。担当の指導主事(先述の指導主事とは別人)は、私が現職の時に市内のある中学校の校長をしていた時の所属職員。半月ほど前に私が市内のある小学校の校長に依頼することがあって訪問した帰りに、たまたまその指導主事も同小学校を来訪していて、駐車場で再会した際に打診があったのである。私としては元部下からの依頼でもあり、教職内容に関する講義なので、安易に「いつでも引き受けるよ。」と安請け合いをしてしまった。その後、数日を経て、電話で正式な依頼があったという次第である。これも依頼を引き受けた以上は、自分なりの教職のキャリアを最大限生かした講義内容にしようと決意した。

 

 三つ目は、高校の同級生の女性からの依頼であった。彼女は元高校の養護教諭で、現在は地元の私立大学の看護科で教鞭を取っている小児看護学の教授。1年生の特別講義で「読解力の育成」をテーマに10回分(前半の5回は5月~7月、後半の5回は9月以降)の授業を担当してほしいとの依頼。私は小学校教諭と中学校・高等学校の社会科教諭の免許状しか持っていないので、「私の専門外だし、荷が重い。」と柔らかくお断りしたが、「いやいや、附属小学校で15年間も教育実習生の指導をした経歴があり、何本かの教育研究論文を執筆したり校長便りを編集した著書(自費出版)も発刊したりしている。その上に愛読家だから読解力は優れていると思う。ぜひ引き受けてほしい。」との熱い説得に、これまた根負けしてしまった。しかし、そうは言っても人に何かを教えるためには、しっかりした教材研究への取組や確かな授業計画の構想、さらにプレゼンや資料等の作成と、その用意と準備等のためには膨大な時間が必要になる。しかも、講義する日取りを考えると時間的な余裕はあまりない。何と無謀なことを引き受けてしまったのだ!つい他人に対してよい顔がしたいという性格が、つくづく嫌になる。しかし、これも引き受けた以上、今まで自分が身に付けてきた読解力を見つめ直し、それとともに読解力について造詣の深い方の著書を参考にして、何とか期待される講義に耐え得るような内容を構成すべく自分なりに理論化しなくてはならない。

 

 …という訳で、「令和」の時代が始まったばかりのお祝いモードのこの時期ではあるが、しばらく当ブログを休むことにした。それぞれの講義に対する用意や準備等に目途が立ち、精神的に多少の余裕ができたら、孫Hの成長ぶりを報告する記事や、上述した講義の内容とその所感をまとめた記事などをアップするかもしれないが、それまではしばらくお休みさせていただく。当ブログをいつも楽しみにしています!などと言う奇特な方はほとんどいないのではないかと思うので、このような「休止宣言」は必要ないかもしれないが、とにかくそのような事情なので、ご容赦いただきたい。

 

    では、再開のその日まで…。See you again.

東京都の地域スポーツクラブに関する調査研究報告書(平成30年度)の内容について

 「東京都の地域スポーツクラブに関する調査研究報告書(平成30年度)」は、東京都の地域スポーツクラブ(以下、クラブ)の実態や地域住民の意識を把握し、クラブの課題解決や会員拡大に向けた基礎資料を作成することを目的に、国立大学法人筑波大学体育系 体育・スポーツ経営学研究室が実施したものである。昨年度の同報告書に引き続き、本年度も本県の「広域スポーツセンター」事業を担っている当事業団宛てに送付されてきた。

 

 そこで今回は、本県の総合型地域スポーツクラブ(以下、総合型クラブ)の抱える課題を鑑み、本報告書の中の特に「クラブの衰退に関する調査研究」の内容概要と私なりの所感をまとめてみたい。

 

 まず、「クラブの衰退要因の調査結果」について。この項目に関する調査は、都内のクラブアドバイザー3名に対するインタビュー調査を行い、クラブアドバイザーが考えるクラブの衰退に影響を及ぼす要因を抽出している。その結果、3名の共通点として、次の7つの項目が挙げられている。

① 新たな事業に取り組む刷新性の低さ

② 幅広い対象に事業展開を行う多様性の欠如

③ 会員間の交流を促す交流性の欠如

④ 会員の参画意識の低さ

⑤ 運営を担っているという当事者意識の低さ

⑥ 他に依存せず自ら計画を立てる自立性の欠如

⑦ 組織間のネットワークの限定性

 

 そして、これら7つの要因を克服するためには、次のような対応策が求められている。

① クラブに対する地域住民や会員のニーズを把握し、それらをクラブに取り入れる手立てを検討するとともに、クラブへの活動に反映させ、活動を刷新していく。

② 子どもから高齢者まで、どの年齢層にも参加しやすいような時間帯を設定するといった多種多様な事業を展開していく。

③ 普段の活動に加え、交流イベントなどを開催することによって、会員間の仲間意識を醸成し、クラブの魅力を高める。

④ クラブの基本理念である住民主体の運営という点を会員に十分説明する。(⑤と⑥の対応策と重複)

⑦ 学校や行政など様々な組織と良好な関係性を構築する。

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 次に、「クラブの衰退メカニズム」について。インタビューでは衰退クラブの特徴として、行政主導であることが挙げられている。行政主導のクラブは運営組織の自立性が失われ、会員のクラブ運営への参画意識・当事者意識が低下してしまう。また、行政以外の組織とのネットワークの構築が行われないことも関係し、新規事業の開拓が行われないなど刷新性が低くなる。その結果、クラブの活動の多様性や交流性が乏しくなり、最終的に活動のマンネリ化や魅力の低下を招き、会員・財務資源・スタッフや指導者・事業数の減少というクラブの衰退に陥るのである。このような一連の衰退プロセスを、どこかで断ち切らなければ復活することは難しい。これらの情況は、本県の多くの総合型クラブにも見られるのではないだろうか。

 

 今後、本県の総合型クラブを行政主導型か住民主導型かで分類整理するとともに、それぞれが抱える課題別のグループを編成し協同して課題解決していくような態勢づくりを工夫する必要がある。そのことが、総合型クラブが存在する各地域住民にとって、生涯スポーツの機会をより保障するとともに、スポーツを媒介とした新たな地域コミュニティーを活性化することにつながるのである。本県の「広域スポーツセンター」として鋭意取り組んでいく所存である。

健康を守るための「腸内環境」の整え方とは…~辧野義己著『大便通』から学ぶ~

 「えっ、これって血便じゃないの!?」

 夜中、自宅のトイレの中で私は初めての下血を経験して、つい不安な気持ちを抑えきれず、つぶやいてしまった。

 

 今から約5年前、教職最後の年度が始まった矢先、本県の教育研究団体の会長に選任されて1週間ほど経った5月中旬だった。前夜、その教育研究団体の事務局の方々が歓迎会を催してくれ、私は勧められるまま盃を重ねてしまい、千鳥足になりながら帰路に着いた。帰宅後、簡単に入浴を済ませ、布団に直行した。あっという間に入眠したものの、夜中にチクチクとした腹痛が襲ってきたので目が覚めた。私はすぐにトイレに向かい、便座に腰を下ろして用を足していたが、その最中にも腹痛が続いていた。そして、便座から腰を上げて、振り向いて覗き込んだ時に、思わず発したのが最初の言葉である。

 

 翌日は土曜日で近くの内科が休診だったので、当日の救急病院であった市民病院へ行き、若い女医さんに診察してもらった。診断結果は、「虚血性大腸炎」。血管の障害によって、腸管の血のめぐりが悪くなることで起きる病気。症状は、腹痛や下血など。重症になると腸管が壊死を起こすこともあり、その場合は早急に手術をする必要がある。幸い私の場合、軽症のようなので取りあえず入院して、点滴で栄養分を摂取しながら治療するとのこと。それから約1週間、私にとっては人生初の入院生活だった。入院期間は慌ただしかった。1週間に県内の3つの教育関係団体の定期総会に来賓として招待されており、そのうち2つは祝辞を依頼されていた。出席の度に外出許可申請書をナースステーションへ提出し、病院着からスーツに着替え、ベッドの上で校正した祝辞原稿を内ポケットに入れて会場へ出掛けた。他の来賓の方から「顔色が悪いが、大丈夫か。」とか「汗が多いが、体調がよくないのか。」とか、心配の声を掛けていただいたが、「大丈夫です!」と見栄を張りつつ何とか大任を果たすことができた。綱渡りのような日の連続で、今思えば、よく乗り切ったなあと思う。

 

 私は小さい頃から便秘気味の体質だった。「虚血性大腸炎」を発症する前も、確か1週間近く便秘の状態だった。それまでも便秘を解消するために、下腹部をマッサージしたり、食物繊維の多い食事を心掛けたりしていた。しかし、その当時は公務上の様々な仕事をこなすためにデスクワークの時間が長く、運動不足も重なって結構ストレスが溜まっていた。その上にもうすぐ還暦を迎える年齢。身体に迫ってくる老化現象を徐々に自覚していた。おそらくこのような心身の状態がいつも以上に便秘の症状を悪化させ、「虚血性大腸炎」を誘発したのではないかと思う。

 

 そこで、私は便秘を解消する方法についてしっかり勉強しようと、近くの書店で適切な本を探した。その際に見つけたのが、辧野義己氏が著した『大便通~知っているようで知らない大腸・便・腸内細菌~』であった。本書を読みながら、普段テレビの健康番組で聞いたことがあった「腸内環境」に関する知識を再認識しながら、その学問的な裏付けも知ることができ、学ぶべきことがたくさんあった。今回は、その中で特に健康を守るための「腸内環境」の整え方について、私なりにまとめてみたいと思う。

 

 自らの健康状態を知らせる体からの「便り」である大便は、一般的には80%が水分で、それ以外の20%は固形成分である。その固形成分の内訳は、食べカス、腸粘膜、腸内細菌が3分の1ずつを占めている。その腸内細菌は、「善玉菌」「悪玉菌」「日和見菌」に分類され、それぞれが機能し合って腸内の環境に大きな影響を及ぼし、それが健康を左右するのである。特に大腸を発生源とする病気、例えば「大腸がん」や「潰瘍性大腸炎」、「虚血性大腸炎」などを防ぐには、「日和見菌」が「悪玉菌」と連立政権をつくるのを食い止め、腐敗を起こしにくい環境に腸内を整える必要がある。そのためには、腸内で「善玉菌」が優勢になり、発酵を起こすような環境に仕向けなければいけないのである。

 

 マスメディアによる健康番組の影響で今では常識的になっているように、「善玉菌」を増やすのに有効なのはヨーグルト。乳酸菌やビフィズス菌をそのまま摂取できるので、効率よく「腸内環境」を改善できるのである。また、その乳酸菌やビフィズス菌のエサとなり、大便が腸内に滞在する時間を最適にする働きもある食物繊維の多い食べ物を摂取することも大切である。食物繊維の多い食べ物と言えば、サツマイモや山芋などのイモ類、大豆や枝豆などの豆類、玄米やひえなどの穀類、カボチャやゴボウなどの野菜、椎茸やしめじなどのキノコ類、ひじきやメカブなどの海藻類、干し椎茸やきくらげなどの乾物、アーモンドや落花生などのナッツ類、リンゴやバナナなどの果物を挙げることができる。また、漬け物や納豆などの発酵食品も「善玉菌」を増やすのに役立つ食べ物である。「虚血性大腸炎」を発症して以来、私は妻とも相談して上述したような食べ物をなるべく摂取するように、食生活をさらに改善した。しかし、それ以後もやや便秘気味な状態が続いていたので、食生活の改善とともに大便を押し出す腹筋や腸腰筋という筋力が衰えないように、日常的にウォーキングやストレッチなどの軽い運動や週末にはテニスを実践している。そのお陰で何とか今は、少しずつ便秘の症状が改善している。

 

 今回の記事は、私が「虚血性大腸炎」を発症したことを契機にして、辧野義己著『大便通』を読み、そこから学んだことを実践したことで少しは「大便・通」になり、健康的な「大・便通」になりつつあるという内容。便秘症の皆さんに多少でも参考になれば幸いである。

たまにはエッセイ集を読むのも、いいなあ…~南木佳士著『からだのままに』を読んで~

   なかなかエッセイ風の文章が書けない!題材によってはどうしても論文的な文章になるのはしかたないとして、それ以外の題材でもついつい硬い文章になってしまう…。当ブログの記事を書く際、なるべくエッセイのように肩に力の入らない気軽な文章にしようと思ってはいるのだが、いざ書き始めるとなかなか思うようにならない。「文才がないのだから仕方がないだろう。」と言われれば一言もないが、少しでも改善する方法はないものかと日々悩んでいる。

 

 そんな時、私の書棚に入っている南木佳士氏の著作で芥川賞の受賞作『ダイヤモンドダスト』をはじめ『阿弥陀堂めぐり』や『エチオピアからの手紙』、『冬物語』などの小説と並んで『からだのままに』というエッセイ集を見つけた。確か、よく立ち寄る古書店で数か月前に購入して、書棚に入れたまま未読だったのを思い出した。芥川賞作家のエッセイ集だから、私の日頃の悩みを解消する何らかのヒントを与えてくれるに違いないと手に取った。

 

 著者は現在、長野県佐久市に妻と共に住み、佐久総合病院の内科医として勤務するかたわら、作家として地道な創作活動をしている。本書の「浅間山麓で書く」というエッセイの中に、小説を書こうと思った事情が書かれている。それによると、そもそも彼が小説を書いてみようと思い立ったのは佐久平の病院で内科の研修医を始めて2年ほど経ったころ、重症の患者さんの死に立ち会う回数が増えてくるにつれて、人が死ぬ、というあまりに冷徹な事実の重さに押しつぶされてしまいそうで、このつらい想いを身のうちに抱えては生きゆけないと明確に意識し、自己開示の手段として小説を選んだそうである。そして、医者になって4年目に、『破水』で第53回文學界新人賞を受賞し、作家の仲間入りを果たしたのである。彼は38歳の秋、パニック障害を発病し、以後、数年間うつ病どん底に沈む体験をしている。それだけ繊細な神経の持ち主なのであろう。当ブログで医者のことを批判的に書いた記事を以前アップしたが、その時に私がイメージした医者像、つまり患者に対する共感性に乏しい医者像ではなく、彼は豊かな感受性をもつ心優しき医者なのである。

 

 さて、本書を読んで私の心が強く揺さぶられたことや参考にしたいと思ったことを、簡単な所感を添えて書いてみよう。

 

 本書には16のエッセイが所収されているが、その中で私が最も心惹かれたのは「老いた母」である。著者が3歳の時、実母は肺結核で亡くなったので、母方の祖母が「老いた母」として著者を育てた。質素で平凡で、他人の悪口を言わずに営んでいた静かな暮らしの中、地位や名誉とは無縁の場で最後までみなに慕われた祖母に育てられたことを、著者は心の底から感謝している。本エッセイは、祖母の人柄や祖母との暮らしぶりなどが、具体的な事例を交えながらさり気なく綴られているが、短い文章の中に著者の感謝の気持ちが満ち溢れていて、読み手にその思いが確かな手応えをもって伝わってくる名文だと思う。私もこのようなエッセイを綴ってみたいものである。

 

 次に、私が特に参考にしたいと思ったエッセイは「信州佐久平に住む」である。前半は、著者が文學界新人賞を受賞した30歳頃の本の出版にまつわるエピソード。後半は、司馬遼太郎が著した『街道をゆく』シリーズ第9巻の「信州佐久平みち」というエッセイを取り上げて、地勢と人の歴史とのかかわり合いについての優れた描写力を称賛している。当ブログも、題材に応じた本を取り上げてその内容を紹介する記事が多いのだが、私の文章はとうてい芥川賞作家が綴ったエッセイの足元にも及ばない。特に取り上げる本やその著者についての記述方法をもっと工夫する必要があると、このエッセイを読みながら自戒した次第である。良質のエッセイをモデリングしながら、自分なりの文章力を高める努力は怠らないようにしたい。

 

 「学ぶとは真似ること」という言葉をよく聞く。何事もよい見本となる人の為すことや語ることなどを「真似る」ことから、「学び」は始まる。そのために、まずは良質のエッセイを読むというインプットにもう少し時間を割きたいと考えている。その上で、私なりの独自性が滲み出るようなアウトプットの方法を見出していきたいものである。

 

 「たまには、エッセイ集を読むのもいいなあ…。」

約20年前にチャレンジした「小学校教育の大改革!」の内容とは…(2)~地元の国立大学教育学部附属小学校の研究開発内容の概要~

   前回は、私が現職の時、地元の国立大学教育学部附属小学校に勤務していた頃のことを記事にした。今から約20年前、文部省(当時)から研究開発学校を委嘱されて取り組んだ「小学校教育の大改革!」とも言うべき研究内容の概要の一部を紹介したのである。

 

 そこで今回は、前回紹介した8つの「学習領域」の各「活動単元」の学習において、子どもたちの活動をどのように評価し、通信簿はどのような内容や形式等にしたのかを報告したい。

 

 まず、「活動単元」の学習において私たちが大切にしたのは、子どもたち自身の「自己評価力」をいかに高めるか、そのために教師はどのような支援をしたらよいかという研究視点であった。子どもたちが課題意識をもって主体的・能動的に「自己活動」している時、その内面では自然に「自己評価」をしているものである。そして、「自己活動」の内質がより高まるためには、「自己評価」が自己中心的な思いや考えにとらわれず「他者評価」を受け入れることで「自己評価」を相対化して適切に機能させる必要がある。そこで、教師は子どもの「自己活動」をよりよい方向へ導くために、有効な「他者評価」、例えば承認や激励等の言葉掛けを行ったり、環境や他者への豊かなかかわり合い方を示唆したりすることが求められるのである。この際、私たちが気を付けたのは、教師があらかじめ子どもたちの「自己活動」の様態を固定的にとらえ、その望ましい姿を強制的に実現しようとしないこと。言い換えれば、「今、ここ」における子どもたちの「自己活動」の様態をあるがままとらえつつ、その時その場の情況に応じた有効な「他者評価」を行い、それに基づいて子どもたちへ適切に働き掛けることである。言わば、現象学的なアプローチによる教師支援の具体化であった。実際には大変難しい教師支援の在り方である。しかし、私たちは子どもたちに「よりよい自分を形成し、ともに生きようとする力」を真に育むために、労を惜しまずに取り組んだ。その結果、私たちの願いが少しずつ子どもたちの姿に反映して実現化していった。今でも、あの頃の充実感や成就感に満たされた気分が蘇ってきて、胸が熱くなる。

 

 次に、研究開発における評価研究のもう一つの柱は、通信簿「あゆみ」の改善であったので、その内容について書いてみたい。ほとんどの学校は通信簿もしくは通知表を活用して、子どもの学校での生活や学習の様子を家庭にお知らせしていると思う。しかし、現在でこそ絶対評価を重視しているが、当時の学校においては特に「学習の記録」に関して相対評価に偏り過ぎていたために序列化とラベリングを生み出す恐れがあった。また、学校から家庭への一方的な評価情報の伝達にとどまり、教師と保護者との相互作用が不十分であった。そこで、通信簿の意義と機能に関して次のように規定した。「通信簿は、児童の自律的な人間形成に資するために学校が独自に作成する、学校と家庭の相互作用の機能とともに、児童の〈自己評価〉とその相対的視座になる〈他者評価〉の機能を有する連絡及び記録文書である。」こ の規定に基づき、改善を重ねて研究開発期間の3年間で最終的に作成した内容は、やはり「小学校教育の大改革!」と呼ぶのに相応しいものになった。

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 上表は、当時の通信簿「あゆみ」の一部である。一般に現在の通信簿に位置付けている「学習の記録」は、各教科の観点別評価項目ごとに到達したかどうかの符合が付けられているが、「あゆみ」は「活動の様子」として「学習領域」を明示した「活動単元」名ごとに「活動を振り返って」という欄があり、それぞれに子どもが「よくがんばった」「がんばった」「もう少し」という3段階評価を付け、その右欄に記述式の「自己評価」を書くようになっている。また、「○学期を振り返って」という欄には、○学期における8つの「学習領域」の中で特筆すべき活動の様子について教師が記述する「他者評価」を書くようになっている。さらに、「家庭から」という欄には、保護者からの返信内容を書くようになっている。今思えば、教師にとっては手間暇のかかる通信簿だったと思う。しかし、当時は本研究開発の趣旨を生かしたよりよい評価の在り方だと認識して取り組んでいたので、私たちはストレスとして感じることは少なかったと記憶している。やはり教育的な意味や価値を見出している教育活動は、量的に多少負荷がかかる業務であっても教師は楽しく仕事ができるものなのである。昨今の教員の「働き方改革」の内容を見ると、単に教員の勤務時間や業務量にばかり目が奪われているようだから、現在だったら「あゆみ」のような通信簿は採用されないのではないだろうか。しかし、私としてはもっと教師の「生きがい」や「やりがい」という自己実現的な視点にも目を向けてほしいと思う。

 

 まだまだ書き加えたい研究内容はあるが、読み手の立場を考えれば、そろそろ筆を擱くのが妥当な分量になった。ただ、どうしても最後に付け加えたいことであるので、それを記して終わりにしたい。それは、私が本研究開発の責任者として文部省(当時)へ出向いて、研究開発内容のプレゼンをして終わった後にある教科調査官が労いの言葉を掛けてくださり、最後にさりげなく言われたことである。

 

 「この研究開発内容は、時間的に少し早すぎたかも知れません。20年後には、多くの方から高い評価を受けるのではないでしょうか…。」その約20年後に、苫野一徳氏が著した『「学校」をつくり直す』が刊行されたのは、何か運命的な巡り合わせのような気がしている。

約20年前にチャレンジした「小学校教育の大改革!」の内容とは…(1)~地元の国立大学教育学部附属小学校の研究開発内容の概要~

   前回と前々回の記事で、苫野一徳氏が最近著した『「学校」をつくり直す』から学んだことをまとめた。その提案内容の概要についてはそれらの記事に目を通してほしいが、敢えて思い切って要約すれば、次のようなことになる。

 

 今までの学校教育のシステムは限界になっているので、これからの学校教育は「探究」(「学びのプロジェクト化」)を核としたカリキュラムを編成し、基礎学力を身に付ける学びについては「ゆるやかな協同性」に支えられた「個」の学びを保障するようなシステムに転換していくべきである。

 

 私は著者のこのような提案内容に対して基本的に賛同する立場から、学校現場の改革に期待を寄せる記事を書いた。それと言うのも、今から約20年前に私が地元の国立大学教育学部附属小学校に勤務していた時に、文部省(当時)から研究開発学校を委嘱されて取り組んだ研究の根底を支えた教育観や学習観等の基本的な考え方は、著者の提案内容と同様な視点に立っていたからである。当時、私は研究開発推進の責任者であり、その基本構想や研究方針等を提案する立場だったという経験があるので、本書を共感的に読み進めることができたのである。

 

 そこで今回は、今から約20年前にチャレンジした「小学校教育の大改革!」の内容概要を紹介したい。当時(平成9年3月)、文部省に提出した「研究開発実施報告書」等の内容は膨大なものなので、当ブログではその骨子について今回を含めて2回に分けて綴ってみたいと考えている。

 

 まず、私たちが育てたい学力と規定したのは、「よりよい自分を形成し、ともに生きようとする力」であり、それは「(環境や他者と)かかわり合う力」を中核とした「問題解決力」と「自己評価力」という下位学力が支えると構想した。そして、そのような学力を育てるためには、「ともに生きる〈場〉」を保障する柔軟で弾力的なカリキュラムを開発する必要があると考えた。「ともに生きる〈場〉」というのは、「子どもが環境や他者とかかわり合いながら、対自的・相対的な〈自己活動=自己評価〉をして、よりよい方向で経験や認識を再構造化するような情況」という一般的にはやや馴染みにくい表現をして定義付けをした。というのは、「ともに生きる〈場〉」の概念が本研究開発のキーコンセプトになるので、明確な概念規定をしておく必要があったからである。

 

 次に、私たちが大切にしようとした学びの経験は、子どもたちの関心・意欲に基づく活動や問題解決的な活動等を中核として、環境や他者とのかかわり合いを構想した単元(これを「活動単元」という)による学習、つまり子どもが課題意識をもって主体的・能動的に活動する授業の学びである。これは、知識や技能等の基礎的基本的な内容を到達目標として設定し、それを段階的に指導する過程を構成する単元(これを「内容単元」という)による勉強、つまりそれまでの学校教育における子どもが受け身で受ける授業の学びではない。そして、本研究開発において重点的に取り組んだ「活動単元」による学習は、基本的に子どもの現実的な課題意識に基づいた「総合的な学習」として構想したものであり、各教科等の学習内容を総合的・関連的に取り扱うプロジェクト型の学びだったのである。この点、苫野氏が提案している「探究型の学び」(学びのプロジェクト化)とほぼ同義なのである。

 

 したがって、当初は教科等の枠組みを一端取っ払って、全ての「内容単元」を「活動単元」に構想し直す研究作業を行った。もちろん今までの「総合的な学習」の実践成果を踏まえて、あくまで仮説としての「活動単元」を創造していったのである。そして、実際の週の時間割は教科等名で表示するのではなく、現在進行中で実践している「活動単元名」で表示していた。しかし、やはりカリキュラムを構成する緩やかな枠組みは必要なので、領域名としては従来の「教科等」ではなく、新しい枠組みとしての「学習領域」を作った。因みに、その名称は「たんけん・冒険の学習」「しらべ、調査・研究」「育ての学習」「創造の学習」「習いの学習」「運動の学習」「交流の学習」「働く学習」の8つであった。また、これら以外の主に学校行事に関連する活動は「みんなの時間」と称して、カリキュラムに位置付けた。一般の方々にはちょっと想像しにくいことかもしれないが、教育関係者であればこのチャレンジは「小学校教育の大改革!」と言っても言い過ぎではない取組だったのである。

 

 次回は、上述の「活動単元」による学習に対する評価をどのようにしたのか、通信簿はどのような内容や形式等にしたのかなどについて、少し詳しく報告してみたいと考えている。

小学校をもっともっと幸せな環境にする道筋とは…(2)~苫野一徳著『「学校」をつくり直す』から学ぶ~

 「みんなで同じことを、同じペースで、同質性の高い学級の中で、教科ごとの出来合いの答えを、子どもたちに一斉に学ばせる」という今日の学校教育のシステム的な問題を解決する一つの方向性が、「探究」をカリキュラムの核にすること、つまり「学びのプロジェクト化」である。これが、前回の「小学校をもっともっと幸せな環境にする」道筋の前半で要約した概要である。

 

 そこで今回は、その後半として「ゆるやかな協同性」に支えられた「個」の学びの視点から著者の提案をまとめながら、私なりの簡単な所感を加えてみたい。

 

 著者の提案に対する現場の教師からの心配や批判の一つに、「基礎学力と言われる読み書き算の学習内容は、探究では十分身に付かない。また、基礎学力の格差が大きくなってしまう。」という声が必ず起こると思われる。それに対して、著者はおおよそ次のようなことを述べている。

 

 でも、一斉に「黙って座って先生の話を聞く」スタイルで子どもに勉強させる必要はない。つまらない授業や、時間のムダに思われる授業、またついていけない授業などを、ただおとなしく聞いているだけなんて、子どもたちにとって拷問みたいなものである。だから、これを「個別化」していこうと言い続けている。つまり、子どもたちがもっと自分のペースで、自分に合ったやり方で、また自分に合った教材で学ぶようにする。例えば「出来合いの問いと答え」の内容であっても、このように学びを「個別化」すれば、子どもたちの学習意欲は大いに高まり、その到達はより十分に保障されるはずである。ただし、この「個別化」には必ず「協同化」をセットにする必要がある。つまり、先生や友達の支えがやはり必要なのである。分からないことがあれば、気がねなく先生や友達に助けを求められること。困っている友達がいれば、さりげなく助けに行けること。このような「協同性」は「相互承認」の感度を育む意味でもとても重要なことである。また、今までの日本国内外の先進的実践の成果を検証すると、学びの「個別化」と「協同化」の融合が、学校でのムダな時間を圧倒的になくすことができるのは間違いない。

 

   このような内容に対して、またしても現場の教師からは「学習指導要領は、第何学年で何を学ばなければならないかということが規定されているので、現実的には無理ではないか。」という反論をされると思う。それに対しては、著者は次のように述べている。

 

 2016年から始まった、いわゆる小中一貫校の一つである「義務教育学校」においては、この規定がすでに緩和されている。例えば、「義務教育学校」では九九は2年生で、ひし形や台形は5年生で、といった縛りがない。学習指導要領の内容は、義務教育9年間を通して学びとればいいとされているのである。また、地方の小規模校には、異学年の複式学級がすでにたくさん存在しており、学びの「個別化」と学年を超えた「協同」を可能にする条件が整っている。小規模校でこそ、ぜひ、学びの「個別化」と「協同化」の融合にチャレンジしてほしい。

 

 私は上述した著者の提案内容について、最初は半信半疑であった。しかし、現職の時に勤務した地元の国立大学教育学部附属小学校や、山間部・島しょ部のへき地小規模校等の実態を振り返ってみると、かなり現実性のある提案ではないかと思うようになった。ただ、実践する場合の教師の役割はどうなるのかと疑問をもった。その疑問に対しても、著者はおおよそ次のように考えている。

 

 「探究型の学び」の場合、教師は子どもたちの「探究」をサポート、ガイドする「協同探究者」「探究支援者」になる必要がある。教師は「答え」を持っている人である以上に、子どもたち自身が仲間や先生の力を借りて立てた“問うに値する問い”に答え抜く際の、頼れる探究支援のプロである必要がある。また、学びの「個別化」と「協同化」の融合の場合は、時と場合に応じて、人の力を借りたり、人に力を貸したりできる学びの環境を整える。そんな学びのダイナミックな学び合いの力を、最大限発揮できるように教師は学びの環境をデザインするのである。

 

   私はこのような教師の役割は、実際は大変高度な力量が必要だと思う。子どもたちの「探究的な学び」や「個別的で協同的な学び」を支援するというのは、一見すると楽なようにとらえられるが実はそうではない。かなり広範で高度な知識を有し、しかも一人一人の学びの内質を的確に把握した上で、適切な支援を行わなければならないのである。とすれば、著者の提案している内容を学校教育で実践するためには、教師自身がそれを可能にするための資質・能力を高める研修を積むことが不可欠である。また、今までの教員養成の在り方についても抜本的に改善していく必要があるであろう。でも、それらの困難な課題を抱えているとは言え、「小学校をもっともっと幸せな環境にする」ために、著者の提案している内容の実現化へ向けて学校現場が一歩一歩着実に進んでいってほしいと、私は強く願っている。

小学校をもっともっと幸せな環境にする道筋とは…(1)~苫野一徳著『「学校』をつくり直す』から学ぶ~

 以前に私が高い教育的な関心をもって読んでいた『どのような教育が「よい」教育なのか』と『教育の力』の著者・苫野一徳氏が、最近『「学校』をつくり直す』という新書を発刊した。本書は、システムとしての学校教育の在り方を問い直し、「小学校を、本気で、もっともっと幸せな環境にする」道筋を明らかにする目的で書かれた本である。長年、小学校に勤務してきた私としては大変気になる本だったので、早速購入して読んでみた。私が常々、今までの学校教育のシステム上の課題だと思っていたことの解決策について具体的かつ要領よくまとめている上に、その根拠になる新たな教育学的な知見や先進的な取組事例等も紹介されており、私にとって学ぶべき点が大変多かった。

 

 そこで今回は、本書から学んだことのエッセンスをまとめながら、著者の考えている小学校をもっともっと幸せな環境にする道筋の前半を私なりの所感も交えながら明らかにしていきたい。

 

 まず、著者は今、学校が抱えている問題の本質について、次のような指摘をしている。

 

 公教育が始まって約150年、学校教育は「みんなで同じことを、同じペースで、同質性の高い学級の中で、教科ごとの出来合いの答えを、子どもたちに一斉に勉強させる」というシステムで運営されてきた。しかし、そのシステムが今、限界を迎えている。例えば、「落ちこぼれ」・「吹きこぼれ」、「小1プロブレム」、「体罰」、「いじめ」などの問題は、主に今までの学校教育のシステムが起因になっている。

 

 次に、そのシステムを転換するために求められる公教育の本質と、それを踏まえた上で問うべき実践的な課題を、次のように提起している。

 

 公教育の本質は、全ての子どもに「自由の相互承認」の感度を育むことを土台に、全ての子どもが「自由」に生きられるための“力”を育むことである。そして、私たちが問うべきは、学校はどうすれば「自由」と「相互承認」を実質化できるかという問いであり、これをより具体化すると、① 現代において「自由」に生きるための“力”は何か? ② その“力”はどうすれば育めるのか? ③ 「自由の相互承認」の感度はどうすれば育めるのか?の三つの問いになる。

 

 上述の公教育の本質については、前回の道徳教育に関連した記事においても触れた内容であり、これからの公教育を支える根本的な学力観とも言える。また、三つの実践的課題については、教育実践を進めるに当たって当然問われるべきものであり、これからの学校教育の具体的方略に当たるものなのである。

 

 では、特にこの三つの実践的課題の中の①と②への対応策について著者が提案している内容を、私なりに思い切って要約してみよう。

 

 一つ目の問いについては、一言で言えば「探究する力」である。次に、二つ目の問いについては、「探究する力」を育むために学校教育においては今までの学びから「学びの個別化・協同化・プロジェクト化の融合」への転換が必要になる。特に、カリキュラムの中核を「プロジェクト」あるいは「探究」へと転換すること。言い換えれば、出来合いの問いと答えばかり学ぶ学びではなく、「自分(たち)なりの問いを立て、自分(たち)なりの仕方で、自分(たち)なりの答えにたどり着く」という「探究型の学び」への転換であり、それを実現するためには、学校教育における学びを「プロジェクト化」していく必要がある。具体的には、「探究」を中核にした時間を小学校でも全体の時間数の4~6割くらいの時間は確保してほしい。

 

 かなり大胆な提案である。現場の教師からは当然、様々な問題点が指摘されて実施の不可能性を主張するであろう。著者はその様々な問題点を想定して、解決していく基本的な考え方や方策等について丁寧に説明しており、私としてはかなり納得する部分が多かった。特に現行の学習指導要領における様々な教科を横断した「合科的・関連的指導」の趣旨や、新学習指導要領の目玉の一つである「カリキュラム・マネジメント」の趣旨を生かせば、「探究」を中核にした時間を4割くらい確保することが可能であることを論証している部分はとても説得力がある。今後、各学校で前向きに取り組んでくれることを私は心より期待したい。

 

 なお、次回は今回に引き続き、著者が考えている小学校をもっともっと幸せな環境にする道筋の後半を、「ゆるやかな協同性」に支えられた「個」の学びの視点からまとめてみたいと考えている。